「ギフテッド」「ギフティッド」といろいろな解釈

*今回は体験談的なものは全く無しで、定義や文科省の動きについての私の感想と、有用なリンクを貼っただけの内容となってます。←そんなん、とっくに読んでるよ!て方も多いかも。
体験や成育記録、困難さの克服方法などをシェアしていただく目的でクリックしてくださった方、いらっしゃいましたら申し訳ありません。🙇🏻‍♂️

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私はnoteは主にスマートフォンのアプリで読んだり書いたりしてるのですが、使い方をよく分かってなかったみたいで、時々リロード(更新)しないと新しい記事がすぐには画面上に反映されないってのを、つい最近まで知りませんでした。
お勧め記事も、リロードするとランダムピックアップされる組み合わせが変わるんですね。
こんなに「ギフテッド」または「ギフティッド」というワードで書いてる方達がいらっしゃるの、知らなかったです。最近増えて来てる感じかな。

いろんな解釈が有って、またこの解釈や支援の仕方は間違ってる!という指摘や問題提起が有って、用語の定義段階で先ず大きなわだかまりを感じますが、しかしそんなことはお構い無しに有償無償の支援だったり、名乗り上げが増えて来て、とにかく今、大きく動いてるんだなと感じます。

この件に限らないのですが、英語(なり他の外国語)だと言葉通りの意味で使われてるだけのことが、日本に輸入される時には、良い例となるかどうか分かりませんが、例えば「threshold とは閾値のことです!」みたいな、何か限定された用法の単語として使われることが少なからず有ります。
これはある意味仕方がないことでもあって、特に学術はじめ何かその分野の専門用語として使われる場合には、その用法が第一として通じている世界が存在し、またその単語が特定の意味で使われ始めた有名な原典やそれに繋がる研究が有ったりもするので、その延長線上では、現地であっても何か特定の現象をさしてその言葉が使われるといったケースが有るからです。派生語として使われている。本来ならば「数値のthreshold」などと表現されるべきですが、ギョーカイの方々はいちいち言わなくてもthresholdが閾値のことを表しており入口の敷居を表してるのではないと分かるので、あえて言わないでも暗黙の了解となっていたりします。(ちょっとthresholdが良い例だったかどうか自信無いですが意図するところは分かっていただけると思います)
このようなことは外国語を専門用語として使う場合に多発しています。

ギフテッドに関しても私は同じようなものを感じていて、英語のgiftedであればわりと曖昧かつ主観的な使われ方で構わないのではないかと思うのですが、これを根拠に日本で支援(特に問題となるのは税金を投じた無料の支援)を受けたり、自分や自分の子どもがギフテッドであると名乗りをあげたりする時に、「そういう意味ではない!」といった定義の問題が出て来てしまうのだと思う。
ややこしいのは、英語が公用語となる国で実際にgiftedであるとして支援を受けられた経験を持つ当事者や保護者の日本人が少ないながらも存在されていたり、また現地でgiftedに関わるリサーチや研究に加わったという日本人の方々がいらっしゃったりする点。その方々は、それぞれが関わられた関係先でのgiftedの解釈が全てとして理解されてる可能性が高く、日本人の言うギフテッドとは少し違っているかも知れないし、また現地の他の関係先や、一般解釈とすら多少ズレているかも知れません。言語には広がりと揺らぎが有るので、デジタルにA=Bというようには行かないところをあえてA=Bとしてあるのが言語辞典ですが、その単語が造語でもない限り、比較的新しい概念に対して辞書的な解釈を持ち込むのはリスクが有ります。

おそらくですが、そういう現地(「ギフテッド」教育はアメリカ発祥だそうです)での揺らぎや変化も考慮して、日本の文科省は「2E」という言葉を採用して仕切り直し「いわゆるギフテッド」のみを対象とするものではないという姿勢を示しているのにも関わらず、マスメディアはじめむしろギフテッドという表現によりフォーカスされる現状となっているのが面白い。
これは勘ですが、もし何らかの支援を必要とされる場合にはこれからは当事者はギフテッドであるとするよりも2Eであるとした方が文科省や国がバックアップする団体へはアクセスの良い状況となるんじゃないかなと感じます。実際、困難さを伴わないギフテッドは非常に珍しいのではないでしょうか。(ごく稀に周囲の者にストレスを与えないギフテッドの方もいらっしゃいますが本人の中で大きな困難を抱えていないとは限らない)地域によってはまだきちんとした窓口が存在しないか発達障害や学習障害向けの窓口からという可能性は高いけれど、実際に現れて来る症状としては発達障害や学習障害の症状の上に「領域非依存的な才能」が乗っかってる状態なので、従来から発達障害や学習障害に対応されて来た方々の方により深い理解が有ることは期待できます。
文科省見解↓


また下記は、個人の方(松村暢隆さん/関西大学名誉教授)のウェブサイトなのですが、以前「2E」で検索して以来、時々読ませていただいております。
特に、継続してご参加されている文科省の「才能のある子の指導・支援」有識者会議の記録が大変興味深くて、日本の2E教育にご興味をお持ちの方は必読です。

日本人が「ギフテッド」と言う場合の定義には、元となる英語のgiftedという意味と同じくらいの揺らぎが含まれる一方で、それぞれの方がそのギフテッドという概念を学ばれた要因が強く反映された限定された意味が少しずつズレた形で含まれているようです。
しかし2E教育に関しては、文科省の方では認識の擦り合わせが行われており、従って文科省の側からのブレは無い状態。当事者や当事者の保護者が個人的に表現する際にどのような言葉を使うかは自由ですが、文部省の方でどのような見解を持ち、支援を考えているのかというのは、知っておいて損は無いと感じました。

下記、長いですが第14回フォーラムの「審議のまとめ」からの抜粋です。
マスメディアの人は耳が痛いかな。

② ギフテッドと特異な才能
一般の認識とのズレは、そもそも「特異な才能」という用語に表れる。 一般で広く言われるのは「ギフテッド」であり、有識者会議では慎重に避けてきたのだが、報道では一貫して、「有識者会議はギフテッドについて議論してきて、文科省はギフテッドの支援に乗り出す」などと表現している。 「はじめに」の註1(p.1)にも記されたように、「ギフテッド」は「突出した才能」あるいは「障碍や才能による困難を伴う」という意味に限定して用いられることが多く、その文脈で何を指しているのかが曖昧で、その都度確認が必要になる。 結局、文科省の教育行政用語として「特異な才能」が採用されたが、それが「限定された意味のギフテッドの言い換えだ」と解釈されると、生じる問題は変わらない。 「特異」は「突出」「特別」ではなく、「特異な才能」は広い意味を表すということを念押しする必要が今後も続くだろう。

③ 特異な才能の定義と基準
「特異な才能」を特定の基準で定義しないと論じたことが、誤解や不安を招いてきた。 先生たちを始め、「特異な才能の定義、すなわち誰がそれをもつのか」を判別する基準を示して欲しいという声が上がる。 しかし、才能は多様な分野・種類・程度の特性なので、国が「IQ130以上」などと限定することは、様々な問題を引き起こす。 個別の取組の対象者について把握すべき才能特性は、目的に応じて個別に決まる。これは学校の入試と同じである。 個別の取組に相応しい特性をどうやって把握すべきかは、今後文科省が取り組む事業の情報集約・発信の課題となる。