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小説『アテネ・ガーディアン』1 レディ・舞

 彼は、神に祈っているつもりはなかった。
 組み合わせた拳に額を押し当てて、目を閉じていても、想いをぶつける相手は『神』ではない。
 繰り返す。自分自身に。
 言い聞かせる。否定するように。
『彼女の身に幸いあれ。適うならこの身が、その災いを引き受けよう……』
 青年は目を見開いた。堅く握り締めた拳が不釣合いなビジネス・スーツの袖口。腕の力を抜いて、組み合わせた指をゆっくりと開く。
「十パーセント程度の危険に、僕がうろたえていてどうする……?
 これからその確率をゼロに切り替えればいい。この手で」
 もう一度、机上の電話に手を伸ばした。
 数分前、彼に衝撃を与える情報をもたらした同じビジネス・ホンに呼び掛ける。
「アーリック。来てくれ。僕は支部長室を占拠している」
 祈りも独り言も日本語だった。だが全館放送は、滑らかな英語で告げられた。
 デスクは上等なオークが控え目な香りを放つ、真新しい代物だった。まだ薬品臭い壁。シンプルだが上等な絨毯。革張りで居心地のいい肘付きの執務椅子。この部屋も含めた、建物すべてが正真正銘の新品だった。
 FISアテネ支部は、新築のビル内部に開設したばかりであった。その支部長専用オフィスに、青年は居た。
 部屋の主は、他の部屋のチェックに出掛けている。職業柄、細に入って念入りに調べるタイプで、当分戻らないと本人も言い放って出掛けた。その間、主の上司が占拠したとしても、なんら問題はなかった。
 青年は、この部屋に隠されている緊急指令室へ続くドアを、なんなく通過できる資格を持っている。
 軽いノックと共に、一人の男が入室した。ドアを後ろ手で閉める間、男はじっと正面の黒い髪の青年に視線を置いていた。口を開くと、全く癖のない日本語が零れる。
「……緊急事態ですか?」
「なぜそう思う?」
「ひどい顔付きをしています。レディには見せられないような」
 小さく、純粋な日本人の若い青年は、溜め息をついた。利発なアーモンド型の目を半ば伏せ、正直な憂いを濃く写し出した。
「君はホームドクターも兼任できそうだな」
 アーリックは、褒め言葉に小さくうなずき受け流した。三十代半ばに差し掛かる、落ち着きを感じさせる男だった。
 たっぷりとした銀髪を短くカットし、手櫛でラフに撫で付けているあたりは、ビジネスマンには似つかわしくない。身につけたビジネス・スーツは、逆三角形な均整の取れたボディを好ましく見せているが、向かい合う青年ほど、しっくりと馴染んではいない。
 青年の方は、小憎いほどスーツ姿が様になっている。東洋系の特徴であるやや狭い肩幅。欧米人のアーリックに比べれば胸板の薄い体型ながら、背筋を伸ばした青年には、並んでも引けを取らない、柔軟な強靭さが見え隠れする。
「話しは逸れるが、一つ聞いてもいいか?」
「どうぞ」
「その前にかけてくれ。君は怪我人だからな」
 木製椅子を引き寄せ、アーリックは寛いだ姿勢で足を組んだ。やや左肩を庇うような不自然なしぐさを、青年はテストするように見詰めていた。
「どうして『レディ』と、君達は呼ぶんだ?」
 アーリックは視線を和らげた。ブルーグレイの瞳は、ともすると冴えた氷を連想するほど、厳しい光をもっている。
「『お嬢さん』とお呼びするには、あの方は聡明すぎるからです。
 一番相応しい呼び方でしょう?
 機動部の人間は、誰もが尊敬と愛情を込めて、そう呼んでいるようですよ。
 私も、それに習ったまでです」
「なるほど。そこまでの評価は嬉しいよ、自分のことのようにね」
 沈んだ表情を隠さず、納得した弱い笑みを、青年は浮かべた。
「レディに何かあったのですか?」
「いや。妹だけに限らないが、ちょっとした事件だ」
 気を取り直し、アーリックに向き直る。精悍な頬に、結果を臆せぬ闘争的な緊張が走った。
「カイロのラボにある、FISのスーパーコンピュータを知っているだろう?」
「FISのメイン・コンピューターですね」
「そこに、何者かが侵入したらしい。
 詳しいことは専門のチームを送って、究明に当たらせたが、問題は事が起きる以前の対応だ」
「研究データが盗まれた?」
「それもまだはっきりしない。教授は、最悪の場合を考えるべきという意見だ。彼は我々以上に、データの重要性と価値を知っている専門家だからな」
 データが盗まれたとしても、それは、青年にとっての最悪の事態とは言い切れなかった。状況を左右するのは、データの最終的な取得者が誰になるか、という一点である。
 青年は冷静な言葉を切って、やり場のない憤りを呟くように吐き出した。
「ナポリで、あんな事件があったばかりだっていうのに」
『あんな事件』で負傷した肩を持つ男が、目の前に居る。二人は視線を噛み合わせた。
「何度でもお侘びいたします。あれは私の自己過信ゆえのミスです。
 危険な場所だと承知していながら、レディをお連れした」
「バカなチンピラは世界中にうようよしているさ。逆に妹は、運が良かったのかもしれない。君が居たということで。
 それにペナルティは十分味わったはずだ。その肩にね」
 青年は謝罪を受け入れる、寛容の笑みを浮かべた。
「お断りしなければありませんが、この状態で職務に復帰する気はありません」
「……右手も利き腕同様に使えるんじゃなかったのか?
