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【超短編小説】怠惰な日の小説

「あまりに忘れっぽい」と人に相談したところ、「日記をつけるべし」との助言をもらった。それに従い、4月のあたまから日記をつけている。その日の出来事や買った本の題などを書くようにしているが、日記に書くことが何もないほど怠惰に過ごすこともよくあるので、そういう日は代わりに短い小説を書くことにした。何かやった感も出るし(何もやっていない)、日記帳も埋まる。怠惰ノベルがいくつか溜まったので、noteに放流する。



📖月磨き(5月4日)

 月を研磨する仕事をしている。地球から月が美しく見えるよう、特別なやすりで磨くのだ。削りかすは月光になって宇宙に振り撒かれる。地球人が月光を頼りに夜道を歩けるのは、私のおかげなのだ。地球から見えるのは常に半面だけだが、球形が崩れないよう、全面を磨きあげる。大変だが、静かな環境で働けるのはよい。
 ある日、やすりが切れた。磨くのに夢中になって、スペアを確認するのをうっかり忘れていた。月磨き用のやすりは遠いメイアン星系の店にしか置いていない。しかも、メイアンから月には航行便が出ていないのだ。このご時世に前時代的な、と思いながら、私はおんぼろの一人乗り往還機に乗ってメイアン星系に向かった。
 メイアンに着陸すると、いきなり糜爛光線が飛んできた。間一髪で躱したが、機体の表面がわずかに溶けた。辺りを見渡すと、ところどころに人であったらしい液体が飛び散っている。戦争をしているのだ。これは困った。やすり屋は無事だろうか。私は往還機をバックパックにニ次元格納すると、飛び交う光線に時折シールドを展開しながら、いそいそと店へ歩いた。
 セプター84にあるやすり屋〈蝕〉は豪胆にも、デブリ用の強靭なシールドで覆われた状態で通常営業していた。「よう、月磨きの兄ちゃん。クソな世の中になったもんだな。まあ見ていけよ」私は店主に新しく入った衛星やすりのおすすめを聞いて、3000枚ほど購入した。
 帰りの往還機の中で、地球のことを考えた。地球でも、よく戦争が起こる。糜爛光線の代わりに、鉛の玉を撃ち合うそうだ。戦争は、うるさい。地球磨きをしている友人は、職場が騒がしくてさぞかし苦労していることだろう。聴覚過敏の私にはとうてい無理だ。
 有人の星を磨くのは、無人の星の何倍も大変だと聞く。人をうっかり殺さないよう細心の注意を払いながら磨かなければならないからだ。それでも、まれに断層の継ぎ目を削っているときに災害を起こして何人か殺してしまうと地球磨きの友人はぼやいていた。いやいや、でもお前のおかげで私たちは美しい地球を眺められるんだよ、素晴らしい仕事さ、と肩を叩いて励ましておいた。


📖嵯峨山亮子の鱗粉(5月7日)

