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【雑談】私は何を書きたいのだろう

 今週のシロクマ文芸部のお題は「紫陽花を」。昨日、ちょうど紫陽花でも撮るかとiPhoneを掲げた時に、「サッカー協会へはどう行けば?」と訊かれたので、そのことを書いてもいいのだけど(道訊ねる時に、人を選ぼうよ)、頭の中で「私は何を書きたいのだろう?」という疑問がまわり続けています。
 創作に限定しての話です(各種感想文の方は、自分の好きな作品を紹介したいという明確な答えがあるので)。

 単純に、頭の中に棲んでいる人たちの話を書きたい、というのもあります。シロクマ文芸部で書いているのは、それ。登場人物は概ねどんなキャラクターなのか自分ではわかっているので、お題に応じて彼らを動かします。すると、彼らの新しい部分が見えてきたり、新たな登場人物が生まれたりするんですね。やはり、自分の頭の中で考えるだけでは広がりに欠けると実感します。本当は、街に出て色んな人と話したり、色んな経験を積んだりすればなおいいのだろうけど、怠惰な私にはできそうもないので、noteの裏路地で見聞を広めたいです。

 ただ、noteでの創作は、文字数もさほど多くなく、即興性を重視していることもあり、自分の内側にあるうごめきを捉えたものではありません。

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 心の奥にある蠢き。それは何なのだろう。
 私は何を書きたいのだろう。
 書くことによって、心の中にある何を表現したいのだろう。

 そんなことを考えたのは、冬の文学フリマ東京で販売できればいいなと考えているアンソロジーのテーマ案を各自出してみることになったからです。
 
 ウィキを参照すると、「アンソロジーとは、異なる作者による作品を集めたもの」。先日の文学フリマ東京では、小説|アンソロジーのカテゴリーには38店が出店していましたし、それ以外のカテゴリーでも、アンソロジーを売る出店者が散見されました。
 少し前の言葉でいうと、同人誌ということになるでしょうか。例えば、時代劇作家の藤沢周平さん。藤沢さんの小説には、米沢藩をモデルにした「海坂うなさか藩」が登場するのですが、海坂は藤沢さんが参加していた同人誌の名前だそうです。

 文フリのウェブカタログでアンソロジーをチェックした時に読んでみたいと感じたのは、テーマがあるアンソロジーばかりでした。同人のチーム名だけだと、どんな作品なのか見当がつかないので。それに、実際読んでみても、テーマがあると、比べ読みしたり、例えば「恐怖」というテーマだと、恐怖にもこんなに色々な種類があるのだなと改めて気付けたりして、個々の作品を読む楽しみとアンソロジー全体から受ける楽しみを二度味わえた気がします。
 ただ、中には、テーマに沿わない作品が過半数を占めるものもありました。その場合は、統一感が感じられず、個々の作品は面白かったのに、アンバランスな印象が残ってしまったので、奇を衒いすぎるのも考えものですね。「恐怖」のような間口の広い言葉がいいのかもしれません。

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 というわけで、アンソロジーのテーマ案を考え始めたところ、「私は何を書きたいのだろう」という疑問が湧き起こってきたわけですが……。

 小説を通じて表現したいことの一つは、「人のつながり」です。つながりを求める人たち。といっても、明るいイメージではなく、「つながりを求めても得られない」「つながりを自分から断ち切ってしまう」という話になってしまいそうですが。
 なので、つながりといっても「絆」のようなポジティブなテーマにはならず、「孤独」「寂寥」「諦念」あとはせいぜい「一筋の光」といった言葉が思い浮かびます。
 これは、ざっくり言えば母親との関係が複雑だったので、それを吐き出すために創作をする、というところでしょうか(だからといって、母娘の話を書きたいわけではないです)。

 また、つながりを求める心を書きたいという気持ちは、今回あれこれと考えているうちに言語化されたのですが、「なるほど、だから、私は渡邊有さんの小説が好きなのか」とわかったことも興味深かったです。渡邊さんご自身は、「いや、そんなつもりないです」と思われるかもしれませんが、私には、孤独を背負った人たちの哀しみを描いた小説に思えます。その哀しみを美しく昇華させた作品です。


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 もう一つ、これは一昨年の11月に創作を始めてから、既に何度か書いたテーマでもあるのですが、「救済」や「救い」にも深い関心があります。これについては、吉穂みらいさんも少し前に書いていらっしゃいました。

 『アディクト』は、ダンスに取り憑かれた青年の話なのですが、AIのモニカさんへの質問をみると、吉穂さんは「青年の(魂)の救い」について思いをめぐらせていらっしゃるようです。
 吉穂さんがそうしたことを小説に書こうとなさっているのが少し意外でもあり、感動もしました。というのは、精神的な意味での救済という概念は日本にはあまりないように思えるからです。
 究極の救済は、神によるものだと世界的には考えられることが多いです。仏教でもそうなのですが、八百万神やおよろずのかみを持つ日本では、神と縁遠い生活を送る人が多数派ですよね。
 なので、救済という概念を考えないか、逆に神にすがることもできずに彷徨するか。彷徨する時も、自分が求めているのが救いだと気付けずにいるかもしれません。

 ただし、海外の小説や映画ではよくあるテーマなので、海外作品が好きな私にとっては、馴染み深いテーマでした。一昨年の11月に小説を書き始めた時は、テーマなど考える余裕もなかったのですが、結果的に救いを求める男の話になり、それと同工異曲の小説を去年の創作大賞でも書くことになりました。「人とのつながり」とは違い、「救済」「救い」「贖い」「贖罪」といったテーマが自分にとって切実だったとは思えないのですが、なぜそういう話を書きたくなるのか……それについては、今後も考えたいです。

 という具合に、アンソロジーのテーマを考え始めたら、そこから離れて、自分にとって書くことの意味まで思いを馳せることになりました。
 テーマについてはこれから詰めていくので、これだけシリアスなことを書きながら、「アンソロジーのテーマはサバランになりました」などという結果になるかもしれません(吉穂さんの別名義の記事を読んでから、サバランにも取り憑かれています)。


 それにしても、この記事を書き始めた時には、アンソロジー仲間お二人の小説を紹介するつもりはなかったのですが、なぜかそういう流れになりました。別にお二人の小説に寄せてテーマを考えた始めたわけではないのに、そこに結びつくのが不思議な縁なのかもしれません。

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