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【パワプロ2022・架空選手】郡 利人【パワナンバー】

郡 利人(こおり としひと)

浜島第一高校(1958 - 1960) - ツクヨミデファイアンツ(1961 - 1997)

時代の先駆者

 1943年、浜島市で生まれた彼は1944年の浜島軍港空襲で避難する際の事故により右手の手首から先を切断する大きな怪我をしてしまう。しかしその後は健康に育ち、隻腕ながらも浜島第一高校でエースを務め一躍注目される選手となった。左手だけで野球の全ての動作を行うという技能を彼は幼いころから行っていたことですべての動作においてそのプレーに何の問題もなかったのである。
 1960年のドラフト会議では彼をどうするかが話題となった。実績では神宮野球大会でも圧倒的な数字を残しておりドラフト一位レベルの数字であったが隻腕という部分が問題となったのである。結局ツクヨミデファイアンツがドラフト二位で指名、入団することとなった。

 右利き用のグラブを使い何度もグラブを持ち替えては守るというスタイルは彼によって生み出された手法だが当時はその方法に疑問がもたれた。加えてDH制が採用されていないことから打撃面の不安などもささやかれ彼のプロ人生は決して順風満帆とは言い難いスタートだったのである。
 しかし左腕から放たれる速球は当時の左腕最速とすら評された。さらに彼が編み出した「フォークボール」は当時カーブが主流だった落ちるボールに新たな流れを巻き起こした。

パワナンバー : 10500 60959 95240

 開幕戦である泰平コメッツ戦に登板すると新人ながら9回まで無失点に抑え続ける好投を見せた。しかし相手の先発は泰平コメッツのエースでもあった中嶋忠、しかも当時のツクヨミデファイアンツは弱小球団であった。四番ガルシアのソロホームランによる1点しか援護はもらえない。9回のマウンドに上がった郡だったが先頭打者にヒットを許すと送りバントで1アウト二塁、さらにセカンドゴロで2アウト三塁となる。ここで迎えるバッターは7番ショート増田真一。打撃の非力さに定評のある選手であったが、ストレートだけを狙っていたという増田の打球はライト方向にフラフラと上がり、そして外野手の前に落ちた。これで同点とされると続投を志願したものの降板。この後中継ぎ投手が打たれたことで逆転を許しプロ初登板は残念ながら負けてしまった。
 その後も好投しても援護がないという登板が続いた。当時四番ガルシアが覚醒しやっと長距離打者が生まれ打線がマシになり始めた時代ではあったもののガルシア頼みの打線という点は否めず苦しい試合が続いた。それでも投げ続けると72試合に登板、339イニングを投げ切り防御率2.23という好成績を残した。一方で18勝23敗とこの防御率で負け越しとなってしまいいつしか彼には「俺たちの最多勝」という皮肉なあだ名もつけられてしまった。

査定について

 俺たちの暗黒エース。速球だけでなく抜群の制球力に300イニングを投げるスタミナ、本来なら新人王ですが負け越したという一点の理由のみで新人王を逃しました。
 フォークボールについては野球の草創期に開発され「指で挟んで投げるボール」という記述程度しか残っていなかった。そのボールを独自開発したものが郡のフォークボールであり、郡自身は親指と薬指でボールを挟んで投げていた。そう、フォークボールだと思って投げていたのはパームボールなんですね。今でいうところの高速パームにちかいボールともいわれておりパームのオリジナル変化球としてフォークを付けておきました。

闘志、内角攻め

 若くして闘志をむき出しにしたピッチング、右打者に対し強気のインコース攻めで胸元をえぐる。しかし抜群のコントロールなので死球は少ない。

根性〇、全開

 とにかく全力で強気に投げ続けるというスタイルで人々の胸を打った。これ以後6年連続で300イニングをクリアするという彼のバケモノっぷりを評価して。
 全開でかっ飛ばした結果の開幕戦、完封を目前にしての降板、全開という感じが似合う気がします。

