見出し画像

新年度は何故4月?

予想外に早く、9月新学期スタート論議が東京都知事から出た。

確かにこんな時しか、年度を変えられる事はなかなかない。

ある意味、教育改革を行う上で大きな変換点となる。

私自体は、9月スタートというのは別段反対するところではないし、むしろ賛成をする立場でもある。

日本が4月スタートした理由は、植物などがこれから育ち、生物的に始まりの季節というゲンを担いだ事から始まったと考えている。日本の文化風土的にその方が望ましいと考えたからだ。

始まりは?

江戸から明治に変わる大政奉還は、1867年10月12日に、徳川慶喜が、二条城で意思を伝えて、15日に、朝廷はこれを許可した。
明治5年学校の基本法令が定まり、9月5日に全国に学制わ公布した。
歴史的に見てもこの学制が定まった9月が新たな年度であってもおかしくはない。

改めて何故4月なのかは、明確な根拠がないのである。諸説あるが、最大の理由は米作が主要産業であったためと言われる。コメを収穫し、それを現金に変える一定期間を与え納税をさせる。それを踏まえて、経済的な側面は4月から始めるとしたのが明治19年であった。
先ほど述べたように、学校の年度は、ゲンを担いだ部分とこの経済側面の部分を鑑みて決めたのではないか。

他国は?

他国の例として、アメリカは国家としては10月が新年度、学校は、9月、通常の企業は一月とバラバラである。
中国では、国家と企業が一月、学校は9月。
韓国では、国家と企業は一月、学校は三月である。
フランスも学校は9月、シンガポールは8月。
若干大学や学校によってばらつきもあるが、4月というのは世界的にほとんどない。
別段9月にこだわる必要もないが、4月にこだわる理由も全くない。

全てが統合できるので、合理的だからというのは全く筋が通っていない。世界一合理的な考えを持つアメリカは、年に3回の年度をもっているからだ。

世界の年度の考えは農業暦によるところが大きい。その点では、日本は納税の基準というのは日本らしい。
現在は子供は労働力ではない。農閑期に始めれば子供が学校に来れるという理由も現在では成り立たないのである。
年度が年に違う事があっても問題はない。
英語では、school yearと表現をするし、別段こだわる方がおかしいのではないか。
学校に付随する企業の事など考える必要もない。
会社の場合、決算は任意に決める事ができる。年度は自分で決められるのだ。関係企業は学校の年度に合わせて来るだろう。その部分でも混乱は初めはあっても次の年から混乱は生じなくなる。

よって、年度を6月だろうが、9月だろうがいつでも問題はない。ただ経済的に大きな国家は9月スタートが多いそれだけである。合わせた方が便利なことも多いのは事実であろう。

問題点は?

何かを改革する時、反対論者は必ずコストのことを真っ先に考える。

確かにシステム変更などコストは掛かるが、経済的な面において年度を変えればという提案ではないのだ。あくまでも学校の年度である。

かなりコスト的には抑えられるのではないだろうか。

しかし、コストというものは改善する時に第一に考えることではない。コストは長期的側面で判断をするので、年度あたりのコストはさほどかからない。ただ、明らかにコストが増大する事がわかり切っている場合これは初めから論議にすら乗らないのではないか。しかも、この場合、毎年かかるコストではない。単年度だけなのだ。

変な話だが、国家というものは赤字を生み出すマシーンのようなものであり、夜警国家を求める人には許しがたいのであろう。コストをかけてそれに利益を生み出すのは国家のすることではない。これが理解できないのであれば、憲法からしっかりと勉強をやり直す必要がある。

国家運営は通常の経済活動ではないのだ。普通の経済活動で語る切り口は一見鮮やかに正しく思えるかもしれないが、それをすれば、弱肉強食のものになりかねないのだ。

国家や公務員は一部の奉仕者ではなく、全体の奉仕者の概念が最も国家運営に必要なものではないか。

補記

ヘッダーの写真は簡単なシュミレーションをしてみて、4学期制度が最も無理なく運営ができる事がわかった。
カリキュラムやクラブの大会などを考察すると3学期制度は、かなり無理がある。

本日、国会においても選択肢の一つとして考える事であると総理は答弁をした。