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沈思黙読会:斎藤真理子さん「8月、原民喜を読む。最初に読んだときはたぶんスーッと通り過ぎた。何度か読むうちになんとなく記憶に定着してきた。読むたびに薄皮一枚ずつ重なっていく。はじめて読んでから40年、今、一番好きになっている」

第10回 沈思黙読会での斎藤さんが語ったこと。その2

前回、いつも参加してくださっているTさんが原民喜の詩集を持っていらしていて、そこからの連想もあって、今日は「原民喜戦後全小説」という講談社文芸文庫から上下巻で出ている本の下巻を持ってきました。

原民喜って、身体の動作がぎこちなくて、歩いても走っても人から見るとおかしかったらしいんですよね。すごく無口だし、人に何かしてもらってもお礼とか言えないような人で、非常に誤解されやすかったと、梯久美子さんの「原民喜 死と愛と孤独の肖像」(岩波新書)に書いてありました。

確かに、10代の頃の写真なんか見ても、なんとも固い感じの顔の男の子なんです。結婚して、奥さんが本当にいい人で、彼女に庇ってもらいながら暮らしてたらしいんですけども、奥さんが病気で亡くなり、その直後に広島で原爆に遭遇してしまった。そういう人が、本当に弱肉強食の世の中で一人ぼっちで避難所にいたりしたらどうするんだろうって思いながら梯さんの伝記を読み、まさにそういう時期を経て「夏の花」が書かれたんだなぁということを実感しました。

原民喜は読むたびにやっぱりすごい日本語だなと思うし、日本の小説って、もうこれがあるだけでいいじゃん、というくらいの思いもあるんですよね。なかでも、ある時に読んでうわーと思ったのが「飢え」というタイトルの短編です。この「原民喜戦後全小説」にも入ってるんですが、書かれている内容や読んだ時の印象と、「飢え」っていうタイトルがあんまり結びつかないので、いつもタイトルを忘れてしまうんですよね。だから今日持ってきた本の目次を見たら、鉛筆でマーキングがしてありました。この短編のなかに、非常によく記憶している文章があるので、ちょっとそこを読んでみますね。

これは原さんが広島で被爆した後、東京に戻ってきてからの話です。その前は、広島のさらに田舎へ避難していたんですが、東京にいた時の仲間の一人から、「東京では新しい人間が生まれているし、新しい生活が始まっている。君も早く出てこないか」って誘われてーー戦後まもないその頃は東京だってめちゃくちゃだったはずなんだけど、その人はそういう気持ちだったらしいんですね。

とにかく、そういう手紙をもらったので、原民喜はその人の家に転がり込む形で東京へ行くんです。ところが実際に行ってみたら全然予想外で、そのお家では手紙をくれた友人と、彼の妻がめちゃくちゃ仲が悪くなっていて、そこに不器用の塊のような原民喜が転がり込んだわけですから、もう世にも気の毒な感じになってしまい、日々、薄氷を踏むような感じで暮らすことになるわけです。でも、私だって戦後の食糧難で大変なときに原民喜のような人が家に転がり込んできたら怒ってしまうかもしれないので、読んでいて本当につらいんですけども。

ちょっと読みますね。ちなみに文中に出てくる「ガラスの家」っていうのは、その誘ってくれた人のお宅が、ガラスが非常に目立つ大きい窓のある家で、ちょっと変わった建築だったらしいです。

それは、このガラスの家の前の空地に、急に夏を想はすような眩しい光が溢れた午後だったが、僕は切株の上に腰を下して、高い高い梢を見上げた。家のまわりの樹木は青空に接するあたり鬱蒼と風に若葉が揺れていたが、その方を眺めていると、何か遙かに優しいものに誘われて、(あ、時は流れた)という感嘆が湧いた。ほんとに、そこから梢を見上げていると、自分のゐる場所がだんだん谷底のようにおもえる。多分いま僕はこの世の谷底にいるに違いなかった。だが、いつかは、いつかは谷間を攀じのぼって、そうして、もう一度、あ、時は流れたと感嘆したいものだ。とかく僕は戦災乞食の己れを見離してはいなかつた。

「原民喜戦後全小説」 (講談社文芸文庫)より

この一節なんですけども、この「そこから梢を見上げていると、自分のいる場所がだんだん谷底のように思える」っていう。ここが妙に記憶に残ったんです。ただ、読んでいて、あ、これは記憶に残るだろうな、と思うような、そういう印象じゃなかったんですよね。

最初に読んだときはたぶん、読み飛ばしたというか、スーッと通り過ぎていたと思うんですけど、何度か読むうちに気がついたらなんとなく定着してきた。この原民喜の短編集は何度も読み返していて、代表作の「夏の花」なんか本当にすごいなと思いつつ、なぜかこの「飢え」という小説の、今読んだ一節がだんだんだんだん記憶に定着していったんですね。だから暗誦もできないんですよ。決め打ちで覚えたわけじゃないので暗記もしてないんですけど、なぜかそこに記憶するに足るものがあって。読むたびに薄皮一枚ずつが重なっていくようで、今、一番好きになっているんですけど、その過程に40年以上かかってるんですよね。

