小説『ジェダイだってあの体たらく』 その6
親父の不倫相手の娘をなつかしく思い出すといっても、それは彼女が幻想の中にいるからだ。実際に、親父とあの娘が再婚していれば、彼女を憎んでいたかもしれない。
寺田さんの不倫は、現実の話だ。以前の俺なら、不倫の話を聞いた時点で、寺田さんと別れただろう。
ただの不倫なら、事情によっては受け入れたかもしれないが、寺田さんは上司と社内不倫をしただけでなく、上司の子どもを身ごもったり、その子を中絶したり、いくら何でも忌まわしすぎる。
だが、なんて不潔な女だと思う気持ちが自分にはね返る。
今の俺は、女子高生の下着を盗撮した犯罪者だ。そんな奴に誰かを裁けるわけがない。
それに、彼女への同情もある。
俺は犯罪者なのに、バイトから正社員になり、部長に昇格した。つぶれかけのホテルでも、管理職には違いない。
寺田さんは、こき使われる薄給のバイトだ。有能だから、その気になればレストランではなやかに働けるのに、百二十円高い時給のために、セクハラオヤジに腐れ×××と怒鳴られながら、酒を運ぶ毎日だ。
不倫の末に中絶して、子どもを産めない身体になって。それでも真面目に働いて、気の毒な人だとあわれむ気持ちもある。
今の俺には、寺田さんのような薄汚い女がお似合いなのかもしれない。寺田さんを愛しているわけじゃない。でも、彼女を身近に感じる――自分と切り離すことができない気がした。どん底に落ちた、薄汚れた二人ってとこか。
「もしかして、妊娠したら、奥さんが離婚してくれると思ったとか?」
別の日、また昼食を食べている時に訊ねてみた。
「まさか」
寺田さんは、激しく頭を振って、絶対違うという素振りをした。
「彼を困らせるようなことをするわけないじゃない。本当はちゃんと……結婚してから……」
「そっか」
寺田さんが強く否定したので、ほっとした。さすがに、不倫で計画妊娠は悪魔の所業だと思う。
「彼と奥さんは仮面夫婦だったの。奥さんにとって彼はATMで――薄汚れたワイシャツを見て、かわいそうにとよく思った。こんなに必死で働いているのに、ちゃんと洗濯もしてもらえないなんてひどすぎるってね。愛が消えているのに、お金のために離婚しないなんて最悪だと思わない?」
金のためか。親父は家に金を入れなくなっていたので、おふくろが金のために離婚を拒んだとは誰も言えない。
「彼氏はけっこう稼いでいたのか?」
「多分ね。本社では、四十前に年収一千万を超えるのがモデルケースみたい。うちの社員は、一番出世する人で、役職定年前にやっと八百万台だから、子会社は哀しいなとみんな愚痴ってた。私は、事務職入社だから、十何年か働いて、残業代込みで四百万いくかどうかってところだったけど」
それでも全然悪くない。盗撮前の最高年収が四百二十万だ。今は、深夜手当を含めても四百万に届かない。寺田さんのようなバイトは、シフトをフルに入れても、俺の半分以下だ。
事務仕事で年収四百万なんて、同じ国の話とは思えない。
「社内不倫でクビになったとか?」
この転落は何なのだと思って聞いてみた。
「そうじゃないけど……退職金も欲しかったし……奥さんに慰謝料を払わなきゃならなかったから」
「慰謝料を払わされたのか」
「言ったでしょ、奥さんはお金のために離婚を拒否したって。お金が何よりも大事な人なの。退職金と……それでも足りなくて、母の老後資金まで借りてしまったから、ほんと申し訳なくて」
「そんなに払ったんだ」
「六百万だよ。あの女のせいで、赤ちゃんと全財産失くしたの」
◆
「慰謝料六百万?」
中村がチューハイにむせた。
中村は、大学時代のサークル仲間だ。
卒業以来切れていたが、この街で再会した。
盗撮で捕まった後、知り合いのいないこの街に引っ越した。だから、中村と再会した時は焦ったが、こいつならまあいいと思い直した。
中村は、世の中のすべてに敵意を持っている奴で、自分もその一員なのに「駅弁大なんか卒業しても、負け犬人生決定だ」と言うかと思うと、「MARCHなんて入学する意味もない」「早慶は東大を落ちた奴が行くとこだ」「東大って、発達障害の奴しかいないんだぞ」などと憎悪を撒き散らしていたものだ。
そんな奴だから、中村と会ったところで、他の仲間とつながる危険はない。
会って楽しいわけでもなく、むしろ、苦行だから、今の俺にふさわしい相手だと考えて、たまに飲むようになった。
「六百万って……その女、有名ユーチューバーとかじゃないよな?」
