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小説『ジェダイだってあの体たらく』 その15


【登場人物】
菊池慎一 語り手。
佐恵子伯母 菊池の父親の姉。
母親 夫の不倫後、スピリチュアルにはまり、次男が死んだ時に「あの子はもっと良い世界に行った」と発言。
姉 母親と一緒に暮らす
父親 息子が障碍児であることを受け入れられず、家出を繰り返す。


 そのままアパートを出て、気付いたら電車に乗っていた。終点まで行き、その日はネットカフェに泊まった。そこからどこに行くというアテもなかったが、駅で運賃表を眺めた時に、東神奈川という駅名が目に入った。

 ここから、乗り換えなし、地下にも入らずに東神奈川に行けるのか。東神奈川には、佐恵子伯母さんが住んでいる。マンションの名前を覚えているから、たどり着けるだろう。

 伯母と最後に会ったのは、大学に合格した時だ。二ヶ月後、バイト代をためて実家を離れた。

「久しぶり」

 伯母は、突然訪れた俺を家に入れてくれた。喜んではいないが、長期の不義理をとがめる顔でもなかった。

「母さんの具合が悪いって?」

「そうなの」

 伯母は声を低めた。

「痴呆症――若年性痴呆症だって」

 まったく予想していない答えだった。おふくろはまだ、六十代前半だ。美香の前に付き合っていた子が老健施設の看護師だったが、そんなに若い患者の話なんて、聞いた覚えがない。

「親の介護をした知り合いがよく言ってたけど、痴呆症は、その人の根っこにある性格を際立たせるんだって」

「そうみたいだな」

 これも元カノに聞いた。暴力傾向や猜疑心が増す患者がいるとこぼしていた。

「だからね、澄子さんはおとなしくて、素直な患者だと愛ちゃんが言ってるよ」

「おとなしくて、素直……」

「じっとソファーに座っていることが多いから、楽なんだって。といっても、何から何まで忘れてしまうから、目は離せないんだけど、あの子は、よく知らないけど、家のパソコンで、できる仕事じゃない? お母さんの世話をしながら仕事できるから、まあ、何とかやっているようだね」

「……」

「最初に澄子さんに会った時、慎太郎が選びそうな子だと思ったのよ。おとなしくて、慎太郎に頼りきっていて。母さんは、あんなおとなしい子じゃ心配だと言っていたけど、慎太郎は何でも自分で仕切りたがる男だから、しっかりした子なんて選ぶわけがない。よく思うんだけど、私が澄子さんの立場なら、仕事をかけ持ちしてでも、あんたたちに不自由はさせなかったよ。でも、私みたいな女を慎太郎が選ぶわけがないから、どうしようもないよねぇ」

「昔、姉貴に聞いたんだけど、親父の――相手でメンタルが不安定になった娘がいたって」

 心に引っかかっていたことを訊ねた。
 伯母は顔をしかめる。

「愛ちゃんには言わなかったけど、自殺未遂したの」

「自殺未遂……」

「睡眠薬を呑んだの。家族が早くに気付いたから助かったけど。あの娘……。うちの伯父さんは、文句を言ったらキリがないけど、女の問題はなかった。まったくなかったかは知らないけど、家に持ち込むことはなかった。それだけで、まあ、いい夫だって。そんな風に思えるのも、慎ちゃんのお父さんのことで嫌な思いをしたからだよねぇ。あのねぇ、慎太郎をかばうわけじゃないけど、家庭に問題を抱えた男が他の女に目移りするのは、まあ、よくある話……だからいいってわけじゃないけど、ほんとよくある話なのよ。でも、慎太郎を――別にいい男でもないし、お金もないし、言ってみれば、子ども三人、一人は障碍のある子なのに、それを見捨てるような薄情な男じゃない? 自分に都合の良いように言ってたんだとは思うけど、相手は取引先の社員だったから、家庭の事情もある程度耳に入っていたはずなのよ。それなのに、若い娘が――若い男の子とだっていくらでも付き合えそうな子が、慎太郎みたいなおじさんと付き合って、そのおじさんに本気になるなんて、ちょっと普通じゃない。でも、あの子の親に会って、理解できないことをしでかす子は、家族揃って、認知の歪みがあるんだってよくわかった」

