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小説『アテネ・ガーディアン』 5 銀の『Z』

 カナリアは、籠の中でその生涯をまっとうする。外界では生存不能であるから、籠の中で彼等は安住するのだ。
 では、動物園の気だるい顔の動物たちはどう理由をつける?
 人間の勝手な都合でそこに置かれ、本来なら野生の原野に生きるべき動物たち。
 彼等は全て、逞しく生きる術を身に付け、太古の昔からそれを繰り返してきた。神々の存在も知らず、求めず、自由な風と大地と、太陽だけで生き抜いてきた。
 人も、同じだ。
 誰が誰を縛り付け、閉じ込めることが許される?
『……普段なら、ホテルからは出さない……』
 そう善人面した兄貴は漏らした。何よりも苦しい表情で。
 そんな権利はあの男には無い。自分自身にも……。
『ソウシナケレバナラナイ時ハアル。
シカシ、ソウヤッテ閉ジ込メテ守ロウトシテモ、失敗スル時ガアル』
 過去。古い愛情一つに破壊された、FBIの精鋭、ガードたちの想い。
 瞼を閉じた暗闇に、六年前、レンが生まれて初めて知った恐れが蘇る。
 昼間、アテネ大学を探し惑った激しい動悸が呼び覚まされる。レンの胸を締め付ける。
 取り戻せない、絶望の情景がレンの脳裏に広がった。


 銃撃に、部屋の明かりは吹き飛んだ。暗闇の中でレンは老婦人を床に伏せ庇った。
 もう一人、部屋に居たベテラン捜査官が、窓越しに反撃しながらにじり寄り、婦人の楯になる。二人で左右を守る、セオリー通りのVIPのカバー。
 立て続けに砕け散る窓ガラス。屋外で撃たれたらしい同僚の呻き声、絶え間ない銃声。流血の錆びた臭気。
 婦人はレンの体の下で、静かに呼吸していた。耳を押さえていたが、ガードたちの存在を確かめ、目を細めて彼等の興奮をなだめるように微笑んだ。
 その気丈な笑みに、レンは誓った。
 必ず死守しなければならない。じきに応援が到着する。それまでなら、なんとか。最後の一人になってでも。
 彼等はもう一度伏せる。突撃銃の連射に、テレビのブラウン管が青い火花を放って砕けた。
 その上に乗せられていた写真立てが、ガラスの花瓶と共にカーペットの床に落下する。
 奥の部屋へ。相棒のジェスチャーに、レンは体を起こし、婦人の腕を取り低い姿勢のまま、移動を開始した。
 ふと、婦人に軽い抵抗を感じた。
「どうか……?」
 彼女は腕を一杯に伸ばし、写真立てを掴もうとしていた。節くれた指先が、止まらない震えに支配されていた。
 一瞬、レンは引き止めることをためらった。
 もどかしく、婦人は体を起こし……。
 レンの耳元で、炸裂する新たな銃撃。
 婦人を突き飛ばすように伏したレンは、右脇腹に灼熱の塊を覚えた。
 肺や食道を昇ってくる、吐き気と血の味にむせながら、レンは婦人を探した。彼女は目を閉じようとしていた。夫の写真立てを握り締め、安らいだ頬で息絶える婦人を前に『なぜ?』と問い掛ける言葉も失っていた。
『女性の行動パターンは予測不能です。最も危険な状況に陥るほど、未知なのです。
 背後に守る人間が、何を考えているかわからない。自分を信頼していないという事実は、我々ボディ・ガードにとっては、前方の敵以上に強力な、もう一人の敵といわざるを得ません』
『彼女たちは、本気で生き延びたくはないのです。ある状況においては、他者の生命を優先させるんですから。別のケースでは、生命どころか、過去のものとなっている愛情さえも、自らの命よりも優先させます
 女性に限らず、真剣に生きたいと望んでいる人間のみを生かすべきです。少なくとも、そういった人間にのみ、我々ボディガードは命を賭けるべきではないでしょうか?』
 レンは、ガードの契約の前に確認をすることを常としている。
 納得しない、共感の出来ないクライアントには、依頼を拒否してきた。
 そうやって言葉通り、命を賭けてきた。

 ◇◇◇

「聞いたわ。舞をぶったのですって?」
「お仕置きをしただけだ」
「それで、ボスには殴られてやったの?」
 アンジェラは白い歯を見せて笑う。
 布張りのテントの屋根もない、屋外だというのに、強い香辛料と炭火焼の香ばしい匂いに包まれていた。プラカ全体に、この大衆食堂(タベルナ)の匂いが染み付いているようだ。ともすると神々の時代からの、由緒正しい下町臭さかもしれない。
 ホテルを一人抜け出し、想い付きで彼女を呼び出した。誘ったのではなく、仕事半分のつもりだったが、アンジェラは昼間以上に砕けた調子でよく笑う。よく食べる。
 一時的な解雇状態なので、レンもリラックスしていた。いや、したかった。舞を探し回った記憶を、どんな手を使ってでも忘れたい気分だった。
「それも支部じゃあ、噂で持ちきりか?」
 紙製のクロスをかけたテーブルに両肘をついて、レンをしげしげと眺める。
「殴られたようには見えないわね。ボスにもお仕置きを?」
「そうしていれば、もっと早くこんな仕事から手が引けただろうな」
 皮肉を悪びれもせず吐き、レンは肩をすくめた。
「クライアントは謝罪したよ。心からね」
 目を丸くして、頭を振るアンジェラ。
「……信じられないわ。いえ……、ごめんなさい。
 あなたがすべて悪いって思ってるわけじゃないの。ボスは、彼女を誰よりも大切にしているから、てっきり」
「俺もそう思っていた。
 殴られてやる覚悟までしていったのに、頭を下げられた。妙な男だな、あいつは」
 そこがボスのいい所よ。と、レンに気遣ってか、小さくアンジェラは答えた。
「何があったの?」
 しばらくの間、ボリュームのあるスブラキ(炭火焼き)を口に運んでから切り出した。
「その答えの前に、俺も聞きたい。
 先週のナポリで、何が起きた?」
「ナポリ?」
「君たちのボスは妹が大事すぎて、ホテルに閉じ込めたそうだ」
「……ボスが、自分で言ったの?」
 慎重に聞き返すアンジェラに、まだ隠し通そうという意図が見えた。
「はずみで漏らしただけだ。
 他にもお嬢さんは誰かの襲撃を受けているな。
 なぜあの男はそれを言わないんだ? 聞いたら俺が逃げ出すと思っているのか?
