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2月19日 袋をもらう

雪が降ったり止んだり、現場が動くの動かないのの話をしている中、團さんは今日も暗い気持ちを抑えて、目尻を笑わせていた。
華があるとか、万人が認める秀麗な顔立ちではないが、表情皺に人柄の良さが滲み出た、優しい顔立ちをしている團さん。根っこの部分は、田舎の質実剛健な人そのもの。それが第一印象、年始に会社の集まりで團さんに会った時のことだ。
しかし、このごろの團さんの疲労の色は深い。現場仕事でかいた汗を拭ったくらいでは落としきれないほど濃く、皮膚の色となって顔に染み込んでいる。

團さんの率いる班は、ひと月前に、工事現場で大事故を起こしてしまった。その後片付けで、私は急遽、福岡を離れて広島に来ている。

團さんはいつも、偉い人の電話を断れない。窓の外、真っ暗な空の下で、背中を丸めて「そうですね、そうですね」とか「すみません、わかりました」を繰り返していた。気づけば一時間もそんなことをしているのだから、團さんを通して会社の偉い人たちにぶつけられるはずだった怒りは、現場事務所に溜まって、発酵し始めている。
やりきれない、悔しいと思った時にはもう頬に涙の温度を感じていた。
「おい、どうしたん、お前が責任を感じる必要はないじゃろうが」
「すみません、そうですね」
「疲れてるんじゃろ、帰らせてやらにゃ」
「すみません、本当に、すみません」
この時ばかりは、團さんになって返事をするほかなかった。そうでなければきっと、明日何事もなく事務所に来れないだろうから。きっと失言をしてしまうだろうから。今、團さんの優しい弱さを借りるしかない。

時計は午後九時をまわっていた。今から帰っても、宮浜の大浴場を使える時間帯はとっくに過ぎている。早く、アパートを借りて暮らしたい。

右を見ると、篠宮が申し訳なさそうに飴の袋を差し出してくれた。桃が好き、と言う話をしてから何かの一つ覚えみたいに桃の飴ばかりを選んで持ってきてくれる。飴を右ポケットに入れて、現場事務所を出ようとしたところで、電話を終えた團さんとすれ違った。作業着の表面から5センチくらい、よく冷えた空気をまとって、少しだけ土と雪の匂いがしている。きっと芯まで冷えたのだろう。
なるべく團さんの顔を見ずに、お疲れ様です、と言って車に戻った。

事務所を出て車に乗り、冷えたハンドルを握る。今日は楽して好きなものを食べたい、コンビニに寄って行こうと、少し豪快な気持ちになった。最近、電子レンジに入れるだけで本格的な食感を再現できるスパゲッティばかり食べている。そうだ、今日は下品なくらい濃いトマト味のが良い。これとブラックコーヒーを淹れるだけで、もう喫茶店だ。それもとびっきりレトロで、天井にはタバコの雲ができているような。

左折で入れるコンビニを探し続けて、店の外にテントなんかを出している店舗を発見した。コンビニではあるが、それこそ前述の喫茶店がある時代の個人商店のような独特の創意工夫が凝らされているようだ。ラミネート加工された手書きのポップや、埃をかぶって日焼けをしていそうな(実際は被っていないし、日焼けもしていない)陳列、店内にあるひとつひとつに、ほのかな人情味が感じられる。
他のコンビニにはなくても、ここのコンビニだったらきっとある。下品なくらい濃い、トマト味のスパゲッティが。ナポリタンが良い、いや、ボロネーゼでも良い。冷食のコーナーにまっしぐらだ。それにしても、段ボールを開封しただけで陳列棚にあけていない商品で、ここのコンビニは全体的に狭くて少し暗い。

「袋はいりませんよ」
「いえいえ、ここのコンビニは袋無料なんです、どうぞ」
巷で袋が有料になって久しいが、自然な動作でかつてのMサイズといわれたサイズの袋に、冷食のスパゲッティを入れてくれた。きっと店長だろうか、五〇歳前後のおじさんだ。目の下のくたびれた線と、うざそうな前髪はまるで先ほどの團さん。しかしながら、白髪染めでミルクティのような色になったカサカサの髪と、どこかの指に光った金ピカの指輪、骨太そうな手元は精神的に幸福で精力的な私生活を感じさせた。
それにしてもここのコンビニは、レジまでごちゃごちゃと物が溢れている。三色ボールペンの束、乾電池、トイレットペーパー、新作の栄養ドリンクまで。ここまでくると、だらしない学生の家である。そういう部屋に住んでいる学生は得てして、物に囲まれて幸せで、その上なぜだか便利な暮らしをしているから不思議だ。暖かいこたつの周りに、使うものを集めて、どてら姿で内輪の会話をする。
おじさんは毎日、自分なりに少しだけおしゃれをして、この雑多なレジの中で温かい気持ちで過ごしているのだろう。

コンビニを出て駐車場に戻ると、雪混じりの風に乾かされた涙の跡がかゆくなった。そういえばもう、涙はひいていたし、確かに現場事務所で涙を流したんだった、と思い出した。
宮浜に戻って、一人の部屋で思い切りほっぺたを掻こう。今日は和室に泊まれるから、一人で声をあげて空中にぐちを言って、部屋を散らかしてスパゲッティを食べよう。眠れなくなっても良いから、ブラックコーヒーも淹れて。

和室の扉をあけると、携帯がなった。しゃんと伸ばした背筋をほぐし、いかにも体に悪そうな姿勢で携帯を覗き込んだら、くたびれ團さんから、さっきはきついところに巻き込んでごめん、とメールがきている。泣いている私をみて、ぎょっとして、うろたえたに違いない。私よりずっとかわいそうな、くたびれ團さん。

足元にくたくたになった毛布と、潰れかけの敷き布団が広がっていて、さらにぐしゃぐしゃにしてやった。そして、毛布と布団に謝りながらきれいに敷き直した。心がいたくていたくて、優しい人を傷つけたくてたまらない。

結局私はその日、和室を散らかさずに、つとめて上品にスパゲッティとハーブティーを頂いた。背筋をしゃんと伸ばして、伏目がちに。

スパゲッティーを買った汚いコンビニのことは、その時すでに忘れていた。


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