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7/4 テレビは死んでない

「天才編集者・箕輪厚介氏」。もう世間的には関心が薄れた話題かと思いますが、単に一時の事象として右から左に流してしまうのは惜しいなと思うため、自分なりに振り返っておきたいと思います。

箕輪さんのセクハラ問題については当人同士から話を聞いた訳でも、現場に居合わせた訳でもないので、正直なところよく分からない。ただセクハラは200%悪だ。それは間違いない。しかしながら、お互いが自分のことだけを主張し合うなか、何の関わりも無い我々が週刊誌の記事を読んだだけでアレコレ好き勝手言って判断して良いものかも、私には分からない。

(あくまで個人的な話だが)ただ1つ言えることは、私は箕輪さんの本を面白く読んでいたし、別のオンラインサロンを通じて箕輪さんの本への向き合いというのをとても好意的に思っていた。それだけだ。だから、「セクハラは良くない」という世間でテンプレ的に語られ過ぎた内容ではなく、ごくごく個人的な箕輪厚介評をしておきたいと思った。

そう思ったのはこの記事を読んだことが影響しているかもしれない。

・差し止めになった本の行方は?
・オンラインサロンと新興宗教の結びつけて良いものか?
・「天才編集者」の「天才」を演出したのは誰?
・出版人としての矜持と販売部数
・テレビは死んでない

差し止めになった本の行方は?

まず私が気になるのはこれです。本の中身はどこいったんだよ?これね、どこか幻冬舎以外の出版社で本にしないのかなと思っていたのですよ。これだけ話題になった内容だし、そもそもある程度は書き上げていたのですよね。だったら、(素人考えだけど)改めて関係者と調整したうえで発売したらいいじゃないかと。しかし、原稿を読んだ見城氏の評価が良くなかったという話がある。

「見城さんが『全然伝わってこない』『箇条書きみたいでストーリーになってない』と言っていることを箕輪さん経由で知りました。箕輪さんからは褒めていただいていただけに、すごくショックでした」(引用元

今の時代、選ばれた人だけが本を書ける訳では無い。それでも、大手出版社を介して本を出すということが、とてもハードルが高いことだというのは今も変わらないはず。組織である以上、自分以外の誰かが「出版するか/しないか」の判断を下す、それもまぁ当然でしょう。私は原稿を読んだ訳ではないのでクオリティどうこう言えませんが、トップである見城氏がこれは出版するに値しないと判断した。それが1つある事実です。確かに、それがとてもキツイ言い方だったのだろうと想像しますが、(直ぐには)本が出せないことは致し方ないことのように思います。

ライターA氏は「出版前提で依頼された」とのことですが、恐らくどこかで話が食い違っていたんですよね。こういう「言った言わないの水かけ論」はどの業界でもあることなので残念な話だなと思いますが、本を出版することに熱意があったのであれば、せっかく書き上げた内容をnoteで1章ずつ有料配信してもいいし、クラウドファンディングで自費出版したっていい。箕輪さんとの関係が崩れていなかったら、そういう「何とかしてでも出版してやる!」という編集者の熱意のもと、全く別の良いストーリーにもなり得たのかなと妄想してしまいます。

他の出版社で出そうとすると、業界の論理とか人間関係とかシガラミとか、幻冬舎が手を付けた案件を拾うなんてとんでもない、とかなのかもしれないけど、箕輪さんだけを批判して終わるくらいならライターA氏の本だけでも何とか世に出せば良かったのにと思う。

オンラインサロンと新興宗教の結びつけて良いものか

オンラインサロン、ここで言えば箕輪編集室が新興宗教でないことは、
多くのサロンメンバーがこの状況に口を噤んでいる状況から明らかではないか。仮に組織が新興宗教のように機能しているのであれば、多くの人が教祖である箕輪氏を擁護し、非難する人たちへの攻撃を始めたように思う。

しかし箕輪編集室がそうならなかったのは、単に「箕輪編集室を利用して俺もインフルエンサーになってやろう!」という、至極打算的な会員が多かったからだと私は想像する。私はそれを批判したいのではなく、むしろ当然だと思っている。打算的がゆえに、多くの人が組織に属していることの価値が高いことを”外部に誇示し演出する”ことである意味箕輪さんを利用していたという風に捉えることができる。だから、多くの人が事件を機にTwitterの自己紹介欄から「箕輪編集室所属」という文字を消したことも、なんら不思議に思わない。そこに価値を見出せなくなったからだろう、きっと。

「天才編集者」の「天才」を演出したのは誰

以下の文章は冒頭に紹介した記事にあった一文だ。

箕輪氏は自ら「キャラクター化」することで、自身のビジネス規模を拡大してきた。お笑い芸人やポップミュージシャンのように、自分の人格を極端にデフォルメしたキャラクターを作り上げてメディア上で展開し、物語を生むことで、手掛ける仕事をスペクタクル化してきたわけだ。「俺自身がインフルエンサーになったら最強じゃん」という考え方も、そういった戦略プロセスの一環であると言える。