 かもしれんな。俺は臆病者だから」
「そんな言い方、ばかげてるわ。
 本物の臆病者なら、この世界には居ないはずよ」
 アンジェラは、自虐的な一言を一笑に付した。
「敵はデカイ組織か? あの男のことだから、口の悪さが祟って誰かの恨みでも買ったかな?」
「わかったわ、話すわ。だからつまらない憶測はやめて」
 ためらい思案する顔を一度、賑わう店内に向けて、アンジェラは隠すことを諦めた。
「ナポリで起きたのは、考えの浅いチンピラの誘拐未遂よ。金目当て。それも、持ち慣れない拳銃に自分が振り回されて失敗したわ。
 チンピラのバックに黒幕がいないか裏を取るのに慎重になっただけなの。その為に、時間がかかって、その間、舞を保護する必要があったからホテルに置いたの。安心していいわ。黒幕は居なかった。詳細に調べた結果よ」
「信用できないな。一週間で裏を取るなんて」
「実質的には三日よ。FISの総力を注いだわ。間違いは無しよ。
 ボスは舞に関しては神経質で、接触する人間は敵も味方も厳しくチェックするの」
「なるほど、俺はそのチェックをなぜか潜り抜けた一人か」
 その上で、重要な事実は何一つ与えられず、顔のない野獣の俳諧するアテネに、身勝手な子供と二人放り出された。ともすると、死線をうろうろと丸一日。
 とんでもない茶番。紫月を呪いたい気分は、もう隠しきれるものではなかった。アンジェラの顔が、その鏡だ。戸惑い、レンの表情の変化に頬を陰らせる。
「レン……」
「調書を見たい。明日届けてくれ。一つ残らずだ」
 呪うのはいつでもできる。目先の危険性を優先させ、冷静になってゆく自分を、レン自身は職業的本能だと評価していた。
 もしかしたら、少女は死線を潜り抜けてきているのではないか。今度こそ、あの愛らしい顔立ちに裏をかかれて。
「……わかった」
 アンジェラは短く答えて、フェッタと呼ばれる山羊のチーズを散らしたサラダに専念しはじめた。レンの目を見ずにフォークで差したチーズを口に入れ、無関心にうつむいたまま。無言の、最初の質問への答えの要求だ。
 レンは時間をかけて、記憶を引き寄せた。昼間の動悸は過去ともシンクロするので、苦痛だった。
 二つのグラスにワインを継ぎ足して、水のように干されてゆくアンのグラスにもう一度注ぐ。そういえば、アンジェラも舞同様、レンに『女として扱ってくれるな』と明言した一人で、珍しく『女』を忘れて扱える、レンには唯一の人間でもあった。
「勝手に、俺から離れた。悪いとわかっていながら。『ごめんなさい』の一言で」
「そんな子じゃないのに。どうして」
 即座に困惑した声が、挟み込まれる。
「ああ。そうらしいな。紫月にも、こんこんと説かれた。
 だが、事実だ」
 一口飲み。レンはグラスを置いた。
「何が、あったの?」
 手を止めるアンジェラの視線は真剣だ。
「知らん。向こうも、何があったのか、紫月には一言もしゃべらないそうだ」
「……だからね。ボスが謝ったのは」
 紫月と同じ、複雑に感情が混じり合う困惑の表情を浮かべた。シスター・コンプレックスの兄貴が言い張る通り、あの舞の行動は、異常事態だったのかもしれない。
「たぶん。銀髪の男だ……」
「何?」
「お嬢さんは、銀髪の男を追いかけていったのだと思う。
 何か心当たりのある男は居ないか?」
「銀髪の男ってだけじゃ……」
 期待なく、アンジェラは首を振った。
「ひどく目を引く綺麗な銀髪だった。だが……、あの男は妙に存在感が無かった。
 まるで、気配を殺していたように……。
 この俺が、何も感じなかった」
「あまり特徴のない男?」
「いや……、目を引くタイプだ。ひきしまった体でかなりの長身、落ち着き払って、どこか優雅な歩き方。
 印象だけなら、女性たちが放っておかない手合いだな。大学の講師らしい身形だったが、事実かどうか怪しい」
「顔は?」
「ハンサムだぜ? 女たちが喜びそうな面だ。瞳は暗い青……か? 遠かったし光りの加減ではっきりとは言えない。
 視線は、氷のように鋭かった……。
 そうか……。あいつは普通じゃなかった……!
