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【パワプロ2022・架空選手】野口 将二郎【パワナンバー】

野口 将二郎(のぐち まさじろう)

浜島第一高校(1946 - 1948) - 前坂大学(1949 - 1952) - 平城飲料社会人野球部(1953 - 1954) - ツクヨミデファイアンツ(1955 - 1969)

気迫のヘッスラ

 1931年2月1日生まれ。高校、大学と特に目立った実績があるわけではなかったがとにかく頑丈さに定評があった。大学まではショートを務めていたが社会人野球ではチーム事情からセカンドに転向、これが功を奏し二塁手を天職とすら語るようになる。
 1954年プロ野球開幕に伴うドラフト会議でツクヨミデファイアンツからドラフト3位で指名を受ける。俊足巧打を活かした守備が評価され内野が手薄だったデファイアンツの中軸となることが期待された。
 一年目から123試合に出場したものの打撃面はからっきしで打率.241、1本塁打と物足りない打撃にファンからの不満は高まった。しかし23犠打という小技の巧みさに加え43三振という三振の少なさも相まって二番打者として信頼を勝ち取る。
 翌年の1956年は開幕から打撃の好調さが評価されシーズン途中から二番セカンドとして定着、この年の6月13日以降フル出場を続ける。結局シーズン終盤には打撃成績を落とし.267 2HRとやはり非力には変わらなかったがしぶとい打撃を磨き小技のプロとして光った。
 一方で彼の打撃の非力さは首脳陣でも問題と認識されており1957年のドラフトでは外国人留学生のセカンドであるディエゴ・ガルシアをドラフト四位で獲得するなどした。以後ガルシアは定期的にセカンドで起用されては守備難と打撃の粗さが問題となり野口のライバルではあったもののガルシアの出場時はサードで野口が出場するなど野口が優位であった。その後ガルシアはファーストにコンバートされることとなり野口が一強という状況は変わらなかった。

 ツクヨミデファイアンツは球団創設以来一度も優勝することができず65年までの11年間で2位が4回3位が5回と中堅チームとしてまずまずの成績は残しておりそのチームの中で着実に存在感を見せていたのが野口であった。
 一方で1959年には名物のヘッドスライディングで右肩を負傷、1960年には慢性的な足首の痛みに苦しめられるなど全試合フル出場を続けてはいたものの体は万全とは言えないシーズンが続いていた。それでも毎年.240程度の打率と安定してバントを決める小技の技術にしぶとい打撃は成績以上に好印象を抱かせる選手でもあった。
 1966年、12年目のシーズンの開幕を迎えた野口だったがこのシーズンは体の調子も良く自信最高のシーズンと後に語られる一年になる。

パワナンバー : 10600 81090 20302

 前年から取り組んできたフライを増やす試みが結実したことによりキャリアハイに並ぶ3本塁打を記録したほか19二塁打はキャリアハイとなり長打力が復活した。一方で積年の課題だった併殺の多さはこの年も二桁併殺を記録しているものの比較的少ないシーズンであり犠打も安定して43個を決めるなどつなぎ役として活躍。
 一時は三番打者も任されるなど打撃面での勝負強さが光ったシーズンでもありこの年四番のガルシアが本塁打記録を更新する49HRを放つなど輝いた中で渋いベテランとして強い存在感を見せつけた一年であった。

査定について

 魂のオールE。脚力をDにするかどうかは永遠の課題ですがEで走塁盗塁共にCが美しいと古事記にも書かれています。
 イメージ的にはとにかく秀でたものがなにかあるわけじゃないがセンスはある、そういう感じに仕上げることが重要な気がします。
 このシーズン守備では18失策とエラーの多さは隠しきれません。守備面では確実に足を引っ張ってしまうものと思われます。

バント職人

 バントの神様だしね。この頃にはもう脚力的にセーフティバントはしなくなってるのでバント職人で。

対エース〇

 この年塩沢から1本塁打、中嶋からも1本塁打を記録。中嶋はこのころ別にエースというわけでもないけども。エース級投手のストレートに負けない強いスイングを意識していた模様。

撹乱

 盗塁数自体は少ないが盗塁成功率は10割、脚力に問題があると言いつつも成功率は7割以上で常に安定していた。

ストレート〇

 プレースタイルの基本は脳筋。とにかくガンガン振り回して長打を量産したいという性格を理性で抑え込んでいた。基本は相手の最も速いボールに目付けしていた模様。

選球眼

 前年からのアプローチ改善が活きこの年は三振よりもフォアボールが多いという理想的なシーズンに。打率.255ながら出塁率.344と非常にしぶとい打者になった。

エピソード

 その後1967年も全試合フル出場を続けたものの1968年は勤続疲労から露骨に守備範囲と打撃成績が低迷。「カカシはトンネルしないだけマシ」と言われるほどの批判を受け7月14日ついに先発出場から外れた。さらにこの日は代打起用すらも行われず連続試合出場記録もストップ。1753試合連続フルイニング出場、1803試合連続出場の記録を作った。
 1969年は控えに回るものの34試合に出場、代打バントなども経験し前人未踏500犠打を超えると510犠打で記録を樹立。通算2000試合出場を目標にしていたものの1974試合出場でキャリアを終えた。
 通算1974試合打率.244 1411安打26本塁打439打点73盗塁510犠打。究極の二番打者と言われた男が引退した。

 現役時代は特別優れた数字もなく贔屓起用や聖域と呼ばれ批判を多く受けた。守備面に関しては特にガルシアという悪例がいたことで平凡極まりない野口の守備評価が上がってしまったという側面もあり現在は評価が下がっている。
 一方で打撃面に関しては打率は優れず長打力にも劣るものの通算出塁率.317と出塁能力には優れており再評価が進んでいる。

 引退後は1982年からデファイアンツ二軍監督を務めた。一軍監督の要請もあったもののすべて断り1998年まで二軍監督を続けるなど若手選手の育成に貢献した。特に長距離打者の育成ではデファイアンツ一軍本拠地球場が狭いにも関わらず打者が育たないという問題をクリアし多くのホームランバッターを育成したことで評価が高い。
 二軍監督辞任後は海外に渡りかつてのチームメイトでもあるマクブライドの野球教室に協力している。現在ではルドニア連邦の永住権を保有している模様。

ひとこと

 野口をな、代打で起用するとな、気持ちよくなるんじゃ(個人差あり)。

 痒い所に手が届きそうで届きません。でも頑丈だから大丈夫。どれだけ使っても壊れません。

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