見出し画像

猫の啼く夜

ヘミングウェイ『雨の中の猫(原題:Cat in the Rain)を読む。

海に面したイタリアのホテルに滞在するアメリカ人夫婦。
雨の降る夕暮れ、妻は窓から、カフェのテーブルの下で身をちぢこませる子猫を見つける。彼女は雨の中、ホテルのメイドを伴いながらも子猫を拾いに外へ出るが、その時にはすでに子猫はどこにもいなかった。
部屋に戻った妻は、夫に向けて「猫が欲しい」「髪を伸ばしたい」等々、本気とも冗談ともつかない願いを口にし続ける。窓の外は、だんだんと夜になる。雨は降り続けている…

わずか4ページ程度の短編小説である。ところが、さっと読み流しただけではまったく意図がつかめない。単なる夫婦の会話と、雨の中で濡れて可哀想な子猫の話である。

これを、物語に登場する小道具や、行間、余白、会話の中のコンテクストをひとつひとつ汲み取って、この夫婦の背景や作者の意図を想像する。この作業を心置きなく、豊かにできる小説というのは、意外に少ない。ヘミングウェイだから、古典という信頼感があるからこそ、なのかも知れない。

***

雨の夕暮れ、窓から外を眺めていた妻は、カフェのテーブルの下で身を丸める猫を見つけて、言う。

「私、降りて行ってあの子猫を拾ってくるわ」

夫は「僕がやるよ」と言いながらも、読書を続けたまま動こうとしない。それを知っているのか、妻は「いいえ、私が行く」と即答し、その猫がどんなに可哀想な状態なのかを付け加える。「濡れないようにね」と声を掛ける夫は一見優しそうだが、この男、ベッドの上で枕に寄りかかったまま、動こうとしない。

妻が外へ出ようとすると、ホテルのメイドが追いかけて来て傘を差し掛けてくれ、雨の砂利道を歩く。濡れて鮮やかに光るエメラルドグリーンのテーブル。海辺のむせ返るような潮の匂いが混じった、柔らかで冷たいイタリアの雨が情景として浮かび上がる。

結局、猫はもうそこにはいなかった。
がっかりと肩を落とす、アメリカ人妻の姿が見える。いるはずの猫がおらず、裏切られたような心持ちで、呆然と立ち尽くした彼女の姿が哀れだ。つい今しがたまで目の先にあった、手に入るはずの小さな子猫―――ささやかな願いが、するりと指の隙間をすり抜けてどこかへ行ってしまった。

「ア・ペルドゥート・クワルケ・コーザ、シニョーラ?(何か失くされたのですか?奥様)
「スィ、イル・ガット(ええ、猫よ)」

彼女にとって、失くし物は猫だ。
猫だが、それは雨に濡れて憐れな猫そのものではなく、猫に暗喩される彼女の願いそのものだ。彼女の願いは子猫のようにささやかだが、いつも雨に降られ、濡れまいと必死に身を小さくしている。

別に、誰に心配されずとも、野良猫は外で逞しく生きている。
それを、雨に濡れて可哀想(poor kitty)だと感じるのは、感じる側の傲慢ともいえるし、「可哀想な自分」を投影している場合もある。つまりこのアメリカ人妻は、自分自身の人生にやり切れないほどの不満や生きづらさを感じている。自分の努力ではどうしようもできないから、誰かが助けてくれないかしら―――そんな意図が見え隠れする。

ホテルの部屋に戻る。「猫は捕まえたかい?」と聞く夫に、彼女は「いなくなっていたわ」と応える。ベッドの脇に腰掛け、「私、あの猫が欲しかったの。あの可哀想な子猫が欲しかったの」。
原文では、「I wanted…」がひたすら繰り返される。その繰り返しに幼稚さを感じると同時に、過去形が使われることに引っかかりを覚える。どうにも時間だけの過去ではない。(あのね、何回も繰り返し言って申し訳ないのだけど、わたし本気で言ってるんじゃないのよ…)という、彼女の夫に対する遠慮というか、途方もない距離感を感じてしまう部分だ。