 くそっ。なぜ、あの時変に思わなかったんだ?」
 記憶の焦点を絞れば絞るほど、銀髪の青年はレンの警戒心を煽る。今更それに気付いた自分に、レンは苛立った。
「氷の……、感情が無いように?」
 アンジェラの瞳が大きく見張られた。
「そう! あるのか、覚えが?」
「……まさか……、アテネに来ているはずがない……」
 アンジェラの声が掠れた。
「一体誰だ? 只者じゃないな?
 あの気配、かなりの訓練を受けてるぞ」
 逆にアンジェラはレンを見つめ返し、辺りをはばかるように声を低くした。
「レン……! お願い。その男のことは、ボスには言わないで。他の誰にも」
「……なぜだ?」
 感情の強さに、レンは気後れした。
「言ってはだめ。舞にも気付かなかったフリをしていて。
 あの男が、アテネにも現れたことが知れたら、舞は真っ先に、外出を禁じられるわ」
 アンジェラは思案に顔を陰らせた。くしゃりと頬に落ちた髪をかき上げる。
「そんなに危険な人物か?」
「……いいえ……。そうじゃない。
 舞に危険なんじゃないの。たぶんね。私の知る限りでは、舞に危害を加えたことはないわ。私もどういう男なのかわからないの。舞自身も。誰も知らないわ。
 ただ……。ボスは酷く嫌悪していて。それもあまり根拠はないんだけど。彼が神出鬼没に舞の周囲に現れるものだから、警戒しているの。あなたが感じる通り、危険な匂いのするままで近付くから」
「名前は?」
「本名は不明よ。偽名なら掃いて捨てるほど。
 FISで彼は『Z(ゼーダ)』と呼ばれているわ」
『Z』……!
「なるほど、奴は紫月に国際電話を掛けてるよ。俺が紫月の部屋に居る間に。香港に居ると抜かしていたようだが」 
「ええ。あたしもその電話があったことは聞いてた。だから今度の仕事は気が楽だったのよ」
 本心落胆した声。アンジェラをこうまで動揺させる男に、レンはますます闘争心が掻き立てられていた。
「食えない奴だな。どうやって香港からここに来たんだ? FISは、香港で奴を確認したんだろう?」
「国際電話は香港発だった。ただ本人をまだ確認していないの。それも、いつものことだけど。どんな手段でここへ来たのか、さっぱりよ。考えられないわ。
 誰も彼がどういう男なのか知らないわ。調べようがないの。どこかの組織に居るわけでもないのに、いくつもの顔を持っていて、そのほとんどは作り物。ボスが気に入らないのも、実態が見えないせいでしょうね。
 だから、知られない方がいいわ。余計な不安を与えるだけよ」
「本当に危害を加えないと言えるのか?」
 感情を込めずに、レンは確認した。
「……。正直に話すわ。
 彼はこっそり、舞を連れ出したりするのよ。だから」
「十分に誘拐罪が成立するぞ」
「ボスと同じね。わかっていないわ」
「何をわかれって? 得体の知れない人間に自分の身内の周りをうろつかれて、落ち着いていられる家長は居ないぞ。何より。こっちは世間知らずのお嬢さんだ」
 アンジェラは無闇にうなずいた。
「誰だって、舞の安全の為に正体を知りたいわ。でも敵視して暴くのは、関係を悪くするかもしれないし……」
 アンジェラは曖昧に濁し、密かに溜め息をついた。これは女同士でしか通じない感情で、男であるレンには到底理解し難いものだから、濁すしかない。
 事実、舞がレンを振り切ってまで追いかけた青年が『Z』であるなら。少女には追わざるをえない理由と、感情がある証拠になる。
 時折に、自分を籠の中から取り出してくれる男を、救い手と認める想い。
 紫月と舞。双方の感情を汲み取れる立場のアンジェラとしては、一人頭の痛む情報だった。
 そんな困惑にも気付かず、レンはチラリと唇をなめた。
「正面切って聞いてみるか。案外向こうも名乗る気になっているかもしれない」
 まじまじと見返すアンジェラを、片手でその場に押し止め、椅子を引いて立ち上がった。レンの鋭い瞳は、アンの背後の誰か一人に固定されている。
 すっと、視線が左へ流れてゆく。
「……すぐに戻る」
 言い残し、レンはその場を離れた。
 いつの間にか、アテネ大学で出くわしたと同じ、強い視線を浴びていることに、気付いたのだ。
 昼間よりも強烈な、挑発する気配。
 暗黙の声に、レンは従ったまでだ。

 ◇◇◇

 一人、店を出てゆく男は、十数メートルほど離れた路上に足を止めた。
 街灯の光の輪からやや離れた、ザラザラとしてレンガの壁を背に、内ポケットを探っている。
 人違いだろうかと自分の記憶力を疑いながら、レンは真っ直ぐ歩み寄った。
 別人の印象だ。涼しい顔立ちで、大股でゆっくり歩き去る大学講師の穏やかな『顔』はどこにも見当たらない。
 そこに在るのは、心臓を持った凶器。
 陽射しを浴びて柔らかく輝いていた銀髪は、今は鋼鉄の鈍い光を放ち、額を流れ左側の目を隠している。近付くと瞼を薄く開いた瞳は暗い青ではなく、紫がかっていた。
 上等な部類のダークスーツ、プラチナの時計、ブラックオパールのカフスボタン。レンとは異なる身分を歴然と示しているが、同類だと決め付けた。
 内ポケットから拳銃を取り出しても不思議には思えない。そのままレンの胸を狙ったとしても、レンにはかわす心の準備は出来ている。
 取り出されたのはシガレット。
 同時に、レンの手も懐に滑り込んでいた。レンもまた、拳銃を抜いてもおかしくはないほど緊張していた。
 レンが取り出したのは、やや高級なライター。過去のクライアントからの感謝の品だ。
 黒い思惑を腹に隠した二人が、無関心に煙草の火を貸し、借りている。
