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【パワプロ2022・架空選手】ディエゴ・ガルシア【パワナンバー】

ディエゴ・ガルシア(Diego Garcia)

ツクヨミデファイアンツ(1958 - 1969) - 統一製紙アルバコアズ(1974 - 1975) - 帝都新報ファイアブランズ(1977)

球界の核弾頭

 1939年トーズに生まれたガルシアは戦後の1955年野球留学のために来国、御崎柳礼高校に入学した。高校野球では打率が低いながらもホームランを量産し5番セカンドとして活躍。高校通算42本塁打、50m6秒0という俊足を武器に身体能力の高さが光っていた。
 1957年のドラフトではいかんせんその粗いプレースタイルが問題となったもののその抜群の身体能力が武器でもあり上位指名されるかは意見が分かれた。ドラフト3位までに消えるという予想は裏切られツクヨミデファイアンツが四巡目に指名し交渉権を獲得。当時二塁には野口将二郎がいたものの彼の打撃力に不満があったことからガルシアが二塁に定着することを期待しての補強であった。

 1958年のシーズンが開幕すると二位が確定し残り18試合で起用されることとなったが結局打率.105, 3本塁打と苦しみ、守備面でもエラーを連発するなど課題の多い一年であった。翌年からサードにコンバートされシーズン終盤32試合に出場したもののやはり.143, 3本塁打と苦しみ、守備難も解決しなかった。1960年はオープン戦での好調さが評価され開幕六番サードとしてスタメン出場し開幕から3打席連続本塁打、4打席目にはツーベースを放つ大活躍で今年こそ覚醒の一年かと思われた。しかしその後32打数連続無安打という大スランプに陥ったことで二軍降格、打率.111, 3本塁打に終わりいつしかガルシアは「どれだけ打席に立っても3本塁打しか打てない」というジンクスが囁かれるようになった。

 シーズンオフ、母国のスターでもあるゴンザレスとともに自主トレを行い打撃面について徹底的に指導を受けた。これにより1961年は開幕からホームラン量産体制に入り3本塁打の壁を打破、田中誠との激しい本塁打争いに発展した。紀洲スイフツの優勝が確定して以降はツクヨミデファイアンツの投手陣は田中誠を徹底的に敬遠し続けることで勝負を避け、これを受けた紀洲スイフツも対抗してガルシア敬遠勝負に移行し、ツクヨミ紀洲戦はこの世で最もつまらない試合とも評された。
 両者ともに45本塁打の本塁打記録を更新すると思われたが両者ともに失速し本塁打記録更新はならず。しかしガルシアは42本塁打を放ち本塁打王を獲得。田中誠は40本塁打ながら112打点を稼ぎ出し打点王を獲得した。
 打率.213、三振134と粗さが目立つ打撃であったもののホームラン量産によりある種許されたとも言え、博打打法とも言われた。またこの年デファイアンツはかつての本塁打王でありガルシアとプレースタイルが似ていたマクブライドを獲得、ホームラン攻勢による勝利を目指していたがマクブライドはすでに峠を越していたこともあり低打率扇風機が増えただけであった。」

 翌年1962年マクブライドを負担軽減のために一塁コンバート、これにより再び魔のガルシア三塁手をファンは見させられることとなった。二年目のジンクスが噂されたがこれを上回る活躍でファンの期待は絶頂に。一方三塁ではやはりエラーを連発し「ツクヨミデファイアンツの自爆戦法」とも揶揄された。この年は.257, 45本塁打で記録更新はできなかったもののその活躍は期待値以上であったと言える。
 その後63年は.285, 36本塁打と打率を上げたが64年は一転して.234, 38本塁打と低迷してしまった。だがその中で114打点を稼ぎ出し自身初の打点王を獲得。マクブライドが引退したことに伴い一塁に専念できるようになった。またこの年田中誠が47本塁打を放ちリーグの本塁打記録をついに更新した。
 65年は帝都新報ファイアブランズのシエラがトリプルスリー獲得を目指したシーズンであったが結果的にトリプルスリーに一番近づいたのはガルシアであった。30本塁打、30盗塁を決めあとは打率のみとなったが打率はシーズン通して.280~.290台を推移しており結局.295でシーズンを終えてしまう。打率.295, 32本塁打, 31盗塁と最も惜しかったシーズンと言える。

