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『NIA』 中村佳穂

なぜ音楽レビューを書くのか。

音楽なんて無理に言葉にする必要もなくて、聴けばその良さは分かる。その魅力をわざわざ文字に起こすのは野暮ではないか。

仮に野暮ではなかったとしても、文字に起こすことは専門家に任せればいいのではないか。音楽レビューを生業とするような人たちと比べたら、自分にはろくに知識もない。圧倒的に狭い視野でしか物事を見ていない。

こんなことを考えて「うーん」となっていたら、1年半前に始めたnoteへの投稿はいつの間にか三日坊主で終わっていた。

けれど、ここ最近また別の軸で物事を考えるようになった。

"イメージ"を残すこと

Googleフォトがよく勝手に、"何年何月の思い出" の写真を見せてくる。懐かしくなると同時に、少し怖くなることがある。「西暦何年の何月に、あなたはどんなことを考えていましたか?」と突然問われたとして、断片的にしか答えられないことに気づいたのだ。いや、別に答えられなくてもいいし誰も損しないだろうけど、自分自身が薄っぺらい人間になりつつあるのではと危機感を覚えた。

「自分がこの時代に生きて感じたことの記録は、どこに残るだろうか」と。その時々に見て聴いて感じたもので創られたはずの世界は、いつの間にか無かったかのように消え去っている。

もう少し具体的に言うと、いろんな文脈があって良いとか好きとか感じたはずのモノに対して、その文脈を忘れてしまっているのだ。言葉にすると大袈裟に聞こえるかもしれないが、例えば「この映画観たことあるけどどんな内容だっけ」とか「このレストラン良かった記憶はあるけどどんな味だっけ」とか、そうした些細なことも含めて、全てを覚えてはいられないものだ。

ところが、その忘れ去られている感情はとても大事なものだと思う。そうした一瞬の感情の積み重ねで自分の視点が創られていくからだ。

音楽も同じ。よく「私を構成する○枚」みたいなコラージュを見かけるが、正しく言うなら私を構成しているのは作品そのものじゃなくて、その○枚に対して自分自身が感じたことなんじゃないかと思うようになった。

だからこそ、殊更良いと思ったときの感情や感覚は、多少の労力をかけてでも形に残しておくことを選びたい。そして、運が良ければ形になった物を見た誰かに、その良さが少しでも伝わればいいなと思って記事を書く。

タイトル詐欺かと思われるほど前段が長くなったのだが、ここまでの話はタイトルに書いたアルバムに繋がる。私はこのアルバムを聴いて、中村佳穂からのメッセージを受け取って、「ここまであなたが考えてきたことは、あながち間違ってないよ」と肯定してもらえたような気がしたのだ。

人を惹きつける魅力

アルバムについて偉そうなことを言う前に、まず私は、中村佳穂というミュージシャンに関しては完全な"にわかファン"である。

ウィキペディアのページを見てみると、2012年から既に音楽活動を始めていて同年に自主制作CDも出しているとのことだが、私が彼女を知ったのはいつだろうか。朧げだが、2017年にtofubeatsの「WHAT YOU GOT」のクレジットを見たあたりから少しずつ名前を認知した、ような気がする。

で、2018年発売のアルバム『AINOU』を聴いて、この辺りからシンガーソングライターとして認識し始めた。本記事ではあまり触れないがこの作品もまた最高だった。全体を通して"声は祈り"を体現するような作品で、口語体の歌詞で踊るように歌うポップな曲から、折り重なるコーラスを壮大な荒野に響かせるような曲まで幅広い。

一方で、どこか近寄りがたい雰囲気があるように感じたのも事実だった。きっとその音楽性の豊かさは、専門家からしたら日本や世界の音楽史のあちこちに散らばる要素や文脈を踏まえた上で「最高だ!」と手を挙げるに値するもので、素人がその本質も分からずに「最高だ!」と言っていいものなのだろうかと。それくらい難しい音楽をやっているようにも見えた。

そんな状態で今作『NIA』を聴いた。そこで話はこの記事の前段で言ったことに繋がり、「うーん」とか言ってないで好きは好きでいいじゃんと、思えるようになった。そう思わせてくれるパワーがこの作品にあった。

そんなパワーに駆られて、すぐさまツアーのチケットを申し込み、CDを購入した。CDを買うことには、特典のグッズや映像作品を楽しむ以上に、音楽の価値を改めて感じるという目的があると過去の記事で述べたが、今回も同じ動機だった。

話を戻すと、私は元々彼女の大ファンであったわけではないということを言いたかった。そんな人間にも音楽レビューを記事に残したいという気持ちを抱かせるだけの、人を惹きつける魅力に溢れた作品なのだ。

