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名刺代わりの太宰治10選

 先日、『名刺代わりの谷崎潤一郎10選』という記事を投稿しましたが、青空文庫の太宰治作品を読み終えたので、太宰版の10選を選んでみます。

 ただし、中高時代から好きだった谷崎とは違い、長年、太宰が苦手でした。今回、青空文庫で読んでみて、太宰の魅力に気付きましたが、一度しか読んでいないので、浅い読み方になっているかもしれません。また、谷崎の場合、青空文庫にある小説を全編読了済みですが、太宰は、有名作や何となく気になった小説しか読んでいません。
 なので、太宰ファンの方には「なんだ、このリストは💢」と叱られるかもしれませんが、半年太宰漬けだったので、その記録を残す意味で、選びました(以下、発刊順)。

『富嶽百景』

 この作品は、小学生の頃から好きでした。中学受験の必読書『走れメロス』が、だからなに? という読後感なのに対して、『富嶽百景』は、語り手の弾んだ気持ちが伝わってきます。作中の富士山を自分が見た富士山と比べたり、この作品を参考に、旅行のプランを練ったりするのも楽しい。語り手がいくら何でも女性にモテすぎですが、実際の太宰もそんな感じだったのでしょうか。

『駆け込み訴え』

 太宰は、登場人物に憑依するのがうまいですが、この小説でも、それが遺憾なく発揮されています。イエス・キリストを裏切るユダが語り手なのですが、イエスへの愛憎が巧みに書かれているので、「ユダは本当にこんな気持ちでイエスを裏切ったのかな」と納得しそうになります。
 ユダだけでなく、ユダの目を通して書かれるイエスの姿にも胸を打たれます。太宰はキリスト教徒ではないですが、救いを求めて、かなり本格的にキリスト教を研究したのではないかとも感じました。イエスの生涯がテーマである芥川龍之介の『西方の人』と読み比べたい作品でもあります。

『清貧譚』

中国の短編小説『聊斎志異』の翻案です。最初は、いつもの太宰っぽい作品ーーちょっと情けなく、だらしない人が登場する小説として読み始めたのですが、途中で幻想的な雰囲気になります。太宰は、こういうタイプの小説もうまいんですね。原作の『聊斎志異』も読んでみたくなります。太宰作品の中ではマイナーな部類かと思いますが、もっと読まれてほしいです。

『新ハムレット』

 シェイクスピアの戯曲、『ハムレット』の翻案です。優柔不断な悩める若者、ハムレットは太宰にとって、憑依しやすいキャラクターだったと思いますが、この小説では、ハムレットだけでなく、オフィーリアやポローニアス、ハムレットの母親といった脇役たちーーシェイクスピアの戯曲では、感情やどうしてそんな行動をとったのかが書かれていない脇役たちにもスポットライトがあたります。シェイクスピアの戯曲は、ハムレットという一人の青年の悲劇ですが、太宰治の『新ハムレット』はそれぞれに思惑を抱えた人々の群像劇として、読むことができました。
 亡くなる前に、太宰は志賀直哉を罵倒していますが、志賀はハムレットの敵役、叔父のクローディアスに感情移入して、『クローディアスの日記』を書いています。こちらも名作ですが、ハムレットに憑依する太宰と、クローディアスに同情する志賀直哉、二人の相性の悪さがわかる選択です。

『花吹雪』

 太宰は、日本近代の作家にしては珍しく、ユーモアの感覚が優れています。『畜犬談』『黄村先生言行録』など、読みながら笑ってしまう小説がいくつかありますが、中でも『花吹雪』が私のお気に入りです。森鷗外の随筆『懇親会』が登場するので。
 太宰は、森鷗外が好きだったので、お墓も鷗外と同じ寺にあります。鷗外の文体が好きだったようですが、父親や長兄とそりが合わなかった太宰が、厳しくも慈悲深い父なる者として鷗外に憧れていたのかもしれないと想像しています。実際に、鷗外は石川啄木や与謝野鉄幹といった、太宰以上に無頼な作家にも慕われていたので。
 森鷗外関連の小説としては『女の決闘』もあり、こちらも、太宰のユーモアのセンスが発揮された楽しい短編です。

『散華』

 太宰は、作家だからと偉ぶるところのない性格だったような気がします。そんな性格だから、今読んでも感動できる戦争文学が書けたのかもしれません。兵士たちを敬愛しながらも、戦争自体を賛美することはない。空襲に怯え、品不足に悩みながらも、何とかやりくりして、日常を続けようとする庶民の一人として、小説を書いているのがわかります。『散華』以外にも、『十二月八日』『佳日』など太宰には戦争小説の傑作が多いとわかったのも、太宰漬け生活の成果の一つです。

『津軽』

太宰の小説の中で最も好きな作品です。優しさと繊細さ、ユーモアのセンスなど、太宰の魅力が詰まった作品だと思います。遠いけど、津軽に行きたい!

『パンドラの匣』

 結核療養所で療養する青年が主人公の長編小説です。
先ほど書いたように、太宰は登場人物に憑依するのがうまいのですが、逆に「誰を書いても自分になってしまう」面もなきにしもあらず。例えば、『惜別』は作家の魯迅の話なのに、魯迅の話か太宰本人の話かわからない箇所もあります。そのため、魯迅をよく知る人からは不評で、それが尾を引いて、今もマイナーな作品なのかもしれないです。
 その点、『パンドラの匣』の主人公は、いつもの太宰の主人公とは少し雰囲気が違います。その微妙な違いが作品の展開にも変化をもたらし、太宰作品の中では珍しく、希望のある終わり方になっています。終戦後の混沌とした時代に、太宰がどんな夢を抱いていたのか、これからどんな作品を書こうと思っていたのか、それがわかる小説です。この後すぐに太宰が自殺してしまったので、この作品から感じ取れる未来は閉ざされてしまったのですが。

『斜陽』

 若い頃に、恋愛小説として憧れながら読んでいたのが信じられない、悲しい小説でした。主人公はいくら華族階級でも、ここまで世間離れした人がいるのか…と驚いてしまう女性です。空想で恋をして、薄汚く抱かれ、あっさり捨てられて…。それでも、前を向いて生きていこうとする姿に、恐ろしささえ感じました。思い詰めた女は怖いと思ってしまいます。それを、男性である太宰が書いたのも、何といっていいのか。
 以前は読み流していた主人公と母親の挿話がよかったです。主人公の弟の日記も。一人称の小説ではないので、弟の姿が『人間失格』よりも、荒んだ生活の末に滅びる男性の悲劇として感情移入できました。

『人間失格』

 若い頃は、この小説がどうにも苦手で、そこから太宰が苦手になりました。
 辛くても、どうにかして生きていくしかないのに、この主人公は…と主人公の生き方を批判的に見ていたのだと思います。何をやらかしても、最終的には誰かが助けてくれるお金持ちの坊ちゃんだよねと思ったのかもしれません。
 昔の私は、他人の弱さに不寛容な、冷たい人間だったようです。
 または、人との距離感が掴めずに、世間に怯え、道化になろうとする主人公の姿が自分に重なって見えたのかもしれませんが。私は、道化にはなれませんでしたが、代わりに、優等生になることで、自分を保っていたものです。
 今となっては古い話です。今の私には、昔の自分がなぜこの小説を嫌ったのかさえ、はっきりとはわからないです。今になって、自分と切り離して読めるようになり、太宰の魅力に気付けたような気もします。


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