 そして1966年をこれまでのシーズンの集大成と意気込んだガルシアは開幕前に今年のシーズンの成績次第では引退することもあり得るという意味深な発言を続けた。

パワナンバー : 10400 20928 46183

 このシーズンは「逆転のデファイアンツ」と言われるほど逆転勝利の試合が多いシーズンであった。特にそれまで打撃が非力だった野口将二郎が唐突に打撃に目覚めサヨナラタイムリーを打ったりガルシアが1試合3本塁打で一人で試合をひっくり返したりとミラクルが起こっていたシーズンでもある。
 そんなこんなで独走態勢に入ったツクヨミデファイアンツであったが徐々に紀洲スイフツが追い上げ体勢に入る。デファイアンツの疲れもあって8月に首位を明け渡すとそのまま優勝を許してしまった。ガルシアは49本塁打を放ち田中誠の本塁打記録を更新したもののデファイアンツにとっては苦しい一年であった。この年のガルシアは一応二冠王獲得したもののチームの最終結果で不満が残った。

査定について

 身体能力をかなり再現できている気がします。ミートDパワーSは約束された勝利の能力ですが脚力もまずまず。まあこんなのがいたら将来に期待してしまう気持ちはわからんでもないんですが。

火事場の馬鹿力、調子極端

 この年のデファイアンツ旋風を再現するならまさにこれ。ガルシアが本当にいいところで打っていた。
 でもガルシアが打たなくなってチームの勢いが明らかに落ちていった。ジェットコースターみたいな一年でしたね。

決勝打

 ガルシアがいなかったらこの年のデファイアンツには何も残らないことはないけど二番野口将二郎ぐらいしか残らないチームなので許してやってください。

ヘッドスライディング

 ガルシアの名物ともいうべきヘッドスライディングは野口将二郎が教えたらしい。とりあえず全力でやってる感を出すことだけはうまい二人。

扇風機

 126三振で三振率.305は普通にいかんでしょ。

エピソード

 ガルシアは引退こそしなかったものの抜け殻のようになった。その後も2年連続で30本塁打を記録し1058試合で300本塁打到達は当時の史上最速記録(外国出身選手による300本塁打も初)でもあった。68年も優勝を逃し2位に終わったことを受けシーズンオフに69年シーズン終了後に母国へ帰ることを要望、球団側は認めたくはなかったが本人に契約の意思がないことから引き留めは困難と見られた。
 そして69年は最下位、さらに.252, 27本塁打と満足な数字とは言えず球団社長が裏で発した「30本塁打打つ一塁ぐらいいつでも補強できる」という発言がリークされるなどもありデファイアンツ上層部はガルシアを不良債権と見始めていた。チームの首脳部はそれでもなおガルシアの存在が必要と主張したが通らず契約は更新されなかった。こうしてガルシアは母国に帰国した。

 5年後の1974年、35歳にしてガルシアが復帰した。母国リーグではそれなりに無双していたようだが契約しては自主退団するなどを繰り返しており素行面での不安は付きまとった。発足して10年ほどのSリーグである統一製紙アルバコアズが獲得を発表、5年ぶりの復帰ながら24本塁打を放ちまだ衰えていないことを示した。適応し成績を上げることを期待された75年だったが打率が.220台を行ったり来たりと低迷しておりチームが上位争いをしていたことからシーズン中に二軍降格しシーズンを終えた。.220, 19本塁打と期待された数字からは程遠く、この年のシーズンを以て引退することを発表した。

 引退したガルシアだったが通算385本塁打というキャリアであと15本打てば400本塁打ということもあり1977年、一年のブランクを経て再び現役復帰を図った。
 アルバコアズ側の承認もあり帝都新報ファイアブランズに入団。DH制のないリーグへの移籍で守備面の不安は囁かれたがその不安は的中した。「守れば失策、振れば三振、走る姿はご老体」と揶揄された彼のプレーは17本塁打を記録し見事通算400本塁打はクリアしたものの打率.236で135三振を喫しプロレベルの数字とは言えないものであった。
 前年優勝した帝都新報ファイアブランズは一塁手のホワイトが流出したこともあり彼の代役としてガルシアに期待したがこの穴は埋まらず2位と順位を落として終えてしまうこととなった。このシーズンを以て本当に引退を宣言、プロ野球復帰の話は一度も出ていない。
 通算1591試合, 打率.250, 1294安打, 402本塁打, 1190打点, 215盗塁, 1541三振。球界の核弾頭とのあだ名は彼をよく表していると言える。またキャリアはそれなりに長くこれだけの実績がありながらも一度も優勝を経験できなかったというのも彼らしい。また史上5人目の200-200(200本塁打200盗塁)クラブのメンバーでもある。

 引退後は母国の野球チームで監督を務めるなどしたもののやはり契約で揉めるなど話題に尽きない人間であった。1997年からは農場を営みつつ母国チームの臨時打撃コーチなどを務めていた。2010年に死去。

ひとこと

 ミートFパワーSの出始めの頃の彼を作るか49本塁打の全盛期の彼を作るかはいろいろ悩みますが今回は全盛期です。野口将二郎と重なってるしね。一緒に使ってやってください。

サポートしてくださると非常にありがたいです。