沈思黙読会 参加者の皆さんの声

斉藤さんのトークの後は、参加者の皆さんそれぞれに、本日読んだ本と一日読書をして思ったことなどをお聞きしました。ちなみに、皆さんから今日読んだ本として名前があがったのは、以下のようなラインナップ。

「韓国文学の中心にあるもの」斉藤真理子
「ディディの傘」ファン・ジョンウン
「本の栞にぶらさがる」斉藤真理子
「こびとが打ち上げた小さなボール」チョ・セヒ
「私の朝鮮語小辞典-ソウル遊学記」長 璋吉
「黄色い本」高野文子
「少年が来る」ハン・ガン

ご自身も編み物をするというAさん。今日はまず「本の栞にぶらさがる」の中の一編、『編み物に向く読書』から読み始めたとのこと。読んでみたけれどやっぱり信じられない、と編みながら読むことへの質問がいろいろ飛び出しました。対する斉藤さんは独自の“編みながら読む斎藤メソッド”についての解説から、編みながら読む大先輩・橋本治氏の話、そして今は入手困難な『橋本治の男のセーター手取り足取り』談義へと話は転がりました。
「斉藤さんの本は1冊読むと10冊20冊と、あれも読みたいこれも読みたい、という本が出てきてしまう。今日の私の付箋はそのための付箋なんですが、橋本治さんの本もちょっと探して読んでみたいです」とAさん。

橋本治「男の編み物橋本治の手トリ足トリ」(河出書房・1984年)

続いて「ディディの傘」をゆっくり読んだというBさんは、物語の中に出てくる「わかるか?」という一言をきっかけに、小説だからこそできる表現の力にあらためて気づいたこと。また、自分は一人っ子なのできょうだいがどういうものかわからなかったんだけれど、ある登場人物の兄が自分たちが貧しかった子供時代のことを語る場面で、きょうだいってこういう感じなんだなと思ったということを、とても真摯な言葉で語ってくださいました。

ファン・ジョンウン (著), 斎藤真理子 (翻訳)「ディディの傘 となりの国のものがたり」(亜紀書房・2020年)

自分は黙読派で、脳内音読をしながらじっくり読むということをあんまりしていなかったなと思い、今回はノートを取りながら「こびとが打ち上げた小さなボール」を読んだというCさん。この小説の構成の面白さについて語った後の「小人のお父さんが死んでしまうシーンで、火葬場で一握りの半分ほどの灰に分解されたというように淡々と“もの”として描かれていて、これまで自分が読んできた豊かさがそこで一気に“もの”になってしまうところに、すごくグッときました」という感想が印象的でした。

チョ・セヒ (著)、斎藤 真理子 (翻訳)「こびとが打ち上げた小さなボール」 (河出文庫・2023年)

ご自身も読書会を主催しているDさんは脳内音読派。しかもそれを寸劇のように演じながら読み、うまく台詞が読めなかったところはやり直したりもするそうです。しかも黙読で早く読もうとすると目が回ってきて、ゆっくり読み始めると自動的に脳内音読の劇が始まってしまうといいます。Dさん曰く「黙読できる方っていうのは、頭の中に無音の時間をちゃんと作れる方なんだろうと思うんです」。反対にDさんは1日のうち3分の2以上の時間、頭の中で喋っているそうです。思考と言葉が結びついていて、ずっと考えを頭の中で言葉にしている。それと読書が結びついているので、“読書=自分の中で考えること”だと。
この黙読派と音読派の頭の中で起きていることの違いは、次回以降、もっと深く掘り下げていきたいテーマです。

今日は半分まで読み終えていた「韓国文学の中心にあるもの」の残りを読み切ったというEさん。「今日、スマホを断って一切調べ物ができない状態で本に向き合ってみて、最初のうちはやっぱり脳内で、これ調べたいなっていう欲求がすごく高かったんです。それがだんだん落ち着いてきて、自分の中に蓄積されている映像の記憶だったり言葉の切れ端だったりを一生懸命すくいあげながら本に向き合うような、濃い時間になっていきました」とおっしゃってくださいました。

「ディディの傘」と「韓国文学の中心にあるもの」を交互に読んだというFさんは、子どもの頃は結構、脳内音読をしていたけれど、最近はそうでもないそうです。
「ただ、いまもフィクションで方言を使うキャラクターが出てくると脳内音読しがちです。これまでで一番うるさいというか、辛かったのは町田康さんの『告白』でした」
また、韓国文学は筆致も文体も静かに感じられるのに対して、韓国ドラマや映画はもっと感情表現が豊かな部分が多いような気がする。その印象の違いについて、もっといろいろ読んで考えていきたいとのこと。

そして最後にFさん「実はちょっと自慢なのですが、私、『男の編み物 橋本治の手トリ足トリ』持ってます」だそうです!

