湯気

「おろしてる方がかわいいよ」
君はわたしの苦労も知らず、せっかく結わえた髪のゴムに手をかけ、するりとほどいてしまった。
「うん、これがいい」
満足げに微笑む君の顔を少しだけじっと見つめてから視線を外し、わたしは君に何も言わなかった。それからケージの中で走り回るハムスターに近付き、
「それなら、朝はもう十分くらい眠れたのにね」
なんて小さな声で愚痴を吐いた。

ぬるめのシャワーを頭から浴びた時、さっきまで残っていた、君に頭を撫でられた時の感覚まで一緒に流れてしまう気がして、急いで蛇口をひねった。毛先からは重力に引っ張られた雫が無情にも、つーっと流れ落ちていく。わたしはその雫が止まるまでの間、しばらくそれを眺めていた。

身体も冷えてきた頃、シャンプーがいくつもあることに気付いた。一つずつ持ち上げて、君が一番使ったであろう一番軽くなっていたシャンプーを数回押す。甘いあんずの香りが、するするとわたしの髪に移っていく。

ギリギリのところまで、少し熱めのお湯を足してから湯船に入る。そうする時に零れ落ちるお湯が生む、あたたかな湯気と君は、幾らか似ているところがあるように思う。空気のような、水のような柔らかなそれに包まれるわたしは、ため息に近い息を吐きながら目をつむった。

君はわたしの前にお風呂に入った。
「先行く?」
と聞かれたので遠慮すると、君はそそくさと立ち上がり、部屋を出て行った。わたしは、紅茶を飲み終わった後のティーカップの端にぽつんと残る、使われない角砂糖みたいな気持ちになりながら、ベッドから君を見送ったのを覚えている。純粋に君を信じるあの頃のわたしは、世間一般、なんていうものも知らずに。




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