これに夫は返事をしない。
黙ったまま、読書を続ける。

返事をしない夫はいつものことなのだろうか。
妻は鏡を覗き込みながら、「髪を伸ばしてみるのはどうかしら」と言う。この時、彼女は手鏡で自分の横顔を見ながら喋っているので、夫の方を見ない。反して夫の方は本から顔を上げて、少年のように短く刈り込んだ妻の首筋を見ながら言う。

「今の方が好きだな。すごく可愛いと思うけどね」

夫の返答はソフトだが、これを妻は(夫は髪を伸ばすことすら許してくれない)と受け止めている。後半の、「髪を伸ばして少しだけ楽しむのもだめなら…」という発言から、それがはっきりとわかる。

少年のように短い髪―――それが可愛い、好きだと言う夫。つまり、妻には幼稚な存在でいてほしいと望む夫と、それを知ってか知らずか、不満を感じながらも幼稚な言動を繰り返してしまう妻。この二人の関係性が、ここからじわりと浮かび上がってくる。

「私、髪を後ろでしっかりとなでつけて、後ろで滑らかに結って、自分でも触れるくらい大きな結びを後ろに作りたいの」と彼女は言った。「子猫を膝の上に乗せて、撫でた時に喉を鳴らしてほしいの」
「それで?」とジョージはベッドから言った。
「それに自分用の銀食器一式がそろったテーブルで食事をしたいし、キャンドルも欲しいわ。さらに春であってほしいし、鏡の前で自分の髪を梳かして整えたいし、子猫だって欲しいし、新しいお洋服も何着か欲しいの」
「いい加減にして、何か読んだらどうだ」

妻の言動は幼稚に聴こえる。だが、これらの願望はわからないでもない。あまりにもささやかな願いの羅列。しかし、中に「春であってほしい(And I want it to be spring)」という願望が突然差し込まれる。季節のことなんて個人の努力ではどうにもならないし、一年待てば必ず春は巡ってくるにも関わらず。ここに彼女の(わたしの考えは幼稚なのよ、わかるでしょう、だから黙って聞いてね、怒らないで頂戴ね)というような暗黙の主張があるように思えてならない。賢い女が、あえて幼稚さを演じているような…。

それに対して夫は「本を読め」というような返答をするが、本を読んで解決できるような願望ではないことぐらいわかるだろう。この夫が、銀食器ひとつ、キャンドルひとつ、何着かの洋服すら買えない甲斐性なしか、まったく話を聞いていないかのどちらかだと言うことだ。
原文では「Oh,shut up」とより直接的な表現をしているし、話も聞けない、髪を伸ばしたり子猫を飼ったりすることすら許せない心の狭い男だということが、ここではっきりする。本から顔をあげて妻の話を聞く、優しい夫のフリをしてはいるが、実のところ、読書の邪魔をされるのが許せないのだということも。

最後に、扉がノックされ、ホテルのメイドが猫を抱えてやってくる。
アメリカ人妻を憐れに思ったかどうか知らないが、ホテルの支配人の配慮である。この猫が、さっき妻が見つけた可哀想な猫と同じ猫なのかどうかはわからない…というところでこの小説は突然終わるのだが。

そうじゃない。猫じゃない」―――思わず、頭を抱えてしまう。

同じ猫か、そうじゃないかも含めて、いまこの妻に必要なのは「猫」そのものではない。
撫でたら喉を鳴らしてくれる存在、つまり、話しかけたらまともな反応が返ってくる存在かもしれない。あるいは、この「夫婦の危機」を救ってくれる子供という存在かも知れない(ベッドの隠喩が多く出てくるあたり、作者がそれを意図した可能性は充分にある)。

どうしてこのアメリカ人夫婦は、イタリアのホテルに滞在していたのだろう。ここで猫を譲り受けても、連れて帰るのは容易ではない。解説に書いてあるように、離婚危機なのか?それにしては、妻が隷属的すぎる。偏見かも知れないが、離婚できるような妻ならば、髪は好きなように伸ばすだろうし、銀食器や洋服を自分で買うことくらいへいちゃらだろう。

いずれにしても、他所の夫婦の会話をのぞき見しているようで非常に面白かった。彼らが今後どうしていくかは、知らないし、別に知らなくても良いことだ。

外から、どこの子だろうか。マオマオと猫の鳴く声が聴こえている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?