「有名人がうちでバイトするわけがないだろ」
「有名人は慰謝料も高くなるんだ」
とっておきの情報を教えてやるという口調で、中村が説明する。
「まあ、ユーチューバーだろうとモデルだろうと、六百万は高すぎるけどな」
中村が不倫の金銭問題に詳しいのは知っていた。ずいぶん前からパパ活にハマっていたようだが(もちろん、パパ活女はクズだと罵りながら)、コロナの最中に、パパ活男あるあるで、資格取得のために金がいると騙されて、五十万貢がされたのだ。
ただし、相手の女の子もつめが甘くて、シャワーを浴びている間に、住所が書いてある会員証を中村に盗み見されていた。だから、その子と連絡が取れなくなった時、中村は彼女の部屋を訪ねた。その時に、実は不倫の慰謝料を払うために金が必要だったと彼女が白状したらしい。詳しいことは聞いていないが、金はちゃんと取り戻せたみたいだ。ケチな中村が、金が戻ったお祝いだと言って、一杯奢ってくれたから。
「お前の金を盗んだ子は、慰謝料いくらだったんだ?」
「百八十万だ。相手がかなり年上だから、少し減らしてもらえたんだと。若い娘が口のうまいオッサンにうまく丸め込まれたって感じで」
「確か、その子はネイリスト見習いって言ってたよな。パパ活詐欺でもしなきゃ払えない額だな」
「期日までに払わなきゃ、裁判で訴えると言われて、焦ったみたいだ。俺が訪ねて行ったら、ごめんなさいって泣いて土下座してたよ。だから俺も色々調べて、慰謝料の半額は男に請求できると教えてやった。てか、俺が相手の男にかけ合って、半分取り戻してやったんだ」
「マジか?」
中村が、人のために何かをするなんて。
「取り戻さなきゃ、俺の金も返ってこないだろ。手間賃込みで八十万いただいて、十万は彼女に返してやったよ」
「ずいぶん優しいな」
皮肉でそう言った。三十万も手間賃を取りながら、恩恵をほどこした気でいるのが中村らしい。
自分が盗撮をやらかしたので、他人の欠点は大目に見たいが、中村に対してだけは、ついキツくなってしまう。
「金を取り戻したせいで、相手の男がブチ切れて、彼女の親にあることないことぶちまけやがったから、彼女にとっては、バッドエンドだったけどな」
「ブチ切れるって、もとは自分が不倫したのが悪いのに、とんでもない男だな」
「知らんけど、そいつの中では、彼女がパニクって自分の奥さんに不倫を認めたのが悪いってことになっていたぞ。そいつの方は否定し続けていたし、他に証拠もなかったんだと。だから、あのバカ女のせいで離婚になって、おまけに金まで払わされるのかってずっとぼやいていた」
「逆ギレ男は離婚したのか」
「ああ。子どもたちに会わせてもらえないと愚痴ってたよ」
それで百八十万か。若い娘が中年男に騙されたってことで減額されて、その額。寺田さんの相手は同い年だと言っていたから、減額はないにしても――。
「不倫の慰謝料って、離婚した時の方が高くなるよな?」
「当然だろ。不倫されても別れないんじゃ、そんなに傷ついてないってことじゃないか。お前の彼女の相手は、離婚しなかったのか」
「離婚できてたら、彼女と結婚したさ。両思いだったみたいし」
「それが嫌で、相手の奥さんは離婚しなかったのかもな。旦那が不倫相手と再婚するって、どれだけ惨めだよ」
確かに、それはあるかもしれない。高収入の夫を手放したくない気持ちと女の意地のミックス。
意地で人生を決めるなんて、ロクなものじゃない。
「けど、離婚していないんじゃ、慰謝料六百万はますます高すぎる。あれか、お前の彼女、頭が弱いとか? 脅されて、無理やり払わされたんじゃないのか」
「頭が弱いってことはないな。バイトの中ではかなり理解力がある方だ。気が弱いと感じたこともない」
「なのに、何を思って六百万なんて払ったんだろうな。なあ、慎一。詳しく話を聞いた方がいいぞ。お前の彼女は騙されたんだ。最悪でも、半分は戻ってくる。――相手の男に請求すればな。何なら、俺が口を利いてやってもいい。不倫男と交渉してやるよ」
* 中村の行った、慰謝料を取り戻し、手間賃をもらう行為は法律違反です(非弁行為)。一回だけなら多分大丈夫ですが、寺田さんの件にもかかわると、盗撮初犯の菊池よりも重い罪に問われます。当事者たちが法律に詳しくないので、事なきを得ていますが。
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