妄想色男図鑑 7

シンガーソングライターOの場合

まだ大丈夫、と体重計を降りて男はため息をついた。ゼロへ戻ろうとするデジタルの数字の羅列は、3秒前は75.2だった。180cmをゆうに超える、しかも50歳を迎えた男性の体重としてはなかなかじゃないか。
男には薬物の前科がある。しかも一度や二度ではなかった。文字通り脳が溶けるような快楽がしみついた身体から薬の痕跡を消すのは並大抵の努力では難しく、釈放後のリハビリ期間では薬の代わりにやけに糖分を欲しがった体はぶくぶくと醜く膨れていった。
かつての俺は。肥大させていたのは贅肉ではなく、完璧主義と自尊心だったじゃないか。以前はアイドル顔負けともてはやされた面影は無い。ただの小太りのくたびれた年相応の男を鏡の中に認めて、男は頰を歪めた。
だからこそ今では薬ではなく、体重計が精神を安定させる道具だった。目盛りが80を超えると、イライラする。85を超えたら、不安になる。太ったことそのものではなく、この苛立ちをまたあの薬で解消しようとしてしまいそうになる自分がいそうで。
ふと、足元にまつわりつく柔らかであたたかな感触に目を細めた。お散歩行きたいって。キッチンの方からよく通る声で女が呼んだ。
体を擦り寄せてくるトイプードルを男は抱き上げ、スニーカーをつっかける。なんか買ってくるものある?振り返り様に聞くと、栗色のショートカットがひょっこり視界の右側に飛び出した。太陽の光が透けるその髪の毛さながらの軽やかさで、じゃあピノ買ってきて、と彼女は告げた。
小さな犬に首輪をつけて、そっと地面に下ろす。春とはいえまだ4月の頭は肌寒い。眩しさをはらみながら油断ならない冷気を放つ空気は、かつてそばにいたものの実刑確定後に離れて行った音楽関係者を思い出させた。不愉快さと懐かしさを感じながら、信用してないぞ、と、男はつぶやく。
外出ついでに何か買ってきてほしいものを聞くようになったのは、この平凡な暮らしを守るために覚えた、ささやかな術だった。暮らしを守るというより、しがみつくために?女が名付けた犬を散歩させ、帰宅したら2人で食卓を囲み、音楽を作り、たまにセックスをして、ともに眠る。次の日もその繰り返しだ。変わるのは天気だけで、おおむね同じような会話と、同じような空気が漂う。まるで夫婦じゃないか、しかも幸福そのものの。男は眉をしかめた。果たして、結婚とは本当にこんなものか?こんなものなのか?道の先では、ちょうど愛犬が薬指のような糞をしたところだった。

性欲は強い方ではないのだと思う。時に暴力的な肉欲にさらわれることもあったが、気恥ずかしさの方が先だった。童貞などとうの昔に捨てたというのに、目の前の女性は本当に快楽を感じているのか不安に思うのだ。嬌声と振動と肉のぶつかる音はいつも滑稽で、腰を動かしながら笑ってしまいそうになるのに、決められた演技がどれほど巧妙にできるのか、どこかの誰かにじっと試されている気がしていた。
毎日毎日乗りながら、計るのは愛情。似たようなものだ、女も体重計も。乗るたびに一喜一憂する。だけど降りると。
ため息をついて、男は汗をぬぐった。誰かに見られている気がする。隣人でもなく、週刊誌でもなく、神様でもなく。
まぎれもなく愛情だとは思う、だけどこれは、運命じゃない。薬指の約束なんて、今の俺には重たすぎる。男は身震いするように射精した。

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