嫌われる勇気 No26 所属感
自分がどこかに所属している感覚を持ったことがありますか?
「わたし」は、世界の中心ではない
人生という長編映画の主人公である「わたし」。その「わたし」にカメラを向けることがなぜいけないのか、青年はそう主張します。
哲人の答えは明確です。「自分の人生の主人公は”わたし”である。~しかし、”わたし”は、世界の中心に君臨しているのではない。”わたし”は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、一部なのです」と。
つまり、世界の中心に自分が君臨していると思うと、人生の主人公を飛び越えて、世界の主人公になってしまう。そうなってしまうと、舞台でスポットライトを浴びている時に聴衆の顔が見えないように、他者が、自分のために何かをしてくれる人になってしまう(自分の演技を見てくれる人)。それではまずいというのです。なぜか…
それは、あなたが他者に抱く期待について、「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」からだというのです。そう、他者には他者の人生、立場、中心があるのです。世界には、そんな「無限の中心が点在する」のです。だから、哲人は言います、「あなたは共同体の一部であって、中心ではないのです」。
所属感を自らの手で獲得していく、生きるために
わたしたちは、世界の中心にいるわけではない。もしそこで、人生のタスク、仕事、交友、愛のタスクに立ち向かうのなら、「自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない」のです。
「この人はわたしになにを与えてくれるの?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるのか?」を考えなければならない。
「所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものなのです」と哲人は言います。
生理的早産で生まれてくるわたしたち人間は、幼少期のずいぶん長い間、養育者の庇護を必要とします。一見、その時は、わたしが世界の中心にいて皆がわたしにお世話をしてくれると思いがちです。
でも、違いました。そんな赤ん坊の時でさえ、わたしたちは、世界に対し、微笑みかけ、寝き喚き、手足を伸ばすことで所属感を掴みに行っているのです。つい忘れかけてしまいます、そうでなければ生きられないことを。
わたしは、共同体の一部であって、中心ではない…