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黒い塊が昇華するとき

わたしはわりと昔から、感情の起伏が激しいほうだった。
納得いかないことがあると納得できるまで食ってかかる、ちょっと面倒な小学生だった。
大人になるにつれてすこしずつ、そんなわたしも多少空気を読むということを覚えた。
しかし、依然として解消されないまま蓄積される『なぜ』という強烈な問いと、同調圧力は次第にわたしの中にひっそりと黒い塊を生むようになる。
その存在に気付きながらも、向き合ってしまうことできっと檻の中の気持ちが暴走してしまう日がくるのではという恐怖から常に目を背けてきた。

この思考の癖の原因をはっきりさせるために、今年になって自分の歴史を棚卸しする機会を意図的に設けた。自分の過去を見つめ直すと、今ある自分の価値観の全てがその中にたしかに存在していた。

6年生からずっと留学するつもりだったが、経済的な事情で難しくなり高校3年生の夏に急遽国内の大学に進学することになった。まったく行きたくもない大学に就職のためにお金を払って進学するという矛盾を抱えたまま半年間抜け殻のような状態で過ごした。

高校時代は家族がばらばらになり、毎日なるべく家にいない時間をいかに多くするかばかり考えていた。

途中選挙運動に関わる機会もあり、子供ながらに既得権益に対して反旗をひるがえすということはなんと無意味で無力なものかと傍目に痛感した。

鬱積した思いはやがて『社会』という曖昧で見えない対象に向けられる。
どうして
なぜ
ある一定のところまで、この気持ちは自身の成長に大きく寄与するエネルギーの源泉となった。
しかし、ある一定のところをぬけてしまうと、それはいつでも生産性のない感情になってブーメランのように戻ってくる。
『結局わたしの力では、何も変えることができないのか』

ひととおり自分と向き合うことができたあと、わたしはこの思考を捨てるためにいくつかのことを決めた。

・いらない人間関係はすべて捨てる
・自分がかわることにフォーカスし、他人をかえようとすることをやめる
・会う人を変えて新しい世界に自分から飛び込んでみる。
・いらないニュースは見ない


これまでの自分史も
一見環境のせいに見えて
実は自分で選び取ることもおそらくできた
それをしなかったのも自分
なぜしなかったのか
それは、こうあるべきという世間のものさしを 自分の心の声よりも優先したから

ひとりの人間によって変えられることには限界がある。
そして、必ずしも正しいものが勝つとは限らない。
だからわたしは、捨てることを選んだ。

ある意味においては無責任かもしれない
皆で議論する『べき』とされているテーマ

これからは
自分の手の届く世界を守り
好きな人と好きなことをしながら
精一杯 自分の理想のために生きよう

そこにはもう
黒い影はなく
あるのは吸い込まれるように青い空


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