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『ザ・ビュッフェ』 MONO NO AWARE

物凄い作品だ。6/5(水)のリリースから何度聴いても、いつも異なるタイミングで感動して泣きそうになる。

現在いわゆるリリースパーティーとなるライブ『アラカルトツアー』を開催中のMONO NO AWARE。初日6/7(金)の東京公演も早速観てきたが、圧巻だった。ただ、この記事ではあくまでアルバムの話を。

アルバムタイトルの通り、この作品のテーマは"食"。
"食"は生活の基礎である。

私の考えでは、"衣食住"という三銃士の中でも"食"はもっとも根深く、時には気味悪く、その人の人格に強く根付いているものだと思う。食べ物の好き嫌いから始まり、幼い頃に躾けられた食事のマナー、命を食べるという思想の持ち方など、食との向き合い方は人によって千差万別であり、そう簡単には嗜好は変わらない。

衣服や住居も同じと思うかもしれないが、食事はその中でも唯一直接的に人間の内に入っていくものであり、やや異質だ。肌や皮膚と異なり"口"は人間の内側に限りなく近く、例えば未知の食べ物を口に入れたときの好き嫌いの反応は、新しい衣服を着てみたときの好き嫌いの反応よりもずっと反射的かつ即時的だろう。

更に、味覚は先天的な感覚と後天的な感覚に分かれるそうだ。前者は人間にとってわりと一般的なもので、味を五味に分類したときに甘味・塩味・うま味を好み、苦味・酸味を嫌うという感覚。一方で後者は、生まれてから育ってきた環境においてどんなものを食べてきたかによって好き嫌いが発生するというものである。後天的と言いつつも、実は人間は胎児の頃から味覚を司る「味蕾」という器官が機能し始めるため、生まれる前の記憶も関係している。

そんな話を聞くと、自分が命を授かってからこれまで生きてきた数十年の中で、"食"に関しては体の内に深く染み付いた根があるような気はしてこないだろうか。ここで重要な要素は、「味覚嫌悪学習」と呼ばれる現象だ。何かを食べた時に体調を崩すとその食べ物を嫌いになってしまう、というような、食そのものだけでなく食を取り巻く環境によって嗜好の記憶が変わってくるということだ。
私はこの歳になって食べ物の好き嫌いはほとんど無くなったが、心太だけはずっと苦手だ。子どもの頃に一度、たまたま機嫌の悪かった父と2人きりで食卓を囲むタイミングがあり、その時初めて心太を食べたら気分が物凄く悪くなり、その味が今でもトラウマになっている。心太なんて特別な味のする食べ物でもないと分かっているが、その瞬間の食卓の暗さや空気感が記憶に刻まれているのだろう。

食を取り巻く環境は、世の中に無数の派閥がある。味覚については、トマトに塩をかけるのか、おでんをおかずにして白米を食べるのか、朝はパン派か。環境については、咀嚼音はどこまで許容されるのか、三角食べが身に付いているか、食事中にテレビを観る文化はあるか。

そうした派閥は、自分の選択ではなく自身が置かれた家庭環境によって、ある意味問答無用で決定づけられたような気もしてくる。

アルバム冒頭を飾る「同釜」は本作のリード曲でもあり、そうした食にまつわる作法をテーマとしている。

この曲でも、歌詞に表れる父・母・祖母・祖父という単語が示す通り、生まれ育った家庭環境に思いを馳せながら、植え付けられた価値観とそれに対する違和感が歌われる。イントロのマーチングドラムから宇宙感のあるギターリフとメンバー全員の斉唱に繋がっていく流れは高揚感が止まらない展開だが、よく聴いていけばカニバリズムというか、宮沢賢治の『注文の多い料理店』を想起させるかのような詞も埋め込まれている。高揚感どころか段々と不気味さすら覚えてきて、"あの世"という単語さえも登場したところでいつの間にか演奏も荒々しくなって曲を終える。

この曲の本当の不気味さは、豪勢でも質素でもこれから無限に選択していくことのできる"食"の可能性と、そうは言っても過去の記憶や周りの環境に制限されて選ぶことができない物もある"起こり得なさ"とが絶妙なバランスを保っていることにある。

これは作品全体にも言えると思っていて、2022年リリースの「味見」もまさにそのバランスをとることの難しさを歌っている。

一聴してコーラスのキャッチ―さとそれ以外のパートでのカオス気味なセッションとの対比によって掴みどころのない曲という印象は持つが、注意深く聴いていくと物凄く丁寧に多様性を歌っていることが分かってくる。ガレージから始まり、テンポが落ちた2回目のヴァースではレゲエ、同じように落ちたブリッジかと思いきや今度はボサノヴァ、それでいてコーラスは思い切りポップに振り切っている。曲の中で多国籍性や現代社会の多様な価値観を表現している。

この「味見」という曲がリリースされてから本作に辿り着くまではおよそ2年の時を経たわけだが、アルバムの中で改めてこの曲を聴くと、"味見"という単語の印象が変わってくる。もしかすると、自分は残りの人生は一生"味見"を続けていくのかなという気分になる。それは、今の自分の価値観や思想を形作った過去の環境という"ベース"と、明日新しい何かを試してみるという"シーズニング"を混ぜ合わせながら生きていくということ。「人は変われるのか」という問いに対して、記憶も全部捨てて作り直すことはできないが、風味を変えることはできる。果たしてどの味が正解なのかは誰にも分からないので、シーズニングを試したいなら試して味を見るのが良いし、ベースのまま進むとしても、それが今の環境に適している味なのかは度々確認する必要がある。