 七月の席替えで初めて隣になった嵯峨山亮子には、妙な噂があった。彼女の背中には羽があるらしいのだ。誰が言い出した噂なのかはわからない。自分こそは証拠を見たぞ、と言い出すものもいない。ただ、嵯峨山亮子の背中には羽があるという噂が、宙に浮いたように五年三組に漂っていた。私は、彼女にあまり興味はなかった。いつも黄色いワンピースを着ている無口な女の子。それ以上の認識は持たなかった。
 私は昔から虫が好きだった。幼い子どもは誰もが一度は昆虫あるいは鉄道あるいは変身ヒーローを愛するが、いつのまにか目にもくれなくなる。しかし私は、いくつ歳をくっても虫への愛が冷めることはなかった。それどころか、捕獲だけでは満足できなくなり、永く手元に置くために標本を作成するようになった。なけなしのお年玉でドイツ箱と展翅板を買い、河川敷で捕えた蝶や蛾を片っ端から、学術的に通用する方法で保存した。小学五年生になった今でも、私は小さな捕虫網と三角紙の入ったケースを毎日持ち歩いている。同級生たちも、クラスに一人はいるおたく少年として私を受け入れていた。
「それ、なんなの?」ある日の昼休み、校庭の隅のクヌギの木の影で、嵯峨山亮子は私の左腰にぶら下がっているケースに興味を示した。「捕まえた虫を入れるケースだよ。ほら」私はケースを開いてみせた。「じゃあその紙は?」彼女がケース内の三角紙を指す。「これは三角紙だよ。鱗翅目を捕まえたときは、この紙で挟んでケースに入れる。羽の鱗粉が飛び散らないように」「ふうん」嵯峨山亮子は顔を上げて、真っ黒い目で私を見ると、「そんな小さいのじゃ私は入らなさそう」と言った。
 私はその日から、嵯峨山亮子に強い興味を抱いた。彼女の噂をにわかに信じるようになった。彼女の背中にあるという羽の色や形を知りたくなった。しかし、彼女は私が話しかけようとするといつもふらりと姿を消し、授業直前にいつのまにか席に戻っていた。あっという間に七月は終わり、夏休みに入り、私が虫捕りに駆け巡っている間に、嵯峨山亮子は遠い街へ引っ越して行った。中学でも高校でも会うことはなかった。
 あれから十余年が経ち、私の虫への愛は一過性のものではなく血液に刻まれたものであることが証明された。ある夏、生物学の貧乏ポスドクになった私は、大学付近の森に這いつくばって汗だくになりながらガサガサやっていた。すると、一匹のヤママユガが目の前を横切った。とりたてて珍しい虫ではない。しかし私は何かに導かれるようにヤママユガを捕まえると、胸部を優しく圧迫して締め殺し、三角紙の中に入れた。小さな蛾はすっぽり収まった。黄色い鱗粉が紙の底にぱらぱらと落ち、真っ黒い複眼が私を見た。綺麗だ、と思った。


📖あるいは猫かもしれない(5月8日)

 ある日の帰り道、私はそれと出会った。手のひらに乗るほどの大きさの、黒い毛玉だ。もぞもぞと動いているので生き物であることは間違いない。犬、あるいは猫かもしれない。かねてより猫、あるいは猫的な生き物が飼いたいと思っていた。私は側溝から毛玉を拾い上げると、それをはじめての友とした。
 母は、私が連れ帰った毛玉を見て悲鳴をあげた。「大きな毛虫じゃないでしょうね」たしかに、丸々とした毛虫にも見える。毛虫、あるいは猫かもしれない。はじめての友だちだ、と言うと母は少し困った顔をしてから飼育を承諾した。
黒い毛玉は、キャベツの芯を好んだ。目や口がどこにあるのかすらわからなかったが、近くにキャベツの芯を置くといつのまにかなくなった。そういえば、テレビでキャベツを取り合うウニの映像を見たことがある。ウニ、あるいは猫かもしれない。
 毛玉は私と行動を共にしたがった。スクールバッグの持ち手に張り付き、キーホルダーですよという顔で登校した。鞄にぶら下がって揺れる様子を見ると、本当に生き物かどうか疑わしくなってくる。キーホルダー、あるいは猫かもしれない。幸い私の鞄に興味を示す人はいなかったので、問い詰められることもなかった。
 黒い毛玉の存在は私を癒した。毛玉さえいれば友は必要なかった。毛玉のほうも私に心を許していると見えて、足にじゃれついたりわざと机上の物を落として私を困らせたりした。親友、あるいは猫かもしれない。私は毛玉との関わりによってコミュニケーションを学んだ。
 ある日、大学で小柄な同級生に話しかけられた。その本僕も好きなんだ、と笑いかけてきた。染められていない髪は黒くふわふわしている。心地が良かった。これを私の二人目の友としようと決めた。私は毛玉にするのと同じように彼に接した。抱きしめて家に連れ帰り、キャベツの芯を与え、毎日一緒に寝起きし、連れ立って行動した。彼と過ごすうちに、いつしか毛玉はいなくなった。だが、彼が毛玉の代わりになってくれる。人間、あるいは猫かもしれない。

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