「繋がらない」の本音
好きな人ほど、繋がっていたくない。
正しくいうと、繋がりすぎていたくない。例えば、SNS。
「インスタやってる?」
「ツイッターやってますか?」
「繋がろうよ」
無邪気だなあと思う。素敵だなあと思う。そんなふうに自分も、20代の頃は躊躇なく口にした。
勢いの時代というものがあった。どんどん声をかけて、かけられて、たくさんの繋がりが当たり前の、きらきらの時期。
でも、実は「きらきら」って、光が見えたり見えなかったりすることで、それは安定した輝きとは違うもの。
そしてきれいなものはきっと、不安が入り混じる。だから若さはやっぱり、きれいなんだ。
物事の表裏一体は、どんなシーンにも否応なく発揮される。
繋がりは素敵で支えで、不安でさみしい。
比べるつもりなどなくても、まぶしいものをみると、こちらが暗がりに見えて、ナチュラルに落ち込む。
ナチュラルすぎて気付いてももらえず、自然に傷が増えたりもする。
人として大切な時期かもしれない、でも続けば知らぬ間に傷だらけになる。
ある日、ひょんなことがきっかけで、ある人とSNSのつながりをやめた。
気になってたまに覗いたりもした。それが、週3、月に3、そのうち忘れてきて、たまーに覗くくらいになる。
でも、会えば話す。
SNSを見ていないから、最近どうしているか知らず、聞くことが全て新しい。自分も気持ちを作ることなく反応する。
相手はその反応がまたうれしいのか、話すのが楽しそうで、たぶんそこに書き込まれていない感情までしっかり盛りつけて届けてくれる。
あれ、なんかちょっといい。
それに勝手に落ち込むことも減る。
そう、いつも勝手にまぶしいものを見て、勝手にこちらを暗がりにして、ひとり勝手に落ち込んでいた。
だれかの日常や行動を見るだけで落ち込むなんて、不健康だ。
避けられる傷はなんとか避けるくらいの考えと行動力は、もっているはずなんだ。だってわたしはもう、あの頃の若いわたしじゃない。
むしろあの頃ナチュラルについてきた傷を、労わってあげられるくらいの大人でありたい。
そんなふうに時を経て、好きな人ほど繋がっていたくないという思いは今や、「なるべく知り合いとは連絡ツールだけ」へと育った。
もちろんブレずに今も、好きな人たちほど繋がっていたくない。
今ではすっかり、「アナログの人」と化した。
SNSの話題についていけないときも、アナログだからしょうがないなあと言いつつ、だいたいの人は、なんだかんだ説明し直してくれる。
繋がらない豊かさは、たしかにある。
そのときどきで豊かさも変わる。更新していく。
よかったものと少し離れて、また、何かがあれば近づく。
何かにしがみついていては、前へ進めない。
そしてきっと、もっと先の自分が今を思い出したら、今も少しはきらきらしているのだと思う。あの頃よりは少ないけれど、全体的に仄明るい景色のなかで。
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