 聞いていた話しと違うな」
 落ち着き払ったアーリックは、一転して拗ねる子供に返った青年を、自分の論理で諭してやった。
「見えざる敵に『さあ、私を撃って下さい』と叫んでいるようなものです。
 明らかに怪我をしている人間を側に置いては、無意味に敵を尊大にするだけです。
 私は、表には立ちません。その為に仕方なく、つまらない社長秘書の地位に甘んじているんじゃありませんか」
「……。プロのボディガードは、こういう時に使えないな」
「プロだからこそ、NOと言うんです。
 不必要にレディ・舞を危険に晒すことは、私のプライドが許しません」
 あしらい慣れしているのか、皮肉に動じるほど人間が安くないのか。それ以上に、自意識が尊大な為に、アーリックの余裕は不変であった。
「参ったな」
 青年は心底弱り切って、肩を落とした。
「舞はどうしてる?」
「サントリー二島のプライベート・ビーチで、リストネル家の護衛に守られて、羽を伸ばしておいでです。
 我々と違って、御大層な護衛らしいですね。これでボディガードの扱いに、慣れて下さればいいんですが」
「ガードを風か空気だと思え、かい?
 無理だろうな。風も空気も人間同様に慈しむ子だ。
 可哀相に、窮屈な目にあってるな……」
「おかげで、アテネに戻るのを楽しみにしていらっしゃる」
 意地悪く、アーリックは兄貴殿をうかがった。
「その通り。だからこっちは頭を抱えてるんじゃないか。
 なのに、超一流の腕を持つボディガードは、非協力的とくる」
 アーリックは非難するのは、筋違いの極みだ。わかってはいるが、涼しい顔で拒否されると、余計な一言も言いたくなる。
「あいつとは約束してる。今度は出歩いていいと。
 ナポリじゃチンピラの襲撃のお陰で、散々な目に合わせて、ようやく埋め合わせができると、僕だってホッとしていたのに」
「アテネ支部の誰かに任せますか?」
 生真面目な問い掛けに、青年は頭を横に振った。
「いや。今は人手を割けない。
 だが。出来のいい兄貴は、約束を破ったりもしない」
「それでこそ私の雇用者です。あなたには不可能の文字は無い」
 もったいつけた兄貴の態度に、同じように大袈裟に答える。アーリックの陽気さに、青年は目尻を鋭くした。
「……おだてたって、君に楽をさせないぞ」
「なんなりと。つくづく退屈しているんです」
 心底飽きた情けない声に、『兄』は途端に満足した。髪と同じ黒い瞳の輝きが増す。
「表に出ないのなら、裏に回ってくれ」
「日陰に回るのは久し振りです、心が躍りますね」
「おいおい。何も一年前に戻れとは言ってないぞ」
 二人は含みのある笑いを交わして、過去に触れる話題はそれまでにした。
「で、表は誰に?」
「ずっと欲しかった男だ。腕は一流のガードのくせに、つまらない主義で二流の仕事に甘んじている」
 アーリックは同業者として眉をひそめた。
「プロを甘く見ていませんか?
 あなたにとってはつまらない主義でも、我々にとっては重要なポリシーで、その意味は絶対なんですよ」
「かもしれんな。翻せば、あいつの主義は筋が通ってる。
『本気で生き延びたい人間だけを、ガードする』そうだ」
「いい心掛けですね。死にたがっている奴の為に命を張るなんて、誰にだってできませんよ」
「その上で『女性のガードは引き受けない』と」
「……。本気でその男に白羽の矢を?」
 聞き返し、アーリックが青年の正気を疑う番だった。
「ああ、本気だ。必ず吊り上げる。NOとは言わせない。
 私の妹に向かって」
 強行する意志の強さを目の当たりにしても、アーリックの不安は消せなかった。
「すぐに来てもらうよ。君は安心して、裏方へ回ってくれ」
「名前は? 誰ですか?」
「『笑わない男』。レン・ケンジョウ」
 アーリックは肩で息をついた。
「やはりそうですか。彼はFIS内部では、妙に有名ですからね、経歴を見ました。
 堅物です。あなたは扱えるんですか?」
「僕は脅して透かしてお膳立てするだけさ。後は舞に任せる。君の時と同じようにね」
 また、意味のある含み笑いが青年に跳ね返ってきた。
「もう一つ、意地悪な質問をしようか?
 十四歳の子供を『レディ』と貴婦人のように呼ぶ気分はどんなものだい?」
「あなたと全く同じ感情です」
「ほーぉ。気が狂いそうなほど、愛しくてたまらない?
 彼女の未来の横たわる数多の障害を考えると、夜も眠れないくらいに? 心から大切で、出来るなら身代わりになりたいほどに?」
「…………。
 ボス・紫月? 決して他人には、同じ事を喋らないようにして下さい。
 今やあなたのFISは、急進勢力の総合警備企業と世界の注目を集めているんですよ。そのトップがロリータ・コンプレックスだと、世界中に広まります。ボスは敵が多いんですから」
 額の冷や汗を、アーリックは右手の甲で拭った。
「負けました。あなたの足元にも及ばないのはよくわかりました」
「わかってもらえて嬉しいよ」
 青年は満足の笑みを浮かべて、年相応の二十六歳になったばかりの若い顔立ちで呟いた。
「僕はね、僕の敵など怖くない。
 妹の為になら、どんなことでもするし、やってきた。世界中を敵に回してもいいくらいだ。実際、世界の半分は敵になるかもしれないが」
 その世界を眺めるように、紫月は寂しい目をした。
「もしもそうならば、残り半分が、きっとレディを救うでしょう。
 少なくとも、この場では、最低二人は味方です。
 私と、ボスと」
「レン・ケンジョウも、そのくらいの心掛けをもってくれるといいんだが……」


ここまで、お読み頂き有難うございました。感謝致します。心の支えになります。亀以下の歩みですが、進みます。皆様に幸いが有りますように。