落ちる愛、は、堕ちる愛
幸せになる勇気 No45 始まりの終わり
「そんな思想など、汚水をすするドブネズミにでも食わせておくがいい!!」
そんな例え聞いたこともない…。こんな例えをする程、青年を追い詰めたのは、哲人の、
恋に落ちることは、「本質的には物欲と同じ」という言葉でした。
落ちる愛の本質
恋(愛)に落ちることは”あり得るでしょう!!”と迫る青年に、哲人は、その恋(愛)を、どうしても欲しい二眼レフカメラに例えます。
ふと見たショーウィンドウにあった二眼レフカメラに恋をする。どうしても欲しい、手に入れたい。「目を閉じればその姿が思い浮かび、耳の奥にはシャッター音さえ聞こえてくる」、それほどに欲しくなるその相手を、実際に手に入れてしまったら?
「半年としないうちに飽きてしまう。どうして手に入れた途端に飽きてしまうのか?」それは…
「それを獲得し、所有し、制服したかっただけなのです。…あなたの語る”落ちる愛”は、この所有欲や征服欲となんら変わりがありません」
うーん、青年が「ドブネズミに」と言ってしまったのもわかる。実に理解、イメージはできるが、感情的に受け入れがたい哲人のスマートすぎる例え…。
では、なにが本質なのか?
結ばれた後の関係
哲人は、映画に例えます。
青年の”愛”は、まさしく苦しい愛の物語を描いた映画の劇中の状態
一方、本当に注目すべきは、
「映画のエンドロールが終わったあと、ふたりが結ばれたの”関係”」
と哲人は言い、アドラーが一貫して説き続けた能動的な愛の技術について述べます。それは、他者を愛する技術。
他者に愛されることばかりが取り上げられ、どうしたら愛されるのか、そういった指南書や文章は、確かに、山ほどある。
他者を愛する技術について説いたものがあまり目にしない。
しかし、「たしかに、他者から愛されることはむずかしい。けれども、”他者を愛すること”は、その何倍も難しい課題」と哲人は言います。
青年は、「そんな戯言、誰が信じますか!」と憤慨する青年。
「かつてはわたしもそう思っていました」と一旦は受け止める哲人。
しかし、「愛することのむずかしさを知ったとき、あなたはアドラーのすべてを理解することになるでしょう」と説きます。
それ、知りたい!!
では、また。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?