見出し画像

なくしたもの【掌編小説】

消えた鍵は98個。
私は99個目の鍵を手に取った。


 ***

99パーセントと100パーセントの差はたった1パーセントだが、突き詰めるとそれは、存在するかしないか、つまり有と無ほどの違いがある、とあなたはよく言っていた。
あなたは「100」という数字が好きだった。
「僕は君のことを100パーセント愛しています!」がプロポーズの言葉だったし。

 ***


初めて鍵をなくしたのは、忘れられるはずもない、去年の夏。
梅雨が明けたというのに居座り続ける湿り気が、汗だけでなく、体の水分を、そして涙を、止めどなく流れるのを助長するような日だった。
長い一日が終わり帰宅した私は、玄関の前で家の鍵がないことに気づいた。

それが1回目の紛失。

あの日は、あなたが取材先の海外で事故に巻き込まれて亡くなったと連絡が入った日。
それから四十九日の法要まで、毎日が目まぐるしく過ぎていった。

2個目の鍵が消えたのは、四十九日の翌日。

それからというもの、2日に一度のペースで自宅の鍵は消えていった。
ある時はバッグの中から、ある時は玄関のキーボックスの中から。どこに置いてしまっていても、いつの間にかなくなっている。

鍵が消えることが日常化した今では、もう驚きはない。あなたが会いに来てくれている、と思えるようになったからだ。
それに鍵を消し去るなんて、悪戯っ子のようであなたらしい。実は、天国でも鍵忘れの常習犯で、それで困って取りに来ているだけだったりして。

ただ私の方は、そのたびに合鍵を作らなければならないのよ。鍵師だから自由に合鍵は作れるけれど、そうでなければ完全に不審者扱いよね。
わかってる? 零音れおん

あなたが亡くなってからこの9カ月間、いろんなことがあったのよ。まさかこんなにも早く結婚生活が終わるなんて想像もしていなかったし、とにかく初めてのことばかりで不安だった。でも、順調よ。ほら見て。
どうか私たちを見守っていてください。

私はあなたの写真の前で手を合わせ、99個目の鍵を持って病院へ向かった。
陣痛が始まったからだ。

その後私は、あなたとの子を無事出産し、退院の日を迎える。

帰宅するため荷物をまとめていた私は、鍵がなくなっていないか、バッグの内側のポケットに手を入れ確認した。
……やっぱり。
99個目の鍵は消えていた。

零音? ここにいる?
私たちの赤ちゃんよ。
ねぇ、聞きたいことがあるの。もし100個目の鍵を作ったら、あなたはもう来ないの?
零音?

少し遠くから足早に響くヒール音が、私を現実に引き戻した。お義母かあさんだ。お義父とうさんも一緒のようだ。

百合亜ゆりあちゃん、迎えに来たわよー。あらどうしたの? 浮かない顔して。あ〜あ、また家の鍵をなくしたんでしょう? でも大丈夫よ。今日は、ほら、私たちが合鍵を持っているから」と鈴の付いたキーホルダーを揺らしながら鍵を見せてくれた。

「それとね。あの子もよく鍵をなくしていたでしょう。だから、あなたたちの自宅の鍵を預かっていたのよ。これはお返しします」と鍵を手渡された。

渡された鍵には、ストラップの先におもちゃの指輪がくくり付けられていた。
それはプロポーズの日の夜、縁日に行って、くじ引きで当てた指輪だった。
なくしたと思っていたけれど、零音が持っていたのね。百日草のような鮮やかなオレンジ色の花をあしらった指輪。

それを見た途端、しまい込んでいた記憶が指輪のような鮮やかさで蘇った。
縁日の賑やかさ、香ばしいソースやタレの香り、糊のきいた浴衣を着こなす零音の姿、整った顔立ち、無邪気な笑顔……。
零音はあの日、この指輪を私の指にはめながら、同じ日に2度もプロポーズしてくれたのだ。
「一生、いや、生まれ変わっても、百合亜を100パーセントの愛情で包んでみせる。絶対にしあわせにする」と。

そうだった。しあわせだったのだ。なくしたものはたくさんあったけれど、こうしてあなたは息子を授けてくれた。
あなたがいう一生がもう少し長ければ、この子に会えたのに……ね。

私は片方の手で100個目の鍵に付いている指輪を見せながら、もう片方の手で息子の小さな手に触れた。
彼は私の指をギュウっと握った。
胸が熱くなる。

あなたの言ったとおりだ。私はこうして100パーセントの愛に包まれている。ありがとう、零音……。

込み上げる涙を抑えきれない私を励ますように、ばあばよ、じいじだよ、と競って息子に話しかける両親。
私は鍵が消えた日から初めて、悲しみや寂しさからではない、それとは温度の違う涙を流すことができた。





〈了〉

©️2023 ume15

お読みくださりありがとうございます。
#シロクマ文芸部 初参加です。よろしくお願いします。

この記事が参加している募集

#眠れない夜に

69,580件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?