妄想色男図鑑 6

芸人Mの場合

窓を叩く雨粒の音に顔をあげた。六畳の和室から見上げた空は、不機嫌な色に染まっている。きょうは大先輩と対談する仕事が神楽坂の方で入っていて、縁起の悪い天気だな、と思った直後、ただこれはこれで自分らしいな。と思い直した。
そもそも、自分らしいってなんだ?この本を選ぶなんて、あなたらしいね。そんなことを言うなんて、君らしくない。芸能人と呼ばれる立場になって、本当に自分のことを知っている人がどんどん少なくなっているように思うのに、そう言われることが増えていく。
履き潰したスタンスミスをつっかけ、玄関に立てかけたままのビニール傘を持って外に出る。天気は悪いが、電車で向かおうと決めた。売れっ子になって高級車で送り迎えをされるなんて、自分らしくないと言われることがなんとなく癪に触るからだ。キャップを目深にかぶり直し、雑踏に溶け込む自分をイメージする。
昼下がりの地下鉄を降り、坂道を登った先の仕事場に着く。あわただしくひとがうごめき、今日の主役を待ちわびるにふさわしい台座がつくられていた。白いホリゾント。どこか有名な外国のデザイナーが作ったイス。相手の存在感を引き立たせるスポットライト。自然な雰囲気で話してください、と言われながら、不自然なほど限られた人のための空間ができていく。癖の強い自分の髪を馴染みのヘアメイクアーティストに梳かれながら、異空間が出来上がる様をぼんやりと眺めていた。食べかけの弁当。所狭しと並んだメイク道具。移動用のカバンに突っ込んだままの文庫本。半径50cmは、こんなにも平凡だというのに。
ふと対談用のソファを見やると、小柄な女性が現れたのに気づいた。色が白く、人形のように柔和で現実感がない顔つき。その存在感は異彩を放っていた。
「…あれ、誰ですか?」
「どの人?あ、ああ編集者さんじゃない?きょうの対談、確か先輩の出版記念の告知でしょ?」
美しい人なら、毎日見ている。編集者にも、山ほど会った。ただし彼女のような人には、まだ会ったことがないような気がした。
大先輩との対談前に、果たして彼女は担当編集者だと挨拶をした。コイツ、こんな顔なのに厳しいんだよなかなか。大御所と呼ばれる大先輩が、毒を含んだ声色でそう言ったが、反面うれしそうな顔をしていたのを見て、この女性は相当の手練れと気づく。手ひどい紹介をさらっと受け流し、よろしくお願いします、と頭を下げた彼女の声は思ったより幼く、笑みをたたえた瞳の奥には挑むような色が見える。まっすぐな黒髪が、強いライトの残滓できらりと光ったその時、なぜか肌の奥深くを雫が伝ったような気がした。

対談はスムーズに終わり、彼女は最後ににっこりと男に微笑んで立ち上がった。「第3作は是非わたしに担当させてください」。リップサービスとも本気ともどちらにも取れるようなことばを投げかけて背を向ける。本気であってほしい、と一瞬残念に思ったことを自覚し、やはり手練れだと確信する。小さくなっていくほっそりしたうなじと、ミニスカートから伸びた少女のような足。「…んあ、ああ、よろしくお願いします。」だいぶ経ってから間抜けな声が出て、遠くで彼女が笑った声が聞こえたような気がした。
ぼんやりとしたままの頭で、無造作にカバンに突っ込んだ文庫本を手に取ると、最後の奥付に彼女の名前が飛び込んできた。運命なんて言葉が浮かぶ。俺らしくもない、と思いかけて、やっぱり俺らしい、とも思う。あの人になら、「あなたらしくない」と言われても大人しくうなずいてしまう気がする。「あなたらしい」と言われたら舞い上がってしまいそうな気がする。
行きがけにさしてきたビニール傘が、メイク室の片隅で小さな水たまりをつくる頃、開いた小説は恋物語だと知った。

#小説 #コラム #芸能 #習作 #創作 #妄想 #フィクション #掌編

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?