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小さな生き物と暮らすこと

二年ちょっと介護した老犬が、今年はじめに虹の橋のたもとへ旅立った。
惚けてしまって夜泣きや徘徊をするようになり、夜中も頻繁に様子を見に行かなければならなかった。歳を取って身汚くなり、きれいな長い毛を「介護仕様」と称してざん切りカットにしたから、使い古しのぬいぐるみよりもぼろぼろのくたくただった。
いつ寝ているのか判らない生活が続いて、わたしは奪衣婆のごとく老け込んだ。それでも、存在そのものが日々愛おしかった。
「わたしより先に死んでくれなきゃ困るからね」
そう言いながらも本当のところは、そんな日はもっとずっと先だと思っていたかった。
老衰を看取れたことは、飼い主としてこれ以上ないしあわせだ。介護をさせてくれたから、僅かながらもこころの準備が出来た。
きっと今頃、どこも痛くない身体でのんびり昼寝をしている。美味しいものだけもりもり食べている。そうあって欲しい。無力な飼い主はただそう祈る。
いつか虹の橋を一緒に渡る日まで、どうか穏やかに待っていてほしい。そう祈る。

結婚してからのほとんどの年月を、動物が一緒にいる暮らしをしてきた。
ハムスター三匹、チンチラ二匹。そして二匹の小型犬。
しかし小動物の寿命はあまりに短く、何匹もを看取って今では初老の犬一匹と中年夫婦だけのくらしになった。
生活の中でずっと心がけていることがある。それは、人間の都合で売買され、縁あってうちにきてくれた命との約束だ。
なるべく不自由をさせない。なるべく毎日楽しく暮らす。なるべく嫌な思いをさせない。
ひとつずつ命を見送るたび、もっとああしてやればよかった、これが悪かったのではないか、と後悔するなかで、次に家族に迎えた動物への待遇は否応なくグレードアップしていく。
現状、我が家で一番日当たりのいいベランダに面した部屋は犬小屋で、七畳ほどの部屋を犬一匹が占有している。十八畳用のエアコンで常時室温管理をしており、わたしたち夫婦の部屋より快適ではないかと思われる。
そうしてなるべく良い環境で暮らして欲しいと願うのは、わたしが最初に飼った猫の存在が大きい。あれから何十年もたって、まだわたしは自分を許せていない。

かつて、道ばたで仔猫を拾った。
その頃のわたしは二十歳前で貧乏暮らしで、ひとりでぼろアパートに住みながらアルバイトに明け暮れていた。なにをどう言いつくろっても猫を拾ってもいい経済状況ではなかった。
それでも、怪我をして立つことも出来ないまま、傷口を蟻にたかられていた小さな茶色の毛玉を、わたしは見捨てることが出来なかった。いったん家に帰ったものの尻が落ち着かず、バスタオルを掴んで仔猫の元へ駆け戻った。たくさんの蟻ごとタオルにくるんで連れ帰り、手持ちの薬では手当てしきれずに獣医へ駆け込んだ。そうしてわたしは仔猫にるちゃという名前を付けて、同居人を得た。

るちゃはいいことも悪いこともたくさんやらかしてくれながらなんとか大きく育ってくれて、あっという間に一年が過ぎた。
あるとき、どうしても外せない用事のために、友人に一週間ほど猫を預けることにした。一週間たって、猫を引き取りにいったわたしは安易に人に大事な猫を預けたことを心の底から悔やんだ。
猫は友人のアパートから早々に逃げ出していた。けれども友人は猫を一生懸命探してくれていて、居所は判っているという。
「けれどもどうしても連れて帰れなくて」と言いながら、友人はその場所へわたしを案内してくれた。
立派な日本邸宅の生け垣の向こうを、友人は指さした。広い庭の向こうに平屋の大きなお屋敷があった。広い縁側に紫色の分厚い座布団が置かれていて、その上でるちゃが寝ていた。つやのある赤いリボンを首に巻かれていた。嘘のようにその景色がきれいで、わたしはなにも言えずにしばらくぼんやりと立っていた。
「どうする? 返してくださいって言いに行く?」友人は歯にものが挟まったような言い方で、わたしに声を掛けた。「私は言えなかったんだけど、あんたはあんたの猫だからさあ」言ってもいいとは思うけど、でも言わない方がいいんじゃないのかな。言外に続く台詞は、聞かなくても聞こえていた。それは、わたしの心の声そのものだった。
貧乏暮らしだった。伊勢湾台風の頃から建っている傾いた木造アパートで、ペット不可ではなかったがすでに取り壊しが決まっていた。一番安いドライフードしか食べさせてやれなかった。缶詰は週に一回しか買ってやれなくて、それもいつも同じメーカーの特売品だった。
今、見るからにお金持ちなおうちで悠々と伸びて寝ているるちゃを、わたしの部屋へ連れ帰ることは暴挙としか思えなかった。悲しいとか悔しいとかそんな気持ちより先に「良いおうちに拾われてよかったね」と思ってしまった。
結局、わたしはるちゃをあきらめた。それから、一度も猫は飼わない。るちゃは、最初で最後のわたしの猫。

その時のやりきれなさを、今濯ぎながら生きているのだと思う。自分のこころの平穏のために、飼い犬に尽くしている。それでもきっとそれは悪いことではなくて、るちゃと暮らして別れた経験がわたしと犬の暮らしをしあわせにしようとしてくれているのだと信じることが出来る。
いつか別れるその日まで、なるべく後悔せずに暮らすことが、一番大切なのだと思う。
もし、今うちの犬が何かの事故で行方知れずになってお金持ちのおうちに飼われていたら、今度こそ「わたしの犬です。返してください」と言えるように、日々を暮らしていたいと思う。

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