さっき読んだ箇所は、どこにアクセントを置いて読むかで受け取り方が変わってくると思うんです。切り株に座って「ああ、僕は今、谷底にいる」と思って空を見ている。その気持ちもすごく伝わってきますけれど、続けて彼は「ああ、あの時、僕は谷底にいたな、っていう風に振り返り、感嘆したいものだ」と書いているわけです。

ちょうど帰省する時の行きと帰りみたいに、逆を行く文章で、読むたび自分がどちらから読んでいるかが変わるんですよね。原民喜がどんな風に亡くなってしまったかを知っている我々から見ると、「ああ、僕は今、谷底にいる」としみじみ思っている彼の姿はすごく納得できるんだけれど、同時に「後からこの時の自分を思い出して、あの時は大変だったなあと感嘆したい」と思っていたのもまた原民喜なんだなと、そんなふたつの姿が見出せますよね。

これは読み方が間違っているんじゃないかなと思っていた時期もあるんですけども、今では、ひとつの文章っていうのは両方から読めるな、と思うようになった。原さんは、確かに両方の気持ちを書いているんだから、両方覚えていてあげなきゃいけないんだと。ある人の姿を、顔の正面の方から見て記憶することもできるし、背中から見て後ろ姿を記憶することもできる。やっぱり原さんが切り株に座って「ああ、なんか今、自分はドツボだなあ」って思っていたとき、そこには「それではもいつかは」という気持ちもあった。絶望も希望も、両方が重なっていたんだなというふうに思います。これが、どうして自分はこの「飢え」っていう小説がそんなに好きなのか、わからない状態でずっと読み重ねてきて、今、感じていることですね。

それと同時に、やっぱり日本においては夏になると戦争関係のものに手を伸ばしてしまいがちですよね。テレビでもいろいろな特集番組を放送しますし、私も夏にはつい戦争や原爆関係のものを読んでしまうんだけれど、なんていうかな、それ自体があらゆるものを季節感とごちゃ混ぜにしてしまうような気がして、それはすごく日本の風土ならではのことなのかもしれないと思ったりします。

冒頭にお話しした韓国の友人からの、「戦争のある国から地震のある国へ、いざという時にはSOSを出しておくれっていうのも変だけど」っていうメッセージ。それも改めてちょっとこう夏に戦争の本を読む風物詩っぽい感じを重ねて考えると、複雑な思いもありますね。でもやっぱりそういう違いがあるからこそ、我々が交流することに意味があるんじゃないかなとも思うのですね。

8月の初めに近代文学館からのお誘いで、なにか話をしろと言われまして、80年代に中上健次と尹興吉(ユン・フンギル)っていう韓国の作家がとても深く交流していた話をしたんです。この読書会でも、前々回に少しお話ししましたね。

その講演のためにいろいろ調べていて、やっぱり日本人の戦争を見る目っていうのは、どこか台風や地震のような天災に対する時と似ているように感じました。小説においてもそういう書き方が散見できるなと思ったんです。

中上健次と尹興吉の小説の両方に、少年が雨を見ている光景が出てくるんですけれども、尹興吉の小説では、その雨は明確に戦争のメタファーであると同時に、一過性のものではなくて、ずっと降り続いている。私にはそういう風に読めるんですね。一方、中上さんの小説では、戦争とはまったく関係ない、子どもの頃の不安な気持ちを象徴したものだったんですけれども、やっぱり雨という自然現象をメタファーとして使うやり方ひとつとっても、日韓ではかなり違うと思いました。

戦争という人間が引き起こしたことの結果、因果関係の結果を今でも自分たちが引き受けなければならない国と、なんとなく気がついたら、まるで雨が降り出したようにいつの間にか戦争が始まっていて、でもその雨の時期が過ぎたら玉音放送で「今日で戦争終わりです」となった国とでは、やっぱり大きな違いがあるだろうと思います。

だからこそ、その違いを埋めたい、分かりあいたいと思うことが、その違いはなぜ生まれるのかという疑問を持つ、そういう方向の頭の動きにつながると思いますし、いま韓国の小説を読む人が増えている理由もその辺にあるのではないかなと思ったりもしています。


神保町EXPRESSIONで行われる次回の沈思黙読会(第11回、9月21日)は満員となりました。最終回となる第12回は、10月19日(土)、詳細とお申し込みはこちらです。学割(U30)有。オンライン配信はありません。

※トップの画像は、広島祈念館に登録されている原民喜の遺影より。1948年頃撮影。

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