一発、負け運

 デファイアンツの本拠地が狭いことを考慮しても被本塁打はずっと付きまといつづけた。援護のなさも同様。

奪三振

 339イニングで312奪三振。シーズン奪三振数歴代11位の記録は伊達じゃない。奪三振率8.28は立派過ぎる。

エピソード

 以後投げても投げても勝てないという暗黒エースが続いたが彼は6年連続300イニングをクリアするなどチームをエースとして支え続けた。6年連続250奪三振という記録も作ったもののこの間103勝122敗と負け続けた。
 1967年からは肘に痛みを抱えながらのプレーとなり登板数イニング数ともに大幅に減らす形となってしまう。5年間で15勝26敗、さらに与四球が増加し三振が減少するなど明らかに投球に問題を抱えるようになり1971年シーズン中に左肘側副靭帯損傷と診断される。
 この時隣国トーズのセドリック・リヴィングストン医師により側副靭帯再建手術が考案されていたもののまだ誰も受けておらずトーズに渡ってこの手術を受けることとなった(世界初の側副靭帯再建手術)。のちにリヴィングストン手術と呼ばれるこれは見事成功、1972年シーズンは全休となったものの1973年シーズンから復帰することとなった。
 以後防御率こそ悪化したものの速球は最速148km/hを記録するなどむしろ復活し73年防御率2.47 13勝6敗の活躍でカムバック賞を受賞することとなった。79年までの7年間で80勝66敗と貯金も作りエースとして君臨していた。この頃はツクヨミデファイアンツも上位争いをしていたが優勝することはできなかった。
 79年オフに抑えのヴィクター・ソンニーノとの契約で揉め流出、抑え投手不在により前年防御率3.71と不振だった郡を抑え投手として起用することとなった。通算198勝で200勝を目前にして抑え投手を任されることに対しファンからは不満の声も高まったが「このチームで優勝を掴みたい」と抑え投手起用を受け入れた。
 抑え転向にあたり「本来の」フォークボールを習得、高速パームとフォークのスタイルに切り替えたことで奪三振が増加、徐々に抑え投手として活躍、1982年には防御率1.52、36セーブを記録するなど復活した。だが徐々に衰えが見られ1988年は防御率3.90と打ち込まれたシーズンとなりシーズンオフに先発転向を決めた。
 1989年、46歳で迎えたシーズンとなったがわずかに規定投球回に届かなかったものの防御率3.36 11勝14敗と先発を支えた。直球の球速は120km/h程度になっていたものの新たにカットボールやツーシームを習得し打たせて取るピッチングスタイルに切り替え復活を遂げた。1990年には現役30年目の大台に乗り、1993年にはついに50歳での現役というアンタッチャブルレコードを樹立した。プロ野球が始まって以来一度も優勝できていないツクヨミデファイアンツのエース投手として在籍し続けた彼は球界の化石と呼ばれるようになった。
 1993年シーズン終了時点で279勝を積み上げた彼の最後の目標は300勝であった。長い低迷時代を経て紀洲スイフツ低迷からの帝國ニッケル一強時代が球界に訪れた90年代において唯一ツクヨミデファイアンツはこの帝國ニッケルに対しかなり善戦したシーズンもあり「悪の帝国」に対する正義のヒーローとして期待されるようになった。そんなチームで生きた化石として投げ続ける彼はデファイアンツファンの代弁者ともなっていた。
 そんなファンの期待もむなしく94年からの3年間でチームは3年連続2位と優勝はやはりつかめず、郡も7勝7勝4勝と衰えが顕著になってきた。通算297勝で迎えた1997年、54歳のシーズンは開幕前に引退を表明しシーズン入りしたが防御率5.33、5勝8敗に終わりチームも最下位に終わった。
 通算で37年というプロ野球記録となるキャリアの長さを誇ったが常にあと一歩のところで優勝を逃し続けた。通算1348試合登板はプロ野球記録であり302勝324敗322セーブで300勝300敗300セーブという珍記録を達成した。通算4044奪三振も歴代二位の記録である。通算投球回4787 1/3回も歴代3位となる。野球殿堂入りはもちろん隻腕で投げ続け勇気を与えたことが評価され三等騎士勲章を与えられた。

 現役引退後はバーを経営、指導者として呼び戻す声もあったものの野球には関わることはなかった。

ひとこと

 負け運投手になってしまった結果勝利数があまり伸びないという感じになってしまいました。また追々勝利数の部分はアレしていきます。

 このパーム絶好調で追い込んだ状況で使うと曲がりすぎて大変なことになります、でもそれがいい。いろいろ設定してあるんですがこれ書いてたら終わらないやつなのでまたいつか。金特付けてないのは一年目だからですね。ただまあ結局一年目が一番強いみたいな感じにはなってしまうのでしょうがないような気もして。
 いろいろ設定を詰めてあるんですが書き始めたら止まらないやつで長くなりすぎるのでその辺はまた別の機会に書けたらいいなとおもいます。ほな。

サポートしてくださると非常にありがたいです。