 一見対等に見えるだろうが、レンは背筋に冷たい汗を感じている。
 長身であり広い肩幅、過剰な筋肉のない均整の取れた体は、精巧に磨かれた結果と、レンには判断できた。
 その精緻さが、レンを圧倒する。
 自己規律の厳しい職業軍人でさえ及ばない。比較できるとしたらテロリスト。そういった影の職種なら、必要不可欠。『Z』に対して当てはまらないパズルが全て解ける。
 感情を殺し視線を合わせる。心を読まれたら、負けに等しい。
「君は、何者なのかね?」
 先制攻撃だ。冷ややかな響く低音。どうでもいいような口調だが、答えを強要する威圧感がある。
 支配者の口の利き方、態度。テロリスト級の肉体を持ちながら、かなりの地位にいるのだろうアンバランスさ。
「俺はボディガードだ」
 男の表情に変化はない。返答は相手には予測されていた。
「なるほど。いい度胸をしているな」
 どうやら、舞に手を挙げた姿も見ていたようだ。褒められる理由は無い。静かな表情で、いつ殴りかかられるか、レンは気に掛かった。
 まともに食らえば、相手の戦闘能力がはっきり解る。
 ……試さなくても、どの程度かの予感はあるのだが。
「それくらいでなければ、あの跳ねっかえりのガードは、勤まらないだろうな」
 同情? 嘲笑?
 微かに浮かんだのは、どちらとも取れない生身の人間の笑みだった。
「待て!」
 レンは歩き去る背中を鋭く制した。
「NO。
 追いかけるなよ。私は手加減をしない」
 二度と振り返らない背中は、紫煙を残し遠ざかる。
 敵でも味方でもない、不敵な態度。
 何がこの男を、東洋の少女に向けさせているのか? どんな価値があって?
 凶悪犯以上の危険な香りを持ちながら、十四歳の小娘に執心し、敵か味方か計れない位置に甘んじて。
 殺し屋が子供のお守りだと? そんな酔狂な暗殺者は居ない。
 酔狂といえば……。実際に奇妙な行動を取った、暗殺者の名前を思い出した。
 裏の世界では名の知れた、ボディガードにとっては嫌悪すべきコードネーム。
『アーリック』。
 この男に限って、返り討ちに合ったり、報復を食らったとは誰も思わなかった。
 なのに、『アーリック』は裏の世界から忽然と消えた。一年前、その情報を耳にした時、そんなバカなことは在り得ないとレンは同業者に一笑にふした。
 暗殺者は一生追われる。公の機関からも、報復を望む敵からも。一度手を染めたなら、抜け出すことのできない世界だ。
 どんなに逃げたくとも、拳銃を手放せない。そうしてまた引き金を引いて、新しい恨みを買い取ることになる。
 それとも『アーリック』は本当に、うまくやったのか?
 裏切りを恐れて常に孤独。『Z』には暗殺者の孤独と同種の陰りが滲んでいた。
 冷酷無比にして完璧な『アーリック』ですら、不可解な行動を取った。殺し屋もやはり人の子である、いい証しなのかも知れないが、レンにはまるで理解できない。
「『アーリック』も銀髪だ……」 
 だがすぐに打ち消す。『Z』が『アーリック』であるなら、FISが正体不明だと泣き言を言うわけがないのだ。

 ◇◇◇

 レンは店に引き返し、それぞれきれいに空にされた皿を片付けさせ、新しいワインだけを頼んだ。くせのある松脂の香りのするレッツィーナ。苦々しい一日には似合いだった。
「何を考えているのかわからん男だ……」
「『Z』は遊びのつもりかしら?」
「遊びや気紛れなら、リスクが大きすぎる。だが、本気なら、なぜそう示さない?」
「だったら」
 グラスを差し上げて、茶化すようにアンジェラは言った。
「今日のあなたは、本気で舞を守りたいと思った?」
 この件に関しては、レンは口を閉ざした。
 意志不定な子供に命を賭けることは、これまでのレンが、考える必要のなかった事例だ。
「レン……?
 あなたどうして、普通の生き方を選ばなかったの? 日本じゃ優秀な大学だって通ったんでしょう? エリートコースに乗ったまま、あんな事件は無視して、おとなしく日本に帰って、エレベーターから降りなきゃ良かったのに」
 アンジェラには以前、暇潰しに昔話しをしたことがあった。
 レンの父親は海外勤務の長い商社マンで、家族ともども、欧米を数年、転々とした。レンは、自分がまだ若く日本人でもあるのに、ガードとして世界を渡り歩けるのも、少年期の海外経験が潜在的に働きかけているせいだと考えていた。
 FBIの出向も、レンが強く望んだ異動だった。
「普通、だと……?」
 随分と酔いが回ってきたらしく、アンジェラは眠たげな目と火照った頬をしている。
「言っている意味がわからないな。今の俺が、普通そのものだと思っているが」
 アンジェラはクツクツと笑い出した。澄まして答えたレンも、唇を引き、してやったりと目を細めた。
「よーくわかったわ。あなたはガードになるべく生まれてきたのよね。最高だわ。適材適所。
 普通に生きているだけで、他の人間には英雄と呼ばれるんだから、これ以上無い生き方よ」
「英雄は余計だ。仕事上の義務でしかない」
 本気で迷惑な顔をするレンを見守り、アンジェラはまた皮肉な笑い声を立てた。
「知りたい? あなたが慌てて呼ばれた理由。
 ナポリの事件で、舞を庇ってボディガードが一人撃たれたからよ。
 あなたと違って一流のガードだったから、急所を外して楯になったわ。
 でもそんな高等テクニックは、舞には理解できないから、ひどく怒ったわ。泣きながら、舞は彼に言ったそうよ」
『……私の為に死ぬなんて許さない! 誰も私の楯になんてならないで! 
