見出し画像

おりど病院身体拘束死裁判 NO3 転院7日目の死

【家族の証言】

その時、私はまだ"病院という場所は患者を診る、治療する場所であり不必要な身体拘束などするはずがない"と思っていました。"身体拘束は医師の指示のもと代替え案がない場合、最短、最小、患者の命を守る為に行われるもの"だと思っていました。
2017年7月10日19時半過ぎ、面会を終えておりど病院からどうやって2時間の道のりを自宅まで帰ったのか記憶がありません。
7月14日の金曜日、主治医と面談予定でした。"愛知医大に戻りたい"と伝えるつもりでした。

7月13日木曜の18時20分 兄が母の面会に行きました。母の両手はゆとりが無いぐらいベットに縛り付けられていて、胴体拘束帯が装着され、まるで磔獄門の刑を受けている罪人の様な姿でした。リザーバーマスクが装着され、枕は外されておりベッドはフラットでした。母の髪の毛、パジャマ、シーツは汗でベトベト。その状態を見て兄はびっくりして、18時23分私に写メを送信しました。その写真を受け取り、私は叫びました。即座に兄に電話をして、以下のような会話しました。

私「酷い、酷すぎる、今すぐ拘束を外してもらって。母を愛知医大に戻して欲しい」
兄「シーツもパジャマも髪の毛もベトベト」
私「ナースコール押して看護師呼んで。身体拭いてもらって。拘束を外してもらって‼️」
兄「お母さんが、○ちゃん(私)いつ来るの?って聞いてる」
私「明日行くからって伝えて」

私は兄との電話を切った直後、ケアマネジャーさんに電話し「おりど病院に転院してから状態が悪くなってる。ずっと両手と胴体を身体拘束されている。愛知医大に転院させたい。可能ですか?」と尋ねました。ケアマネジャーさんは「愛知医大がOKなら転院可能」だと言いました。即、キーパソンの別の兄に「拘束が酷すぎる。明日、愛知医大に戻してもらう」と電話しました。

19時過ぎ、母の拘束はどうなったかを聞くために兄に電話をしました。兄は面会を終えて帰宅途中でした。兄は、「拘束を外して欲しいと看護師に頼んだが、”面会が終わったらまた縛ります”と言われた。滝の様な汗をかきパジャマがベトベトだったから着替えを頼んだ」と言いました。

19時39分 "母が危篤"と電話が入りました。あまりに突然の知らせに動揺しながら病院に向かう支度をしました。
その10分後 "母、臨終"とメールが入りました。私は信じがたい連絡にこれは何かの間違いだ、と思いながらも全身の震えが止まりません。
兄から「もう急いで来なくってもいいから」と電話が入り、母の死が現実なんだと思いました。家族の誰も母の最後に立ち会う事が出来ませんでした。

21時30分 おりど病院に到着し病室に向かう途中、看護師と当直医に声をかけられました。看護師「今日は担当医が休みで居ないので、当直医が対応しました」 当直医「酸素機能が低下して酸素が、、残念です」と当直医からそんな内容の言葉を掛けられました。
四人部屋から個室に移動した母と対面しました。
病室には2人の兄と義姉が窓側の椅子に座っていました。
骨と皮だけの白く小さな身体で横たわる母。
義姉から"母が亡くなってから看護師が拘束帯を外していた"と聞いて身体の震えが止まらない。
母の口の奥に乾いた痰が見えました。私は、、泣き叫んだ。
両手と身体を縛られた状態では身体を横向きにして痰を出す事もできない。
ナースコールは押せない様に壁に掛けられたままだった。


母は痰を出せず息ができない苦しみの中で誰も助けを呼べないまま窒息死したんだと思いました。
余りにも酷い最後に絶望と無力感が襲って来ました。私は今も最愛の母を守る事が出来なかった自分を責め続けています。

22時20分 看護師に死後の母の身体を拭いてもらいました。白い着物に包まれた母の身体の下には、生前母を縛り付けていた胴体拘束帯がそのままベッドにくくりつけられていました。
命を絶たれた母を侮辱していると憤りを感じます。

暗い廊下の隅で、いつも冷静な兄がきつい口調で「母さんは、痰が詰まって死んだんだろ」と言いました。その顔はやりきれない憎しみを必死に抑えている様でした。

きっと母が病死なら、悲しいけれどちゃんとお別れを言えたかもしれません。

肺炎継続治療とリハビリ目的の転院だったのに、、
母の死は不必要な身体拘束により早められたと思っています。
            NO4へ続く 

2022.5.11 水曜日 10時〜17時          おりど病院身体拘束裁判、証人尋問       名古屋地裁1104法廷 

#おりど病院身体拘束裁判 #身体拘束 #おりど病院 #病院  #看護師 #医師

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?