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もう一つの『舞姫』 森鷗外『普請中』 【読書感想文】

 山田風太郎さんといえば、漫画化・映画化もされた忍法帖シリーズを始めとする伝奇小説が有名ですが、ミステリ小説や歴史小説の分野にも名作が多いです。
 私が愛読しているのは、明治時代を舞台にした作品です。様々な角度から語れる作品群ですが、文学との関係でいうと、文豪達が思わぬ姿で作品に登場したり、ストーリーの中に文学史上の有名作へのオマージュがあったりします。作家達の幼い頃や若い日の姿、知られざる姿が巧みに描かれており、読むたびに作者の文学愛に圧倒されてしまいます。

 森鷗外が登場する作品もいくつかあり、中でも連作短編集『明治波濤歌』収録の「築地西洋軒」は、鷗外の小説の二次創作と呼べそうな作品に仕上がっています。

  山田風太郎の「築地西洋軒」は、『舞姫』のヒロイン、エリスのモデルになったエリス・ワイゲルトが鷗外を追って来日した時の話がもとになっています。
 『舞姫』のエリスは主人公・豊太郎に裏切られて精神に異常をきたしますが、現実のエリスは、ドイツで鷗外と交わした結婚の約束を信じて、航路日本にやって来るのです。しかし、陸軍で職を得たばかりの鷗外は、外国の娘と結婚するわけにはいかない(軍の意向だけでなく、母親も大反対したに決まっていますし、マザコン・鷗外が母親に逆らえるわけがありません)。
 『舞姫』の豊太郎は肝心な時に失神し、エリスやエリスの母親との交渉を親友に任せてしまいます。豊太郎のゲスぶりを決定付けるエピソードですが、鷗外自身も、来日したエリスとの交渉を実弟・篤次郎と義弟(妹の夫)の小金井良精に任せるんですね。会って情に流されるのを恐れたのかもしれませんが、冷淡な仕打ちなのは間違いないでしょう。この時エリスに冷たくした後悔が、後年の鷗外の特徴である女性の個性を尊重する姿勢を生んだのだと考えたいところですが…。

 義弟の小金井良精はエリスと話し合ったことを日記に残しており、それを孫である作家の星新一が『祖父・小金井良精の記』という本の中で紹介しています。
 「築地西洋軒」は、星新一の本などを参照しつつ、鷗外の弟達が何とか事を穏便に済ませて、エリスにドイツに戻ってもらおうと奮闘する様を描く作品なのです。


 最初に「築地西洋軒」を読んだ時は、鷗外が苦手だった時期なので、『舞姫』のエリスが主人公ということしかわからず、「風太郎さんもエリスを気の毒に感じたから、この小説を書いて、エリスを活躍させたのかな」と考えていました。風太郎版のエリスは、可憐さは鷗外版と同じですが、鷗外版よりたくましく、良精達と一緒に巻き込まれた殺人事件まで解き明かす才女として描かれているからです。

 ところが、鷗外の全作品を読んだ上で読み直したところ、「築地西洋軒」に引用されている鷗外作品が『舞姫』だけではないことに気付きました。
 エリス達が巻き込まれる殺人事件には『興津弥五右衛門の遺書』へのオマージュがありますし、作品の結末部は、今回取り上げる『普請中』を引用する形になっていました。

 1910年に発表された森鷗外の『普請中』は、実録『舞姫』と呼べそうな作品です。エリス来日時にあったかもしれない話が語られているからです。
 あらすじはーー普請中(改装中)のホテルで会食する、ドイツ人女性と日本の官僚。官僚がドイツに留学していた時、二人は恋人同士でした。女性は各国のホテルを回る演奏旅行の間を縫って、昔の恋人を訪ねたのです。それなのに、男性の態度はそっけなく、二人の間には冷ややかな空気が流れます。そして、日本のホテルでは歌わずにアメリカに行くつもりだという女の言葉に、男は、日本はまだそんなに進んでいない、普請中だから、彼女の歌を聞く余裕などないだろうと答えるのでした。
 二人が会っているホテルが普請中であることと、日本という国が普請中であることがかけてあるわけです。


 
 山田風太郎の「築地西洋軒」でも、鷗外との結婚を断念してドイツに帰る道を選んだエリスは、鷗外と一度だけ、ホテルで会うことになります。

陸軍軍医正(=森鷗外)は、精養軒の食堂のテーブルで、エリス・ワイゲルトと相対していた。
 二人の間に落ちたしばしの沈黙を、ふと木か何かを打つ音が破った。
「日本は普請中だ」
と、男はぽつりとつぶやいた。
「何もかも。ーー精神までも」
それは、裏切った男の、許しを請う言葉であった。

山田風太郎「築地西洋軒」(ちくま文庫『明治波濤歌』下237ページ)

 エリスと鷗外の別れのシーンを風太郎さんはこんな風に描写しています。「精神までも」という言葉を付け加えることで、『普請中』の作者である鷗外の心の奥底を暴いているような気がします。普請中ーー発展途上の国で官僚として働く自分には、異国の女性と恋愛している余裕などないのだと、鷗外は言いたかったのかもしれません。そして、自分もまた、人として普請中の身であるのだと。
 『舞姫』『普請中』、そして山田風太郎の「築地西洋軒」、三つの短編をあわせて読んでみると、森鷗外と明治の社会への理解が深まりそうです。


*『明治波濤歌』には、北村透谷や樋口一葉が主人公の短編もあり、明治期の作家に興味がある方におすすめの作品です。


 

 
 

 
 

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