そんな人、大嫌いよ……!』
「あなたもこの言葉を忘れないでね。
 舞は自己犠牲なんて認めないんだから」
「自己犠牲だと?」
 聞き返す声は、無意識に鋭くなっていた。
「そうよ。ヒーロー気取りってとこね。
 女を一人守れなかったからって、一生それを引き摺って暮らすなんて。格好つけてるだけじゃないの?」
 丁寧にグラスを置き、アンジェラは髪を払うようにゆっくりと背筋を伸ばした。瞳に酔いは無かった。密やかに、眼差しの奥、黒い炎が揺らめき、レンを射抜く。
「何が『女性は守れない』よ? 女をバカにしてるわ。
 女はみんな死にたがっていると思ってるの?
 ええ、そう! 愛している人の為にだけ命を張るわ。あんたたち男だって、同じでしょう? いいえ。もっと酷いわ。
 か弱い女を守って、ヒーローになりたい。いざとなったら主義を守る為に、死んでも女の楯になる。死にたがっているのはどっちよ? 英雄なんてくだらないわ!」
「……英雄になりたいとは思っちゃいない……!」
 低く押し殺した声が、アンジェラを黙らせた。レンの内部で苦い緊張が張り詰める。喉が渇き始める。
 怯えて口を噤むような女ではない。アンジェラは確信して、目を細めた。
「……あなたそのうち死ぬわ。望み通り、誰かの為に麗しい死を迎えるの。
 だけど死んでしまえば只の犬死よ。戦場じゃ、生き延びてこそ栄光が掴めるわ。
 あなたは何時だって、死にたがってた……!」
「違う!」
「じゃあ何? 『本気で生きたい人間だけガードする』?
 あなた一々依頼人に確かめていたわよね。他人を押し退けてでも、おまえは生きたいか、って。
 YESと答える人間は全員、間違いなく。本気で命を狙われている男ばかりだった。
 一流のガードが引き受けないような、確実に危険な二流の人間の楯になりたがった、あんたは二流のボディガードよ……!」
 陽気に騒いでいた客たちが、静まり返って二人を振り返っていた。それに気付き、レンはアンジェラの腕を取って引き起こし、店の外に押し出した。
「調書は明日の夕方持ってくるわ。またここに来て」
 レンの手を払い、正面切って見上げた。
「舞に本気になるのなら、お綺麗な犠牲的精神は捨てることね。
 でないと、舞はあなたを庇って、六年前みたいに死ぬわ」
 黒い瞳を預言者のように細くした。
「レン・ケンジョウ? あなたが、殺すのよ」
 古い石畳を踏み締めて、彼女はレンを置き去りにした。
 おどおどと勘定を取りにきた店員に無言で紙幣を渡し、レンはアンジェラとは逆の大通りへと向かった。
「俺が……、殺す……だと?」
 ……そんな真似はさせない……!
 それが誰に対してのものであろうと、雪村舞に『庇う』行為をさせてはならない。
 彼女はレンが庇護すべき人間。必要なら、舞の楯になり……!
「犠牲的精神だの、自己犠牲だの!
 中世の騎士道じゃあるまいし、誰がこの現代にそんなことを考える!? どいつもこいつも自分の命が惜しい、だから俺の依頼人は一も二も無くうなずく」
『助けてくれ。頼む。私はまだ死にたくはない。君の言う通りにするよ』
 いつか足を止め、歩道の縁で車道に向き合うように立ち、レンは顎を上げた。
「……お嬢さん。あんただって、まだまだ生きて、やりたいことが沢山あるだろう?」
 暖かい明かりが窓辺に灯り、グランド・エルターニュはレンの目前で、穏やかに佇んでいた。
「馬鹿な考えは捨てて……」
『危険なお仕事を選んだのねぇ、ミスター・ケンジョウ?』
 レンは、続いて語りかける柔らかなソプラノに耳を傾けることにした。もう六年も経つのにまだ蘇る。この声の響きが、日本の田舎の祖母に似て、とても好きだった。
『でもね。私の為に、死んだりしないでね? 私、皆さんのために祈るわ。一人の血も流されないように。
 すべての人が、健やかな今のままで』
『どうぞご心配なく。十分な訓練は受けています。体はタフな人間ばかりですよ』
『ありがとう。
若い人はしっかり生きて、自分の本当の道を探すべきなの。
 自分の本当の望みを探すのは大変なことよ? 他人の影響や、一時的な感情で左右されて、他人の望みを自分のもののように思い込んでしまうのは簡単なんですもの。
 ミスター・ケンジョウ? ゆっくり時間をかけて探さなくちゃならないわ。辛くても逃げ出したらダメ。心も、タフにならなければね?』
 久し振りに、彼女の言葉の一つ一つを思い出した。いつもは失った痛みの苦さに負けて、振り払い忘れようとさえしたのに。
「……逃げていましたか? 俺は」
 暖かい光の方向へと、レンは足を踏み出した。その中心に、彼女の信頼の微笑みが浮かんで。
「お帰りなさいませ」
 控え目に微笑する痩せた初老フロントマンが、レンを迎えた。
「おやすみ」
 キーを受け取って、小さく頭を傾けエレベーターに向かった。
 その動作の中で、レンは自分がわずかに変化していたことに気付かなかった。受け止めたのはフロントマンだけ。
 レンの口元に浮かんだ微かな笑みに、
「おやすみなさいませ」
 彼は暖かく返した。

 ◇◇◇