私は常々自分が嫌になり「変わりたい」とも思うし、今の自分が好きなので「信念を貫いていたい」と思えることもある。よく悩むことが多いが、この作品を聴くと、人生半ばでその結論を出すのはあまりに早いと思えてくる。だからこそ"味見"をしながら生きていくのだろうなという感覚になるのだ。

他人の人生はどうだろうか。私にはまだ子どもはいないが、もし誰かが生まれ育っていく過程に寄り添うことがあるなら、その環境づくりは私が担うことになる。心太の好き嫌いなんて正直どちらでも良いし、自分が過去に望んだ環境を押し付けることはしたくない。ただ、自分の中に親や祖父母の記憶が残っているように、子どもは親の一挙手一投足をかなり鮮明に覚えるものだ。そう思うと責任は重大である。

子育てをしたこともない内からそんな不安を覚えるのだから、実際の子育てにかかるストレスは想像を絶するだろう。「もうけもん」を聴くと、自分の気持ちでも自分の親の気持ちでもなく、どこかにいる見ず知らずの親御さんの気持ちを推し量って泣きそうになる。

関連して、アルバムの中で泣きそうになるハイライトをいくつか挙げておくと、まずは「イニョン」で何度も繰り返される"あんたにはまたどっかで会うわ"というフレーズ。どこか投げやりで乱暴に吐き捨てるようなこのフレーズは、冒頭のヴァースではその言葉通り再会を予期した別れを意味しているように聴こえるが、アウトロで何度も繰り返す様からは、実はもう会えない誰かを想って呟いていることも想像される。"イニョン"という単語は縁を意味するが、その縁は現世に留まらず、来世の"どっか"で会うことを願っているのかもしれない。

「風の向きが変わって」は2023年リリースの既発曲だが、こちらもアルバムの中で聴くことでその良さを再認識した。ユーモアや皮肉を織り交ぜたり、ジャンルレスで実験的な音楽性も取り入れたり、奇抜なアイデアを武器とする彼らにしては物凄くストレートな曲。それでもコーラス前でハネ出す小気味良いビートなど遊び心は忘れず、5分の重厚な演奏の中で最後のコーラスで初めてベースラインが変わる瞬間がまさに風の向きが変わったような感覚が芽生え、グッとくる。

そしてアルバム終盤の「忘れる」はイントロからもう泣きそうなのだが、曲の意味を解釈していくとその言葉に込められた葛藤にエンパシーを感じる。忘れたくてもどうしたって覚えてしまっている記憶や、日常生活では忘れていたのにふとした旋律を聴いて蘇る記憶、楽しかった思い出だとしても忘れてしまう記憶。それは"ベース"と"シーズニング"の関係を当てはめることができで、何かを足すことで押し出されて抜けてしまう記憶もあれば、染み付いて消えない記憶もある。

"忘れる"という単語は能動的にも受動的にも捉えられる。例えば「忘れよう!」と言えばそれは能動的なアクションを促すことを意味するし、「忘れてしまった」と言えば忘れようとしてもいないのに勝手に記憶が消えてしまったことを意味する。しかし近年の研究では、忘却とは脳の衰弱や劣化のせいで起きる受動的な現象ではなく、何かを学習するための過程の能動的なプロセスである可能性が示唆されている。

つまり、人間は自分を取り巻く状況の変化に適応するために、その状況に関係のない記憶を自ら進んで忘れていくとされている。裏を返せば、今自分が頭の中で思い出せる記憶というのは、それが心地良い記憶であろうが不快な記憶であろうが、今の自分に必要なものだということになる。

だからこそ、"忘れる"という現象は決して悲しいことではなく、自分が生きるという営みを続けていく上ではどうしても起こり得る現象なのだ。時には忘れたくない記憶を失ってしまうことだってある。そんなことに思いを馳せると自然と涙腺が緩む。

"食"にまつわる不快な記憶さえも我々の脳内に残っているのは何故だろうか。「同釜」で父親の咀嚼音が気になっていた記憶は何のためにあるのか。それが父への愛と答えられたら綺麗かもしれないが、おそらく違うだろう。あくまで個人的な見解にはなるが、それは自分の選択のためだと思う。

これからの人生で自分は何を選ぶのか、そこで合理的な判断ができるように、教師も反面教師も記憶として残しておくのではないだろうか。"食"については特に、自分や自分と食を共にする誰かの健康が阻害されず最大限の幸せを得るために、意図せずして様々な記憶を蓄積しているのだと思う。

いささか独り善がりな結論だが、人は自分の幸せのために生きているのだ。親から問答無用で押し付けられた"食の派閥"だって、活かすも殺すも自分次第だ。それを他者のせいにして「もっと違う人生だったらな」なんて甘ったれたことを考えるようではいけない。今ある人生は少なからず誰かが用意してくれたベースなのだから、あとは自分の力で風味を足していくしかない。


この作品は、ラストの「アングル」の最終節で核心とも言える言葉を残して幕を閉じる。"アングルが変われば"と冒頭から繰り返し歌われてきたコーラスは、最後に"アングルが変われど"という言葉へ、まさに曲中でアングルが変わっている。

アングルが変われど
自分が選んだ目線はひとつだけのままよ

「アングル」 MONO NO AWARE

これから先の人生は、時折この作品に立ち返りながら選択と味見を何度も繰り返していくのだろうなと思った。


※『アラカルトツアー』の追加公演が発表された。初日の感動をまた味わえると思うと、とても行きたい。しかしその日程は大事な試験の直前。今まさに人生で重要な決断を迫られている。

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