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電波ゲー好き×創作者の「ニディガ対談」の全貌

※本記事は『俺は「Needy girl Overdose」が嫌いだ』及び『俺が「Needy Girl Overdose」に思う、「理想」と「宗教」の話』を読んだうえで、「Needy Girl Overdose」をクリアした直後のMixa氏とTwitter上で行った対談をまとめ、後々思ったことを足したものです。
当該記事をお読みになっていない方は、そちらをお読みいただけると内容がより深まると思います。
また、当然のように「Needy Girl Overdose」をネタバレするため、ご一読の際はお気を付けください。

あれからしばらく、俺は「Needy Girl Overdose」からは離れていた。
普通にやりたいゲームが山のように積もっていたし、新エンディングがあっても「これ以上苦しむのもつらい」という食指が伸びないという状態だったので、ある種自然な帰結なのだろう。
何よりやることが鬼のようにたまっており、「やっとる余裕がない」という状態でもあったのだが…。

そんな折、Twitterのフォロワーの一人、「Mixa氏」がニディガをプレイするという話が入ってきた。
彼は古くからの付き合いではあるが、俺のNoteを積極的に拡散してくれるし、かなり丁寧に意見を述べてくれる貴重な存在である。いつもありがとう。
そして彼は漫画を描く創作者でもある。
俺とは違い、1次創作を作っているわけだ。偉い!
そんな彼がニディガをやり、意見してくれるというのだから、そりゃ楽しみだと思って待ち望んでいた。
システム以外の面からゲームを考えてくれるゲーマーって貴重だからね。

次のリンクが、Mixa氏が「(un)happy end world」をクリアした時点での感想である。

そしてこれが、俺の返信となる感想である。

なるほど、お互いに見ているところが凄い。
普通のプレイヤーは「あめちゃん=超てんちゃんに依存し、消えていく超てんちゃんに絶望して苦しむ」らしいが、俺らは互いにそうした視点を持たず、絶妙な距離感を取って回避している。
Mixa氏はあめちゃんを冷静に分析しているし、俺はあめちゃんに対する「虚無」を主張している。
普通ならここまで出てこない。
「あめちゃん、どこ行っちゃったの…?」ってなるからだ。
お互いひねくれてるんだろうな(Mixaさん、すまん)。

しかし、Mixa氏のいう「オーバードーズ的ネットの承認」というのは、俺はあまり考えなかったので興味深い。
真に創作者であるならば、数字に囚われる現実的問題と、自分の表現したいものを伝える感情との間で悶々とするというのは、わからなくもない。
かくいう俺も昔は動画作ってたから、数字の魅力に憑りつかれるのは十分理解できる。
というか今もそう。
わざわざ「嫌いだ」なんて強いタイトル表現を使ったり、タイミングに合わせてP4Gの記事を出したり、案外仕掛けを施している部分はある。
この辺は難しいが、「俺の伝えたいことを伝えるには、まずインパクトや時節を用いて、人に見てもらうしかない」という、数字から始めるエトセトラ的な考えがあるんだろう。
今はネットの承認に犯されきっているわけではないが、それでも多少はそういうことが首をもたげるあたり、まだまだなんだろうな。
学びです。

まぁ創作系統は置いておいて。
この辺で何となく気づき始めたが、どうやら俺は「あめちゃんをあめちゃんとして見ていなかった」ようだ。
「ニディガが嫌いだ」の記事では、あめちゃんの何者かという部分には一切触れていないし、そのうえでゲーム全体の持つコンセプトから話を展開している。
あめちゃんは俺にとっての何だったんだろう。
Mixa氏はあめちゃんと向き合っているのに、なぜ俺は向き合っていない?
文中、俺はあめちゃんに対して「ない」という言葉を使っているが、ここにはNeverAwakeman氏のNoteの影響がある。
彼の「無責任」という言葉に強く共感していたからだろう。
この時点では「あめちゃんは存在すらないのだから、考察すら無意味だ」と思っていた。

ちなみに余談だが、本作と「Serial Experiments Lain」の繋がりに関しては、「さよ教」と合わせて記事にして公開してやろうかと思っていたころがある。
残念ながら構想が固まらず没になったが、ここで話せて良かったなと思った。
Milk outsideのMilkちゃんは、もうロシア産Lainと言っても過言じゃないような気がするので(流石に言いすぎかな…?)、やっぱりこういう話してくると出てくるな~と思いながら出していた。

その後、Happy end worldを終えたMixa氏が、再度ふせったーを投稿してくれた。
彼は前置きで、俺が出していた「解脱という概念は違うんじゃないか?」と書いてくれた。

素直に嬉しいし、ものすごく楽しみだった。
こうした考察に反証が出てくれるのは大変ありがたいことである。
自分の考察が絶対的に正しいことはないし、俺のNoteでも読み返してみると「いや、ここはおかしいだろ…」と思うときが度々ある。
だからこそ、こうして他者から反証が来るのは大変うれしいのだ。
ホントにありがとう。
とはいえ、俺は「解脱」の結論は全く変わっていなかったし、「どう反証してくるんだろうか」とチャレンジャーに立ち向かう壁の気分になりながら(何様なんだ)、更新を楽しみに待った。