 翌朝。レンの気分は、芳しいものではなかった。
 二日酔いでも時差ぼけでもなく。目覚めると同時に、昨日見飽きたはずの、舞の無邪気な笑顔が浮かんだからだ。
「遅いぞ。君の分はもう冷め切ってしまったよ」
 おはようの挨拶の代わりがこれである。
 紫月は一人、黙々と食卓に向かっていた。
 レンは所在なく小首を傾げてから、席に着いた。舞に起された昨日と同じ時間に来たつもりだった。
 紫月の食事の進み具合も、ほとんど同じ。時間には正確な男だと聞いていたので、遅刻ではないはずだ。
 違っているのは、彼の宝石の姿が無いこと。もう一組の食器に使われた様子は無かった。
「コーヒーは?」
「いえ。自分でやります」
 二度目の報復の可能性を、レンは阻止した。
 紫月は邪気も無く、肩をすくめた。
「他意は無いよ? 同じ手に、君が二度も落ちるとは思っていないからね」
 腹に含みのあることをしらじらと言い切る。
「お嬢さんは、どうか?」
 自分から切り出した。つまらない神経戦は苦手だった。仕事につけば嫌でも強いられる。紫月には冗談半分、本気半分な感触があるので、付き合うには及ばずと判断した。
「ああ……」
 忘れていた、とでも続きそうな、曖昧なうなずきが返ってくる。
「まだ眠っているんじゃないかな。一日中、はしゃぎすぎて疲れたんだろう。
 昨日は、遅くまで起きていたんだ。
 動物園に出掛けたんだってね。ああいう場所も好きなんだ。うっかりしていたよ。
 久し振りに、僕もゆっくり話しが出来た。
 本当の所、ナポリの件で恨まれているんじゃないかと、びくびくしてたんだ」
 横目で、幸福を頬一杯で描く男を、レンは盗み見た。一人だけ浸る無神経さに、レンの食事の手は止まった。
「いい子だよ。やっぱり、僕の妹だ。
 人を恨む、なんてことが絶対に出来ないんだな。でもね。『少しは、兄さんのことを嫌いって思ったわ』なんて、正直に打ち明けるんだから、素直すぎてこっちが心配になるくらいだよ」
 テーブルクロスに乗せたレンの手が、小刻みに震えかける……。
 目尻を下げっぱなしの面を、紫月本人にも見せ付けたら、どんな台詞が出てくるか? レンには考えたくも無かった。考える前に、今すぐ張り倒してやりたいのだ。
「だからね」
(だからね、じゃない……!)
 まるで友人に向ける砕けた調子で、紫月はフルーツジュースのグラスを片手に、レンに顔を向けた。
「昨日のことは、君も気にかけることはないよ?
 舞は十分に反省しているんだし、あの子には君に対する不信は毛頭無い。君の行動の真意は、僕も妹も良く理解してる。彼女のことを思っての行動なんだから、恨む理由はないからね。
 君も水に流して、新しい気持ちで警護に当たってほしいんだ」
 レンは、ぐっと息を飲み込んだ。
 血がそう創り上げたのか、紫月の笑みは舞の微笑みと見紛うほど似通い、見惚れて自分を放心しそうになるものだった。
 図星を突かれ、紫月の得意技で頭を真っ白にされて、レンは操られるように、顎を引いてうなずいていた。
「……勿論です」
「そう言ってもらえると思っていたよ」
 グラスを下ろし、紫月は立ち上がった。レンの肩を叩く。
「舞が鼻を曲げているかどうか、確かめてあげるよ。そんなはずは無いと思うがね」
 奥の部屋へと消える紫月を見送って、レンは気を落ち着けた。改めて言われなくとも、舞が普通以上に聡明であると理解している。だからこそ、彼女がガラスの持つ繊細さを抱えているのではないかと、不安にもなった。
 無神経と疑いたくなるほど、ざっくばらんな紫月に、心から救われた。紫月の言う通り、彼女はすぐに、無邪気な笑みを見せてくれるだろう。
 心の重荷が降りると、空腹を自覚できた。気持ちが軽くなり、白いテーブルを輝かせる、明るい日差しを心地よいものに感じられた。家族の暖かさなのだと、素直に受け入れた。
 引き返してくる紫月の背後には、誰も居なかった。鼻歌など歌いながら、紫月はネクタイを器用に絞めている。
「レン。すまないが、食事が済んだら、下げてもらえるよう連絡してくれないかな。
 欲しくないそうだ。
 ああ。心配はいらないよ。子供じゃないんだ。お腹が空いたら、自分でルームサービスだって頼める。放っておいてくれ。甘やかすのは、僕だけで十分だ」
 また、目尻に皺を刻む。
「今日の予定は?」
 嫌な予感を感じながら、レンはナプキンを置いた。
「今夜は、ここのオーナーが主催するパーティーに招待されているんだ。スニオン岬にあるデカイ屋敷らしい。落日が綺麗だぞ。見たことが無いだろう? 実は僕も無いんだ」
「…………」
「夕方、コロキナ広場に面したブティックに連れていってくれないか。店は舞が知ってる。で、一度、ここへ戻って着替えを済ませる。アンジェラを迎えに寄越すから、二人で先に向かってくれ。
 僕は多分遅れるから、それまで君がエスコートしてくれよ」
「はぁ?」
 反論の隙を与えず、紫月は捲くし立てる。
「大したパーティーじゃない。舞は慣れてるよ。君は彼女に寄ってくる虫を追っ払うだけさ、楽な仕事だ。
