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【読書感想文】 村上春樹『1973年のピンボール』 モラトリアム、学生運動、直子

 この作品は、大学を中退してモラトリアムを過ごす青年(鼠)と、社会人としてお金を稼いではいるものの、現実を生きることができていない青年(ぼく)の話……なのかな。

 『風の歌を聴け』は、時代背景がわりとぼんやりしていたので、自分に引きつけて感情移入しやすかったけど。

 でも、この小説では、冒頭に学生運動の話が出てきます。機動隊が九号館に突入した、とか。
 私には、これが本当の話なのかどうかもわかりません。
 東大の安田講堂に機動隊? が突入したのは知っているけど。前に三四郎池を見に行った時に、講堂が近くにあったから、ああ、これが安田講堂なのかと思いました。
 村上龍さんの小説『69』は1969年が舞台なのですが、佐世保在住の高校生がバリケードを築く話が出てきます。その話を夫にしたら、夫が卒業した高校でも、図書室に生徒が籠ったらしいと言っていました。

 高校生がバリケードを築き、図書室を占拠するとは。政治の季節だったんだなと改めて思います。
 とはいえ、その頃に東京の大学にいた人を何人か知っているけど、学生運動をやっていた感じは全くしません。多分、大部分の学生は、普通に生活していたんですよね。

 学生運動に参加していた人たちなら、その時代が終わって、喪失感に見舞われたり、現実感覚を失くしてしまったりするのもわかるけど。
 主人公や鼠はどうなんだろう。彼らが人生に乗り出せないでいることに、学生運動(とその挫折)はかかわっているのだろうか。
 冒頭の書き方からすると、何となく、主人公は学生運動とも距離を保っていた気がします。
 機動隊の突入も、彼を通り過ぎていったエピソードの一つに過ぎないのか。

 または、積極的にかかわらなくても、学生運動とは、はたで見ていただけの主人公の心にも傷を残すほどの出来事だったのか(浅間山荘事件とかも含めると、そりゃ、世代全体のトラウマになるよなぁとも思うけど、どうなんだろう)。

    *

 そんな風に時代背景を考察するのは、村上さんの作品にはあまり意味のないことなのかもしれません(村上さんという作家を論じる際には、外せない視点だと思いますが)。
 それよりは、主人公が喪った「直子」という存在に焦点をあてて読む方がわかりやすいのかな。
 主人公が、直子の不在を受け入れるまでの過程を描いた小説ということなのか。
 この小説に登場する直子は、『ノルウェイの森』の直子とはイメージが違うんだけど、今、ちょっとネットで調べたら、同一人物とされているみたいですね。
 『ノルウェイの森』を読んだのは昔、昔なのでウロ覚えだけど、もっと現実感のない女性だったような。
 もしかして、時が経ち、彼女の現実感が薄れていったのかな。肉体性が削がれ、アラフォーになった主人公の中には彼女の美しいエッセンスだけが残った(どんな説でも、それらしく説明がつくものだ)。

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 鼠のパートの方は…Amazonによると、この後に書かれる『羊をめぐる冒険』が続編になるとのことなので(買った時に、鼠三部作の何作目と書いてあった)、後から明らかになる話もあるのかもしれないけど、とりあえず『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』を読んだ時点では、学生運動のような時代背景抜きでも理解しやすかったです。

 私の時代でも、大学を中退or留年してモラトリアムになる学生は結構いたので。文学部に限れば、私のように四年で卒業して就職する学生の方が少なかった気さえします。
 教師の口がほぼない時期だったから、教員志望の子はそうなるしかなかったのだけど、就職先がないとか、大学院を受けてみたけど落ちたとか、または作家や俳優としてやっていきたいとかいった話もよく聞きました。
 風呂のない部屋に住んでいたE君が、作家を目指すと語っているのを聞いて、彼の勇気を本気でリスペクトしたものです。シャワーしかない部屋に住んでいた私は、どこでもいいから就職して、お風呂のある部屋に住みたかった(結局、ユニットバスの部屋にしか住めなかったけど)。だけど、私のように貧困を恐れる学生は少数派で、それよりは、望まぬものに縛られる生き方を恐れる子の方が多かった。

 まして、鼠のように親が裕福な子は、普通にしていれば、モラトリアムを選ぶんじゃないかな。文学部では、現実の世界を生きる知恵は教えてくれない(鼠の出身学部は確か書いていなかったけど、中退歴があるので、勝手に文学部or文学部的気分の持ち主と読みました)。学問にまじめに取り組めば、惑うことばかりが増える(まじめに取り組まなくても、惑うことは多い。私もそうだけど、はぐれがちな性格だから、あえて文学部を選ぶのだと思う。→出版社や研究者志望の学生や、今のように比較的教員になりやすい時期の学生は除く)。

 一時、親友とも呼べる間柄だったSちゃんも留年を選んだ一人でした。さだまさしと宮沢賢治が好きだったSちゃん。教師志望だったけど、採用試験は受けなかったと思う。東京都では島嶼部勤務前提でしか採用がないと聞いて、家の事情で実家を離れられなかった彼女は受験を断念したはず。親が裕福なので、留年すると聞いた時も、E君のような悲壮感は感じられなかった。
 就職して、ユニットバスのある部屋で暮らしている時に、一度だけSちゃんが遊びに来た。自己啓発セミナーに行きたいけど、母親が嫌がるから、海人ちゃんの部屋から出かけるよと言って。知り合いの男の子が自己啓発セミナーに参加して、話し方や目つきまで変わってしまったので、良い印象はなかったけど、若い頃の私は人にお節介することを病的に恐れていたために(過干渉だった母の影響)、何も言わずにSちゃんを送り出しました。その後、彼女のことが気になりながらも、ブラック職場の忙しさにかまけて、何もしなかった。
 
 後年、出張でホテルに長期滞在していた時、暇に任せて連絡先を知らない旧友たちの消息をたどってみました。Sちゃんらしき人の話も見つけたのだけど、良い話ではなさそうだったので、見るのをやめて、旧友検索を中止した。
 以前、村上さんの「イエスタデイ」(『女のいない男たち』収録)の感想にも書いたけど、知らなければ、彼女が今も幸せに暮らしていると信じることができる。

 とにかく、村上さんの小説を読むと、眠っていた記憶が次々とよみがえってくる。まるで、私の中にある井戸を掘るかのように。

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