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ヘビースモーカー(2012年初出)

    ヘビースモーカー


 二十歳を過ぎると、前にも増してよく煙草を吸った。所謂、ヘビースモーカーであった。

 愛飲していたのは、アメリカンスピリットの「ぺリック」と、呼ばれる黒い箱の煙草である。

 ネイティブアメリカンの製造法でつくられた煙草葉であり、市場によく出回っているJT煙草よりも、巻かれている葉の量が多く、ニコチンの量も多かった。その煙草を一日に一、二箱吸っていた。これが一般的に多いのか少ないのかは、よくわからない。わからないが、人からは「ニコチン中毒」と言われ、煙草嫌いの男にはよく嫌な顔をされた。


 M先生も所謂、ヘビースモーカーであった。病気をやってからは、ずいぶん減らしたようだが、それでも奥さまの目を盗んでは、研究室でピース缶を吸ったりしているのだから、ジ―サン先生はなかなか図太い。図太いついでに、わたしもよく研究室で吸っていた。


 人間とは不思議なもので、所属している組織の、必ずどこか一か所に落ちつける場所を、作りたがる。学校であるなら、図書館か保健室。会社であるなら休憩室か給湯室、まれにトイレなどと言う場合もあるのだから、狭いところを目指して、匂いつけをするその行動は、動物的である。


 研究室の日当たりの良さと、七階と言う立地から、人の出入りも少なく、しかも本に囲まれている、と言うのがなんとも居心地が良かった。そのため、何かと理由をつけては吸いに通っていた。そうして、くだらない会話をくりかえしては先生に迷惑をかけ、迷惑ついでに煙草を吹かし、吹かしついでにまた話しをした。先生からは「不良、不良」とよく言われたが、心身ともに不良品であるのはお互いさまである。


 「煙草をやめないと、君はいつか死ぬぞ」
 死にかけているジ―サンに言われても説得力がないない、とよく冷やかしていたが、ノートづくりと、その不良行為がたたったのか、いまでもまったく原因は定かではないが、たしかにわたしは病気になった。死にかけた。ギリギリの状態で生きている。だからと言って、反省はしていない。後悔もしていない。しかし、前より死ぬのも生きるのもこわくなった。怖くなったが、いまでも時折、煙草に火をつける。


 思えば、ちかごろ「分煙」だとか「禁煙」だとか、やたらうるさいものである。煙草の税金を上げたのも、嫌煙主義のくそおばばだったように記憶していたが、まったく度が過ぎるとファシズムに向かいますよ。それほど、人は死ぬのが怖いものなのだろうか。つまり癌が怖いから、喫煙を禁止するようだが、大きなお世話である。結局、嫌煙するのは自己の健康を守るためであって、他者のためではない。他者の行動を制限するのは、自分の幸福のためであって、他者の幸福のためではない。個々で、健康を勝手に維持するのは結構だが、自己の健康が脅かされる(と、勝手に思っている)から、ただでさえきゅうきゅうなわたしたちから、さらに嗜好品まで奪って、喜んでいるのは、人ではない。悪魔である。


 病気をしてみても、やはり「健康」は好きになれない。「健康」を維持するための秩序が、むしろ健康な精神を蝕む。身体が健康な人間は、心も健康だというのは、まったくの嘘だ。病気を知らない人間に、他者の孤独などわかる訳がない。そのようなインチキファシストに負けず、今日も煙草に火をつけましょう。


(2012年初出)

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