 それと、アンジェラは今日は仕事が入って支部に常勤できないそうだ。舞が手に負えないようなら、隣の部屋に出来の悪い僕の秘書が居るから、彼に任せるといいよ。
 名前は志堂。見掛けは完璧な北欧系人種だが、クォーターで日本語も流暢だ」
 あんまり役に立たないので、連れて歩けないんだ、とぼやきまで出る始末。
 いよいよ、レンの予感は現実になった。
「あの……」
 紫月は書類ケースを抱え書斎のドアを開け放つ。振り返って、レンを見た。
「言い忘れたが、今日は外出はしないそうだ」
 やはり……。
「君には悪いが部屋で待機してくれ。気が向いたら君を呼ぶから、付き添ってもらいたい。僕はもう暫く、ここで書類を整理してから出掛けるよ。今夜、大きな商談を控えているんだ。用意は周到に行うのが僕のやり方でね」
 ドアを開け放したままにして、デスクに書類の束を広げ、ラップトップ・パソコンも起動する。
 レンは立ち上がって、受話器を取った。ルームサービスを呼び出し下げるように伝えた。レンにしては、動作が緩慢であった。一人分、整えられたままの食事が、気を重くさせる元凶だ。
「もう起き上がっているんですか?」
「何かの写真集を眺めているよ。いつものことさ。
 気が向くと窓の外を見下ろして、いろんなものを見てる。びっくりするほど細かく観察しているんだ。
 放っておいても、心配は全然無いからね」
 今度は顔を上げず、気持ちは書類に向いている。放任しきった兄貴だ。
 紫月は肉親とはいえ、彼女と過ごす時間はあまりにも少ないのだ。舞がどれほど、戸外で過ごす時間を貴重に思っているのか、紫月は知らないし、逆に紫月にとっては余計な不安を抱かずに済んで都合のいいことだろう。
「ここに居てくれる方が、気が休まるよ……」
 たった今、レンが考えた通りのことを、ぬけぬけと言う。
「仕事中に始終、妹のことを心配している余裕は無いからね。忘れるように、いつも苦労してる」
 しばし手を止め、遠く窓の外を眺める。
 今の状態を、心から歓迎しているのだ。籠の小鳥の気持ちも知らず。
『でもアテネは一週間だから、やっぱり、もっと他のものを見学します』
 勇敢な探検隊のように、意気込んでいた舞。遺跡を愛し、美術品に目を凝らし、街の散策を全身で楽しんだ解き放たれた小蝶。
「それと。さっきフロントから連絡があったんだ。
 舞の帽子を届けてくれた人が居るらしい」
「? 帽子、ですか?」
 瞬時に、レンは記憶を探った。
「出掛けるなら、受け取っていくといいよ」
「お嬢さんは、帽子に名前を? 宿泊場所まで署名しているんですか?」
 のんびりとした口調をレンは遮った。
 怪訝顔を、紫月はすぐに真顔に変える。
「いや。そんなことはない。
 ちゃんと僕も妙に感じて、聞き出したよ。
 拾い主は、タクシーに乗り込む君達を見掛け、タクシー会社に問い合わせたのだそうだ。あの時間に戻った二人連れは君達しか居ないことと、フロントマンが舞の帽子だと確認した。
 奇遇なことに、その人物はここに宿泊しているそうだ。後で礼を言った方がいいね。
 ぜひ、連れていってくれよ。舞は喜ぶぞ」
 少々上機嫌である。警戒する気配は無い。
「お知り合いですか?」
「そうじゃないが、ちょっとした有名人だ。
 ディスパール教授といってね、動物学者としてはユニークな著書を出している人物だ。下手な講義を聴くよりは、ずっと楽しめるだろうね」
「今は、アテネ大学の講師に?」
「らしいね。大学前で落としたんだろう?」
「ええ……」
 なぜディスパールは、彼女が落としたと考えたのか?
 レンが拾って帰らなかったのは、落とした帽子が視界に入らないほど離れた場所でタクシーを拾ったからだ。
 タクシーを見送った男が、どうやってあのありふれた帽子を、舞の物だと決め付けたのか?
 理由は一つしかない。被っていた彼女を目撃しているからだ。同時に、あの場所で被っていた彼女でなければ、タクシーに乗り込んだ二人組と連想することも難しい。
 未知のディスパールと我々は初対面なのに、ディスパールは時間を置いて目撃した二人組を結びつけた。
(一体誰だ? あの二ヶ所で、俺は同じ一人の人間を二度視界に入れたのか?)
 自問するが、答えはNOだ。
 ボディガードの記憶力は訓練によって高められている。その観察眼に命が掛かるのであるから当然研ぎ澄まされる。意識の奥に埋もれた記憶を隅々まで辿り直すことも不可能ではない。
「レン……? 何か気にかかることでもあるのか?」
 紫月は真っ直ぐにレンを注視してくる。レンは首を降って、テーブルの冷めたコーヒーに手を伸ばした。
「ディスパール教授のバックもFISでは調査済みなんでしょう? 疑念を抱くような人物では無い、と」
「勿論。調査の必要も無いがね。
 彼の身元は全世界が知っている。曇りは無いからね」
 その上、全くの初対面。ディスパールに疑念を抱く必要があるはずがない。
 レンが、安心しきっている紫月と別な感情を抱く理由は、レン自身が現場に居たという事実から来る。
 初対面であるがゆえに、レンは疑念を強くする。初めて見る人間をなぜ記憶できる?
