嘉穂

二十九歳、現役土木作業員

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二十九歳、現役土木作業員

マガジン

  • 二十九歳からの不安定生活入門

    二十九歳の春。 気の毒なほど優しい團さんと、あけすけで大雑把な篠宮に見守られながら、不安定な暮らしと仕事を始めた。そんなフィクション

  • 紺色のあなたへ

    小説を2000文字程度に分けてお送りします。 加筆、修正あり。

最近の記事

3月5日 夜間救急に行く

 その日はとても天気が良く、暖房なしでも事務所の中がほわほわと暖かかった。電気を消してブラインドを開ければ、手元を見るには十分すぎるほどの日差しが差し込んだ。今日は事務所に私ひとり、團さんも篠宮も、中西課長をはじめとする協力業者のメンバーも全員いない。私以外の人は、皆セミナーに出かけていた。セミナーの参加権は私にはない。そんな中で、面倒見の良い中西課長は私のぶんの仕出し弁当も注文してくれて、團さんがお昼にセミナー会場を抜け出してお弁当を届けてくれた。ブラインド越しに差し込む暑

    • 3月1日 入居の日

       朝七時ちょっと前、インター出口の信号待ちで、ちょうど正面に虹を発見した。まずいよなあと思いつつ、社用車の車内用ドライブレコーダーの向きを確認しつつ、スマートフォンを取り出してささっと虹を撮影した。昨日のサボりの時に見たような、窓ガラスにたくさんついた水滴と、その向こうに虹、その下にははっきりめの副虹。水滴のおかげで、虹と副虹はみずみずしくておいしい何かに見えた。  私の立場から、こういうくだけた写真を送るには、團さんと篠宮だったら歳の近い篠宮がふさわしいはず。しかし、一ヶ月

      • 2月29日 サボる

         今日はもう疲れた、毎日十五時くらいに、そう言っている気がする。特に今週は疲れるのだ、なぜなら今週は、現場近くにホテルが取れなかったせいで、高速で一時間の場所から現場に通っているからである。  一月半ばに團さんが事故を起こした現場は、当然ながらしばらく工事は中止だ。ずっと現場近くの特設事務所でナントカの書類やら、発注者との会議やらをしている。朝は七時から、夜は残業をして毎日二十一時か二十二時まで仕事をしているものだから、体がすっかりそのペースになっており、十五時くらいからエン

        • 紺色のあなたへ1

           夏が好きだ。冬に嫌なことがあっても、その次に来る夏を楽しく過ごせれば、それは帳消しになる。今過ごしている冬がいくら暗く、つまらなくても、その前にあった夏のことを思い出せば、それなりにやり過ごせる。  十九歳の悠希は、夏のなかで、初夏の時間をとりわけ大切に思っていた。その時期は彼にとって、ちょっとした催事の季節なのである。悠希の双子の弟にあたる龍希にとっても、それは同じなようだ。連休を一週間過ぎた頃から六月にかけて、桜の葉の緑は日に日に濃くなるし、青空の色は蒸気を含んで薄まっ

        3月5日 夜間救急に行く

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        • 二十九歳からの不安定生活入門
          5本
        • 紺色のあなたへ
          1本

        記事

          2月22日 家が決まる

          「お前、もうしばらくそっちに住んでもらわんとなあ、すまんな」 川本次長がたいへん申し訳なさそうに、そう電話をかけてきた。広島で、家を探すことになった。もちろん家賃は会社が出してくれるし、マンスリーマンションで会社が指定してくれる物件の中でだったら、どこに住んでも良いと。團さんも篠宮も、福岡から広島に引っ越して、現場と下宿の往復を続けてもう二年近くになるらしい。 そういえば、転職前の会社は、親元から離れて一人暮らしをしながら通っていた。炭鉱町のがらがらとした雰囲気が残る街で、

          2月22日 家が決まる

          2月19日 袋をもらう

          雪が降ったり止んだり、現場が動くの動かないのの話をしている中、團さんは今日も暗い気持ちを抑えて、目尻を笑わせていた。 華があるとか、万人が認める秀麗な顔立ちではないが、表情皺に人柄の良さが滲み出た、優しい顔立ちをしている團さん。根っこの部分は、田舎の質実剛健な人そのもの。それが第一印象、年始に会社の集まりで團さんに会った時のことだ。 しかし、このごろの團さんの疲労の色は深い。現場仕事でかいた汗を拭ったくらいでは落としきれないほど濃く、皮膚の色となって顔に染み込んでいる。 團

          2月19日 袋をもらう