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第二十一回「愛と誠」(その1)(2016年12月号より本文のみ再録)

 『愛と誠』は劇画原作者・梶原一騎にとって重要な意味を持つエポック的な作品である。本作の成功が“梶原一騎=スポ根作家”のイメージを払拭しただけではなく、さまざまなメディアミックスがなされ、これによって芸能界や映画界との交流が広がって、後に映画製作者や格闘技プロモーターなどの多彩な活動にもつながっていく。
 そうした意味で、梶原の劇画原作者としての半生を一本の横軸で表した時に、栄光の頂点(ピーク)に鎮座すべき作品こそが『愛と誠』であると考えている。筆者にとって永遠のオールタイム梶原作品ベスト1でもある『愛と誠』について今回からじっくり語っていこうと思う。

※『愛と誠』の作品データとあらすじ


脱・スポ根!梶原一騎が再び挑んだ大バクチ

 本作の企画は1970年初頭までさかのぼる。この時期の梶原は、「週刊少年マガジン」誌上で『巨人の星』に加え『あしたのジョー』も快調に人気を維持し、他誌でも『キックの鬼』や『タイガーマスク』といった連載が軒並み絶好調。一躍世間にその名を馳せ、ヒットメーカーとして名実共に認められた存在となっていた。だが、そんな現状に内心は複雑な思いであったらしい。文学作家を夢見ていたが果たせず、かりそめに始めたマンガ原作の仕事が大当たりした梶原。しかし、依頼される仕事のほとんどがスポーツものばかり。編集サイドから請われるままに、さまざまなスポーツものを書き尽くした梶原は、この頃から“自身のその後の姿”を模索し始めていたように思われる。どこまで本気であったか、真相は不明だが「マガジン」の担当編集者に次のように語っていたのだという。
 「あしたのジョーが終わったら漫画の原作をやめて、俺は純文学の世界に行くんだ」(※1)
 その考えを思いとどまらせるべく、梶原がまだ手を染めていない分野として前述の編集者が提案したのが、純愛マンガであったとされている。しかし、少年誌において純愛ものはこれまで前例のないジャンルであった。そこでストーリーやコンビを組むマンガ家の選定など、慎重に取り組んだ結果、3年もの年月をかけてしまうことになる。
 この時期と前後して、他誌においても別ジャンルへの挑戦を開始している。やはり、この時期は自身の“スポ根作家”のイメージを払拭し、原作者としての幅の広さを示すことに新たな自分の姿を求め始めたようだ。純愛マンガの先駆け『朝日の恋人』(※2)、ビジネスをテーマにした『人生二勝一敗』(※3)、梶原版「次郎物語」の『おとこ道』(※4)...。いずれも70年に発表されたこれらの作品は、結果として狙いを十分に果たすことはできないままに連載が終了した。新分野に対する原作者としての経験不足や、マンガ家との相性(3作中2作が新人マンガ家)など、その原因はいろいろ考えられるが、少年マンガ界にまだスポ根熱が冷めやらぬ当時において、梶原の試みは時期尚早だったとも言えそうだ。
 こうした経験を踏まえて梶原と「マガジン」編集者が準備に歳月をかけ、満を持して挑んだ作品こそが『愛と誠』であった。実は内心、このタイトルは大きなカケだったと後に梶原は語っているが、それは「マガジン」にとっても同じだった。その前時代的なタイトルを初めて見た編集者の驚きを梶原はこう語っている。
 「ギョッとなって“なんだこりゃ”という顔をしたよ。青春ものといったって、もっと現代的なタイトルがあるわけでしょ。それが愛と誠なんていう、ものすごいクラシックなものが出てきたから(中略)瞬間、困ったあって顔をしたよ。」(※5)
 こうして73年3・4合併号にて連載が始まった『愛と誠』は瞬く間に読者の人気を集め、またもや大ヒットとなる。長い年月を費やした梶原の念願がようやく叶った瞬間であった。

※1 斎藤貴男 著「梶原一騎伝 夕やけを見ていた男」(新潮社刊)より。
※2 『週刊少年チャンピオン』70年14号より連載(画・かざま鋭二)。
※3 『週刊少年ジャンプ』70年20号より連載(画・聖日出夫)。
※4 『週刊少年サンデー』70年35号より連載(画・矢口高雄)。
※5 『ザ・ヒットMAGAZINE』86年6月号「檄 梶原一騎・反逆のヒストリー」より。

『愛と誠』に見る梶原流純愛物語

 ラブ・イズ・バイオレンス!
 純愛マンガにおける、現代で言うところの“萌え”の要素など一切なく、全編に流れる暴力描写。コンビを組んだながやす巧の美しい劇画タッチで描かれる、当時の少年誌の表現ギリギリな凄惨さこそが『愛と誠』の魅力である。愛というテーマ描くうえで、それとは対極にある暴力を徹底的に描くことで、より一層主題を際立たせることが梶原の狙いだろう。聡明で可憐、母性愛に満ちたヒロイン早乙女愛が梶原の理想とする女性像の分身とするならば、ワルとして学園内で暴れまくることで彼女を苦境に追い込んでいく太賀誠もまた、梶原の愛に対する気持ちの分身なのだ。
 今回の執筆にあたり本作を再読して気づいたことがある。物語初期の舞台となる青葉台学園で誠が巻き起こす暴力行為の数々は、彼の早乙女に対する心の叫び、そのものだったのだ。
 「こんな俺でも愛せるのか⁉わかってくれるんだよな⁉」
 彼女を否定する一方で、受け入れてほしいと願う相反する想い。実は梶原がこうした物語を紡いだ背景にひとつの事実がある。本作の連載が開始される直前、長年苦楽を共にした妻・篤子との正式な離婚が決まったのだ(※6)。数年後ふたりが会った際に、梶原は『愛と誠』について篤子にこう語ったという。
 「この作品はなぁ お前と別れたからこそ書けたんだ…」
 その真意はなんだったのか?次号乞うご期待!

※6 85年に復縁。

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【ミニコラム・その21】

『愛と誠』誕生余話
 1972年秋。本作で梶原とコンビを組んだながやす巧は、当初編集者からの依頼を断ったという。なぜならその時同じ『週刊少年マガジン』誌上に、結婚したばかりの妻へ捧げる思い出の純愛小説『のぶ子の悲しみ』(富島健夫・著)の連載準備が進行中だったからだ。しかし、ながやすの画力に惚れ込んだ梶原と編集者の度重なる説得と、その熱意に感動した妻の次の言葉に押されたという。「この話引き受けましょう。私へのプレゼントならこの作品でもうれしいわ。あなたが尊敬するちばてつや先生の『あしたのジョー』も梶原さんの作品だし、一緒にマガジンに載るのもうれしいことだわ」。こうして本作の執筆を引き受けたながやす。タイトルは変わったが『愛と誠』もまた、妻へ捧げる作品であったのだ。

第二十二回「愛と誠」(その2)を読む

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