以下、彼の感想である。

そして、俺の返信が下記リンクである。

彼は、あめちゃんが100万人を超えた状態でインターネットから離脱したことで、あめちゃん本人が承認欲求の最高値に達し、オーバードーズの中で死ぬという発想をしていた。
これは、俺がMixa氏に予告されたあとに検討した仮説の一つにあった。
あめちゃんが最高の配信者として自分を凍結することで、最高の状態のままを保存し、インターネットから抜けることで永遠にしようとする考え方だ。
だからこそ、彼女は自死を選んだ。
Mixa氏は、そう解釈した。

Mixa氏のあめちゃんに対する怒りは、無責任で大人になれなかったことへの怒りなんだろう。
これは、俺が「宗教」という括りの中で話した、超てんちゃんの配信に縋るオタクたちの救いというところにも共通する部分がある。
俺は、8月ごろの配信を見て、理想しか語らない超てんちゃんに無責任という言葉を投げかけた。
じゃあ、ゲーム中でいなくなった超てんちゃんを見て、人生相談をした彼女はどう思ったのだろうか。
そこにある「無責任」という言葉は、とても重いものだ。

さて、こうしたMixa氏の解釈に対しては、実は返答に困っていた。
というのも、「ごもっとも」であったからだ。
Mixa氏の文章には、以下のような記載がある。

俺はこのEDの終わりにあめちゃんは"脳内麻薬で気持ち良くなり過ぎて壊れる"という破滅に辿り着いたんじゃないかと思ってて、この説にはそれなりの自信を持っている。"この画面を見ることを目的に、自分が永遠になったことを確認するために"あめちゃんは"超てんちゃんとしてのあめちゃん"を殺したのだ。
俺は未プレイ時になるぼぼさんの記事を読んでて"解脱"という言葉が浮かんだんだけど、"そういう意味で解脱してしまうこと"というのは、果たして"一般的な価値観"に於いて憧れる様なもんなのか?と自分でHEWを観た後の今となっては思っている。

まさに、あめちゃんは超てんちゃんを殺した。
あめちゃんは超てんちゃんを破壊したことで、永遠になった。
まごうことなき事実で、そこにはオーバードーズの臨界点を超えた、真なる幸せをつかみ取ったあめちゃんがいた。
それはまさに自死であった、というのは、実につじつまの合う内容である。
永遠を形作るためには、死を選択するほかない。
素晴らしい考察だ。

何より俺が焦ったのは、「やはり俺はあめちゃんを見ていなかった」という事実に気づいたことだ。
Mixa氏は純粋にあめちゃんを見続けている。
以下の文章は、まさにあめちゃんを見ている証左と言える。

一配信者として"一般的な幸せ"を見事掴んだUHEWのあめちゃんは、飽きと虚しさを隠して生きる"きしょきしょ大人"になってしまったんだけど、永遠に飽きないためには?永遠に虚しくならないためには?と思うと、そこを最終目的にしたら人は死ぬ以外の選択肢は無いからだ。HEWを終えたあめちゃんがあの後生きて社会復帰していたとして、UHEWを"(un)happy"と定義する限り、healthy partyの様にまともにやろうとしても、"いや無理だろう"という考えにしかならないのだから。

だからこそ、俺は見ている視点が全く違い、Mixa氏が至極真っ当なことを言っていることに、動揺を隠せなかった。
こうした背景の中で、上の返信を書いた。
反論のように見えるが、実は絶妙な話題そらしだったりもするんだよな、これ。
ズルいかもしれないが、正直「俺が理解する気がないぐらい、あめちゃんは壊れていて、混ざり合った虚無なんだ」としか思わなかったから、それを書いただけでもある。
そこには心理的トラウマもあるが、それ以上の「あの子を個性として認知できない何か」があったような気がする。

非常に物悲しいことなのだが、俺は結論を出したうえでも「あめちゃんを正確に認知できなかった」。
とても悲しいことに、あめちゃんはもうインターネットの集合知にしか見えなくなっていて、それ以上の「女の子」として把握することすら無理だった。
90年代のネタを出しながら(Vaperwave的に)、色々なことをしながらもピだけを見続けてくれる、そうしたあめちゃんは、(どこかいびつだが)俺らの考える「メンヘラの典型例」である。
しかし、それらが全員に共通する「メンヘラの典型例の像」であるのならば、あめちゃんはただの像である。
無個性だ。

こう書いてくるとNeverAwakeman氏の考察が正しかったなと思い始めた。
俺があめちゃんと同質化するのではなく、俺の中にある「メンヘラ像」とあめちゃんが同質化するのなら、無個性に見えるのは当たり前だ。
それは大衆が生み出した産物で、個性ある人間ではない。
少なくとも彼女は「対話相手」ではあるが、「対話」はAIと喋っているようなそれでしかない。
Windoseについての言及もそうしたものだろう。