 無論、舞は人目を引く。だが、それだけだ。
 道端で見掛けた美しい花に、ああ綺麗なものだと感慨を抱き通り過ぎるのと同じ。言葉も交わさずに。彼女の持つ特別な輝きに触れもせずに、彼女を強く記憶に焼き付けることは不可能だ。
 二つの可能性を消すと、誰も残らない。しかし帽子は届けられた。奇妙なことに。
 だが、もう一つの事実を加えると、たった一人が確かに浮かび上がる。
 紫月の知らない事実。
 あの場に、舞を良く知る男が一人居た。
『Z』とマークされた男。
「外へ出ないのだから、帽子はどうでもいい。必要なら買えばいいと思っていたのに、不思議な縁があるものだな……」
 紫月は再び、レンの気持ちを逆撫でする言葉を漏らした。紫月は頭から、舞が閉じ篭もるだろうと決め付けていたのだ。
 安穏とした紫月に『Z』の存在をブチまけてやろうかとも、一瞬過ぎった。
 書斎に堂々とかかってきた電話の時と同じように、紫月が豹変することは目に見えている。その後、過剰な警戒に切り替わるだろうことも。
「少し顔を見てきます」
 レンは自分の口が余計なことを言い出す前に、その場を離れた。これ以上、取り返しのつかない事態を迎えたくはなかった。
「お嬢さん? レンです」
 ドアをノックすると、弾かれたように「どうぞ」と答えが返る。
 ドアを開けた正面は窓であった。薄いレースのカーテンの側に、舞は肘のついた椅子を置き、かけていた。朝の光が頬を輝かせているが、初めて見る沈んだ目をしている。
 紫月がこの瞳の色に気付かないはずがない。いや、わざと容認しているのか?
 彼女を閉じ込めるために……。
「見城さん……、ごめんなさい。
 私、まだ昨日のことを謝っていなかったわ。我が儘なことをして、本当にごめんなさい」
 フワリと立ち上がる舞は、膝の上の厚い本を張り出し窓に載せた。が、心はそこに無いのか、バランスを崩し、本はパタリと床に落ちる。
 おぼつかない手元から落下を察したレンは、大股で歩み寄っていた。伸ばした手が、二人、触れる近さに届く。
 本の表紙には、カタカナでギリシャとある。写真集仕立てのガイド・ブックだった。
「帽子を、買いましょうか?」
 賢い子である。尋ね返しもせず、うなずきもしなかった。瞼を伏せ唇を堅く閉じて、レンが差し出した本を受け取り、胸に抱き締めた。
「涼しいうちに行きましょう。昨日のような砂漠の行軍はゴメンですよ」
 レンは腕を取った。抵抗も無く、舞は小走りで後につく。ふと、振り返ってレンは手を離した。
「何か上に着る物を。スリッパじゃ、行けませんよ?」
 まだ堅い表情で、舞はワードローブに引き返した。ノースリーブの、ウエストをリボンで絞ったフレアーワンピース。しなやかなシルエットに釣り合わせ、しっかりと底の厚いベージュの靴を選ぶ。
 振り返った舞は、レンのジャケットと同色の淡いブルーの長袖のボレロと、小さなポシェットを手にしていた。
「帽子は大きな鍔のものにして下さいね。今夜のパーティーに、赤い鼻じゃ恥ずかしくていけないから」
「なるほど……、よくわかりました」
 控え目な笑みに、大きくレンはうなずいた。


「兄さん? 行ってまいりまーす」
「! レン!」
 舞の明るい声に、弾丸のように書斎から飛び出してきて、レンを睨む一組の黒い瞳。
「戸締りをよろしくお願いします」
 少女の姿はもう廊下に消えていた。
「レン? いつの間に僕の妹を手玉に取ったんだ? 気の置けない奴だな、君は」
「手玉に? 帽子を買いに行くだけですよ?」
「帽子なんてフロントにあると、さっき言っただろう?」
 語気を厳しくしても、ボディガードは涼しい顔で断った。
「もう少し鍔の広いやつがいいんです。日に焼けるわけにはいきませんから」
「日に焼けるって……、おい!」
 取り残されたボス・紫月は、複雑な表情で肩を落とし、気を取り直して低く笑った。
「まあいい……、あれで気が済むなら。
 僕が胃の痛みを堪えればいいだけさ。
『笑わない男』を心の底から信頼すれば、その痛みも消せる」
 何度も頭を振って、書類をブリーフケースに詰め込んで、部屋を出る前に机上のインターホンに手を掛けた。
「リック? アーリック・志堂?
 賭けは君の勝ちだ。……さっさと追いかけてくれ」
 インターホンは、含み笑いでイエスと答えた。丁寧な日本語で感謝を告げる。
「もう一つ聞きたい。本当に、昨日のアテネ大学前で、何を見たのか言えないのか? 何も見ていない?
 今度同じ口を利くなら……おい?」
 再び、ボスは沈黙に取り残された。
 誰も彼も、彼の妹の前では、優先順位が入れ替えられるのだ。


ここまで、お読み頂き有難うございました。感謝致します。心の支えになります。亀以下の歩みですが、進みます。皆様に幸いが有りますように。