「認知の歪み?」

 伯母の口からそんな言葉が出て驚いた。
 直江千佳に聞いた言葉。それ以来、自分の中の認知の歪みを意識している。

「恵に教わったんだよ、あの娘は恵とそんなに年も変わらないから、あの娘みたいになったら嫌だと思って話したら、そんな風に言ってたよ。家族揃って、認知の歪みがあるから、娘が慎太郎叔父さんみたいな人に夢中になるんだって」

「どういう認知の歪みなんだ?」

「あの子が薬を呑んだ後、慎太郎の上司から電話があって――もともと父さんの知人だから、私たちのことも知ってるわけ。向こうの親御さんが出てきたから、慎太郎だけじゃ話が収まらないと言われて、伯父さんと二人で頭を下げに行ったのよ、お互い社会人だから、私たちが出ていく話でもないと伯父さんは言っていたけど、分別盛りの男が若い娘を傷つけたわけだから、そこは、ほらねぇ? といっても、慎太郎は文なしだし、私たちだって、余分なお金なんてないから、賠償金なんて話になったら困るなぁと伯父さんも言ってたんだけど、向こうの親はこうなのよ、こうやって薬を呑んで死のうとするほど娘は弟さんを思っているんだから、こうなったら、何とか二人を一緒にさせてもらいたいと、こう言うんだよ」

「親父が既婚者なのは知ってるんだよな?」

 寺田さんは、奥さんが離婚してくれなかったから、彼と結婚できなかったと話していた(それを聞いた時には、彼女の勝手な理屈を受け入れてしまったわけだが)。
 それでもまあ、不倫している本人が言うのはまだわかるが、家族がそんなことを言うとは。
 幻想の中にいた、あの娘の面影に黒い霧がかかる。
 俺と慎二を優しい目で見てくれたあの娘。あれは……

「もちろん、知ってるよ。子どもさんさえよければ、娘が育てますとも言っていたからね。伯父さんは、もう怒っちゃって、謝るつもりで来たが、あなた方のような常識外れの人とは話もできないって、そのまま帰ることになったわけ。その後で、慎太郎が相手の親に失礼だとか伯父さんに文句をつけにきて――伯父さんは、あれ以来、慎太郎のことには二度とかかわらないと言うし、私だって、身内のことで肩身の狭い思いをするし……ああいう認知が歪んだ人たちがいると、何から何までうまくいかなくなるんだよねぇ」

「親父は、その相手と結婚するつもりで、おふくろに離婚を迫ってたんだろ、姉貴が言ってたけど」

「それは、その子が自殺未遂する前の話。慎太郎は身勝手な性格だから、自殺騒動があって、一気に心が離れたみたい。それがねぇ、慎二ちゃんが障碍児だとわかって、慎太郎が家に帰らなくなったでしょ。そのあたりのことは、私もよく知らないの、たまに電話しても澄子さんは何も言わないし、愛ちゃんも話してくれなかったから。家を出て、慎太郎が女のところにいるぐらいのことは気付いていたと思うんだけど、それとも澄子さんは、おっとりした人だから、仕事が忙しいとかそんな話を信じていたのかね。私が知ったのは、慎太郎が離婚したがっているって話を聞いた時で、それも、離婚した方が、慎二のためにいいなんて話になってるわけ」

 よくまあ、直江千佳や直江修、または阪本という男にさえ義憤めいたものを感じたものだ。俺が怒りをぶつけるべきなのは、親父だ。
 俺が家を出た三年後に、交通事故で死んだ親父。不倫相手との北海道旅行で、二人まとめて死にやがった。

 それなのに、親父に怒りをぶつける代わりに、俺はおふくろを恨み続けた。慎二のために離婚しろと迫られたおふくろを。「お母さんは被害者なんだよ」「悪いのはお父さん」「お父さんのせいで、お母さんの人生は崩壊したの。それを立て直せなかったからって、お母さんを責めるのは違うでしょ」姉貴はそう言い続けていたのに。

その14

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