自分の中になぜか第二次大戦への怯えのようなものがあって、韓国に対しても申し訳なさだけがずっとあった、というGさん。韓国が力を持つようになってり、ようやく安心して韓国のドラマや映画などを見られるようになったんだけれど、過去の歴史に関する本は装幀も含めてちょっと怖かった、と。
「そんな中で『韓国文学の中心にあるもの』はやわらかいピンクの装丁で、なんだかとてもホッとした。私にとっては不思議な本でした」という意見が新鮮でした。
またGさんは、「本を音楽っぽく読んでいる」そうです。「同じ作家は同じリズムだったりして、読後に質感とかリズムは残るんですけども、意味があんまり残っていない感じがする。そのせいか私は小説より詩の方が読みやすいです。詩の方が幅があるというか、空間が広い感じがする」。
そのせいで感想が言いづらく、読書会なども苦手ですというGさん。今回の読書会は、まさにその部分もお聞きしたいところなので、機会があれば、ぜひまたそのあたりを深掘りできればいいなと思います。

斎藤 真理子「韓国文学の中心にあるもの」(イースト・プレス・2022年)

解説書や研究書のようなものは基本、PCを開いて要約しながら読んでいくというHさん。反対に、小説や詩というのは要約に逆らうものだと思っているため、ほとんど写経するように一字一字書き写しながら読むそうです。本日読んだのはハン・ガンの「少年が来る」。Hさんは「読む」ということについて「ページの白とそこに印刷された文字の黒、その白黒が象徴的だと感じる」といいます。
「たとえば、すべての絵の具をごちゃ混ぜにすると黒になるように、他者の世界っていうのはそのまま体験することはできないけれど、言葉にすることでその世界の色彩が一度、砂時計の結び目みたいなところで凝縮されて黒い文字になる。それを読むときに、もう一度その黒から自分なりに色彩を滲み出させていって、相手の世界がどういうものだったのか想像しながら体験していくという試みが読むことなのかな、というふうになんとなく思っています」。そしてページの白は言葉に還元されない、もう自分には絶対的に伝わらなくなってしまった他者の世界の痕跡だと考えている、と。

ハン ガン (著)、 井手 俊作 (翻訳)「少年が来る」(クオン・2016年)

今回は翻訳をしている/勉強している方も複数人参加してくださったのですが、そのうちのお一人であるIさんは、マラソンで言えば早くゴールの景色が見たいので、ブロック読みなども駆使して、とにかくスピード重視で読んでしまっていたとのこと。それが韓国語で本を読むようになってから、初めて1行ずつじっくり読むようになった、とのお話に斉藤さんも大きく頷いてらっしゃいました。
というのも、近年の韓国語は表記が漢字なしのハングルのみなので、パッと文章全体を見渡したときに内容が大掴みしにくいそう。さらに英語のように大文字と小文字があって固有名詞と一般名詞が区別できることもないので、ブロック読みが非常に難しいのだそうです。
「ゆっくり読まざるを得ない環境になって、今日お話に出た脳内音読などもするようになって、そうしたらすごく深いところまでわかるというか、ちゃんと頭の中に入っているなという感覚が持てるようになったんです。それを日本語を読むときにも還元することができるようになった。二言語を往復することで得られたものがあったんだなと、今日のお話を聞いてて思いました」。
斉藤さんもまた「二言語を往復することによって読みの質が変わってくるっていうことはおおいにありますね。私自身も日本語で読むときと韓国語で読むときに何が違うのかっていうのは、本当に混沌としててわからないです。これもまた今後、考えていきたいですね」とおっしゃっていました。

参加してくださった皆さんそれぞれに本との付き合い方や読み方があり、それをこの場で共有してくださったこと、本当にありがとうございました。とても豊かで刺激的な時間になりました。
 
今回、ここで紹介するには文字数があまりに多すぎるので、皆さんのお話に対する斉藤さんの返答はほぼ割愛することになってしまいました。参加者の皆さんと斉藤さんの対話は、いずれZINEとしてまとめるなど、何らかの形でお目にかけられればと思います。

沈思黙読会の詳細はこちらをご参照ください。ゆったりと長時間、本を読むのが目的なので、ある程度広い会場とはいえ、定員があります。申し込みはお早めに。月1、第3土曜日に神保町expressionで行われます。なお、今回よりオンライン配信はありません。

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