みんなで作り上げたキャラクターが「天才編集者・箕輪厚介」だ。本当に天才だったかどうかなんて考えることに意味はないだろう。

私は、宇野常寛さんが主宰する「PLANETS CLUB」というオンラインサロンに加入している。数あるコンテンツの中に、宇野さんとゲストが対談する番組があるのだが、私は宇野さんと対談する箕輪さんが好きだった。対談中だけどハイボールを飲んでしまうとか、気にせずスマホを弄っているとか、無邪気に宇野さんと話している箕輪さんは、おそらく一般的な編集者としての姿だったろう。やれ、NTV「スッキリ」生放送中にスマホを弄っているのがケシカランとか、そんな些細なことはどうでもよくて、彼は編集者として十分に仕事をしていたと思う。「遅いインターネット」という本は読まれただろうか?私はその本を世に出してくれたことを感謝している。つまり、箕輪さん(もちろん宇野さんも)の仕事に感謝をしている。

しかしながら、以下のような評価が一般的になされていることがとても哀しい。

見城徹が角川春樹のデッドコピーに過ぎないように、箕輪厚介もまた見城徹のデッドコピーに過ぎない。そしてコピーを重ねるたびに、仕事における厚みのレベルは下がっている。実際、出版業界の少なくない人々、特に人文的な領域に足場を持つ人々は、箕輪氏の存在や仕事をとるに足らないもの、相手にする必要もないものと思っている節があるように感じる。あんなものは自己啓発書まがいのフェイクでチープなエンターテイメントに過ぎない、と。(引用元

出版人としての矜持と販売部数**

多くの出版人が箕輪さんの仕事を、ひいてはNewspicks Booksを取るに足らないものと評していたのは知っている。しかし、それは彼の一面しか見ていないもので、「遅いインターネット」のような書籍を著者とともに書き上げることだって出来る編集者であった。昨今は書かれた文章をろくに読みもせず思い込みだけで判断してしまう人がいるから、彼が出した本の全てをフェイクでチープだと批判する人もいるのかもしれないが、彼はテレビの画面越しに見えるようなノリだけで生きている人ではないのだ。

販売部数だけが正義だとは思わないが、本が売れないことを世間の不勉強のせいにしたり、単に世間を扇動しているだけと箕輪さんを非難するものそれはそれで違う。あれだけ目立っていれば気に入らないのは分かるが、箕輪さんが一線を退いてしまったことで出版業界が「このままで良いんだ」「やっぱり彼のやり方は間違っていた」と勘違いしてしまうのは全く良くないと思う。

世の中が「セクハラをしてしまった箕輪さん」と「編集者としての箕輪さん」を分けて考えてくれるとは思わないが、後者についてはしっかりと評価するところはして、彼が作った流れの良い部分は引き継いでいった方がいいし、そうして行って欲しいと思う。

全てが「表」に出てしまう時代

今回の文春騒動で明らかになったように純にクローズドなコミュニティなど有りはしないだろう。オンラインサロンのような会員制コミュニティには、知りたいと思い自ら行動した人だけが加入できる。興味が無い、知りたくない人は敢えてお金を払ってまで加入しない。そうなんだよ、気に入らない人が運営しているコミュニティには近づかなければいいだけだ。

しかしながら、彼の場合は目立ちすぎたが故に、本来彼のことを知らなくてもいい人まで彼のことを知ってしまった。文句を言いたくなってしまった。どこで知ってしまったのか?それはテレビだ。

テレビは死んでない

テレビの影響力というのは全然落ちていない。むしろ、テレビは人を殺してしまうのは相変わらず変わってない。それは広告の仕事をしていても思う。確かに、出稿金額ではデジタルに抜かれたかもしれない。しかし、一瞬で多くの人にリーチできるメディアとしての力はあまり衰えていないように思う。

箕輪さんも「スッキリ」に出たことが1つの転換点になったことだろう。彼のことを知らなくても良い人たちにまでリーチしてしまったというのは、決してプラスに働いていないように思う。正直なところ、少し有名になり始めた人をテレビに引っ張り出そうとする情報番組制作者に対して疑問を抱く。番組制作者側からすれば「時の人」を出せばそれなりに数字が稼げるから良いんだろうけれど、最悪なのは彼らにとって代わりなんていくらでもいるということだ。新しい人もどんどん出てくる。だから、箕輪さん1人がズッコケタところでどこも痛みはしないし。次を探すのが手間だなくらいだろう。

しかし、彼はこれからも生活して行かなくてはならない。妻も子供もいる。だったらセクハラなんてすんじゃねーよ!ということではあるのだが、番組出演者が抱える大きなリスクを(反対に得られるベネフィットも多いことは事実だが)制作側は彼らに転嫁し過ぎてはいないだろうか?

テラスハウスに出演していた木村花さんがネット上の心無い言葉で亡くなられたように、番組制作者側は出演者に対しての向き合い方を改める必要があると思う。そうせざるを得ない要因はネットがこれだけ我々の生活に深く入り込んでしまったことにある。

テレビにとって、ネットは無限にネタを生み出してくれる便利な箱くらいにしか思ってないだろうけど、出演者、それはタレントだったり芸人だったり大学関係者だったり多様な訳だが、人の一生を左右しかねない恐ろしいことを平気でやっているようにしか見えず、純粋にテレビを楽しめなくなった。

いち視聴者として、テレビメディアに近い立場にいる人間として、岐路にいるよなと思う。



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