だから、あめちゃんが一人でモニターを眺めているだけの「ひみつのこと.txt」の一人称的発想は、正直違うんじゃないかって思っている。
全部がないもので、存在しているのはゲームをしていた「私だけ」なのだ。
あめちゃんは、最後に「ピも架空で必要なかったんだよ」と我々に宣告するが、そうではなく、あめちゃんが俺らの前からさようならしただけで、それ以上のことはないのだ。
現実を持つのは我々であり、彼女は見捨てるように「演じている」だけである。
少なくとも、俺はそう解釈する。
最後の言葉がやけに優しいうえに、プレイヤーにはあめちゃんと過ごした思い出がこびりついているから、「行ってしまった」なんて思うのかな。

そんな思いであのTwitlongerを書いた。
色々と整理できたような、出来ていないような、絶妙な気持ちで書ききった気がする。

そんな折、返信が来た。
以下、Mixa氏からの返信である。

あめちゃんに共感する…か。
正直無理。

だって、ODして、自分を傷つけてまで、自尊心が高いのに、変な所で弱気になってピに助けを求めて、好きな人だけに依存するような人は、対話相手としては異質性があって面白いけど、同質性を見出せないから。
だから、Happy end worldは、コンセプト的に「インターネットからの離脱」を証明して、オタクに伝えたかったのかな…と俺は思っている。

さて、Mixa氏も疑問に出し、俺も引っ張りだこにしている「オタクはなぜ一緒に離脱したのか」だが、実は結論を記事の中で出していたりする。
「宗教」だ。
カルト的に妄信した人間の行動は、残念ながら「どれだけそれがおかしいことであっても信じてやまなくなってしまう」ということと、「模倣すること」にある。
それが何を言っていても信仰心のままに突き進んでしまうことは、今までのメガテンシリーズの記事で散々語ってきたことである。

ゲーム内のオタクは、「超てんちゃんを信仰してやまなかった」からこそ、カルト的に超てんちゃんに堕ちているからこそ、「離脱に付き添った」のだろう。
俺は最初にエンディングを見たときに「インフルエンサー的な力」が原因だと思ったが、なんか違う。
彼らの動きは理解できない。
彼らは「毒電波に操られた何者か」であり、「メグマによりコントロールされ狂気に堕ちた人間」にかなり近い。

超てんちゃんは、信仰深きオタクを生み出したうえで、オタクを開放し全てのしがらみを外に投げ出し、承認欲求を求めオーバードーズしてどこかに消える。
シンプルに超てんちゃんはあの空間で神になっていたが、オタクたちはそれを追いかけるように、信仰深き信者として、姿を消していく。
そこにあるのは狂気的な集団自殺のような空虚さであり、それこそ「終ノ空」にあるシーンと同じだ。

しかし、あれは毒電波という物理的な手段が取られていたわけだが、本作にはそうした電波的シーンは見られない。
だったらオタクは理性的に気づくはずだし、現実世界なら当然のように「忘れていく」はずだ。
ではなぜそうならないのか。

もしかすると、あのエンディングには、「今の時代にこそ電波的狂気が顕現する危険性がある」ということを示しているのではないだろうか。
あの終ノ空のような操りが起きるように、誰かを信じすぎて、誰かと同質化する幻想に溺れて、おかしなことを言っていてもそれに気づかずに、信仰深き信徒として生きていくことは、まさに宗教的であり、狂気的である。
Windoseは、そうしたことを示すような、一種のシミュレーターだったのだろうか。
本作には、狂気的なコンセプトが多数眠っているが、そうしたものの一幕に、現代社会の脆さと信仰への期待と恐怖が両立しているように感じる。
僕は恐怖を感じ取れたが、果たして何人がそこに辿り着けるのだろうか…?

そして面白いのが、そこには90年代の作品の風潮にあった、「電波」が介在しているということだ。
本作を狂気的にさせるのはこの「90年代の電波」である。
俺はこれが間違いないと思っているから、もっと90年代を理解して、90年代の電波的発想を理解して、あめちゃんにどこまでそれが付けられているのか、そういったものを理解したいと思う。
そうしたコラムを書いてみたいが、それはまた今度ということで。

さて、Mixa氏との対談は以上となる。
途中こちらの感想や考察が続いたが、ご容赦頂ければ幸いである。
最後に謝辞にはなるが、Mixa氏にはニディガのプレイから感想の提示、様々な意見の提示と大変勉強になった。
良い議論ができたので大満足である。
ありがとうございました。

最後に、Mixa氏のTwitterとPixivを貼っておくので、是非フォローして見て欲しい。
面白い創作が見れるだろう。
Pixivに関してはR-18要素が強いのでご注意を。



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