纏う無敵感と魔法

早速だが、このアルバムは超親切だ。何が親切かって、まず冒頭で自己紹介をしてくれる。ライブの初めに自己紹介する人はいても、曲自体に個人名を入れる人ってあんまり聞かない。つまり、当たり前といえば当たり前だが、中村佳穂を知らない大勢の人にも聴いてもらう前提なのだ。

『竜とそばかすの姫』で主人公の声優を務め、同映画のテーマ曲で紅白にも出場した2021年。私のようなにわかファンがなだれ込むのも当然で、そんなリスナーもウェルカムな姿勢を見せてくれる。

で、次に何が親切かと言うと、序盤の3曲が外向きのエネルギーに溢れたアンセムの連打であること。"アンセム"という表現は、本人も色々なインタビューで使っていたので引用したが、まさに言葉のイメージ通りの曲群だ。「これさえ携えて生きていれば無敵」と思えるほどに自分を肯定して応援してくれる曲が連発する。

M2「さよならクレール」は歌っているテーマこそすれ違いを経て訪れる別れにフォーカスしているが、これだけ突き抜けて勢いがあって爽やかな曲は中村佳穂ビギナーにとってはとにかく取っ付きやすい、入口に相応しい曲である。

ハイテンポな2曲が続いた後のM3「アイミル」はこのアルバムの第一のハイライトだろうか。象徴的なハンドクラップをベースとしてコーラスが重なっていく流れは、まさにアンセムと呼ぶに値する。どうやらこの曲は小学生の友達に向けて書いたものらしいが、優しく諭すような歌詞は大人にも刺さる。

自分の可視領域は自分にしか作れない。広げるも狭めるも、自分次第。

世界はイメージ通り作られていくわ
沢山 "知るのだ"

上記映像は、『NIA』初回盤付属のBlu-rayに収録された『LIVEWIRE STREAMING LIVE』の一部だが、このライブの途中で彼女は、「音楽というものは自分から寄っていかなければ届かない」と言っていた。なるほど、ライブに行かない怖がりは惜しい気がする、と感じた。

映像では映画『インセプション』ばりに回転し続ける独楽が映し出され、現実と夢がシームレスに繋がったような、魔法の世界だった。

程良い抜け感

アルバムの流れに戻ると、本作品の魅力の1つに「抜け感」がある。ファッション界隈で流行ったような単語に聞こえるかもしれないが、ここでは全編通して肩の力を張りすぎない、リラックスする余裕と隙間を意味する。

良いメロディだなと思って曲名を振り返ったら「Voice memo 〜」だったり、M5「Hey日」とM6「Q日」が並んで平日と休日を表していたり。仮タイトルをそのまま曲名にしてしまうところに遊び心を感じる。ちなみに「Hey日」は本作品随一のポップソングだと個人的には思う。

コーラスの耳への残りやすさはもちろん、なんと言っても1ヴァース目のこの歌詞。文字に起こすとヘンテコだが、これがメロディに乗っかったフレーズを聴くだけで、J-POPってやっぱりいいなあと思える。

日本語は英語に比べてビートに乗りにくい言語と言われるが、日本語も捨てたもんじゃない。

ゲーッ!誰も彼もあの子もその子も役所に行ってんの!?

無敵感に呼応する有敵感

いや「有敵感」なんて言葉はないのだけれども。「無敵」の対義語を調べたら「最弱」と出てきたから、それはないと思って造語した。

最後の親切ポイントは「有敵感」にある。

結局音楽を聴いてどう思うかは、その時々の自分の心情や自分を取り巻く状況にも依るものだ。

「自分ってイケてる」と思えるときもあれば、「何にも上手くいかない」と思って塞ぎ込んでしまうときもあって、人はその二面性を受け入れてどちらの自分ともうまく付き合っていく必要がある。「無敵感」を纏った曲だけでは救われない生活が待っているのだ。

そんな人間のもう一つの側面に対して、「すべてが上手くいくわけないよね」と真正面から呼びかけてくれるような「救われなさ」や「報われなさ」を受け止めて寄り添う曲群が、作品の後半に広がっている。

決して「陰と陽」ではない、「陽と、もう一つの陽」を歌ったようなアルバムなのだ。

彼女の魅力は、生で聴いてこそ深みを増すものだと想像する。ライブ映像を見れば明白だ。
だからこそ、ツアーが待ち遠しい。

それまでは彼女の音楽にも他のミュージシャンの音楽にも触れながら、誰かの言葉ではない、自分の言葉でできる限りイメージを綴ろうと思う。

大事なのはそう、イメージ。

from LIVEWIRE STREAMING LIVE

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