日本美術 粘膜的魅力

どうも、魔法少女です

○岸田劉生の目指したところ

YouTube山田五郎大人の教養チャンネルで「【岸田劉生】実の娘を描いたのに…なんだか不気味で怖い?その理由とは【麗子像】」https://m.youtube.com/watch?v=5HHLzqPQ4lc&pp=ygUU5bGx55Sw5LqU6YOOIOm6l-WtkCA%3Dという動画を見た。動画内で、岸田劉生が寒山に日本の美しさを見たということが語られていた。これをきっかけに「日本独特の不気味さ」について考えてみた。まずこの動画を見終わって思い出したのが甲斐庄楠音だ。(寒山繋がりで横尾忠則も思い出したがこれは後述)同時代の画家だし、美の中にある確かな不気味さや歌舞伎的な色遣いなど、岸田劉生に通じるものがある。というか実際、劉生は楠音のことを「デロリとした絵」として評価していたらしい。この「デロリ」という言葉が個人的に気になった。その語感から想像される肉感的な感触や、グロテスク、またそこから想像されるエロスについて私は最近「粘膜的」という表現を発見していたからだ。ことの発端はエロ漫画の「断面図」という表現だった。これはそのまま解釈すると、被挿入者(そんな言葉があるのだろうか)の陰部が糸鋸か何かでズバッと切断されているという非常にグロテスクな絵面となっているのだが、実際我々はそのような理解の仕方はしていない。これは実際に、物理的に陰部の切断が起こっているのではなく、陰部の性的刺激を直感的に表現しているからだ。私は長い間この「断面図」という表現についてグロテスクであると否定的だったが、このコンテクストを理解した時からこれをエロスとして受け入れられるようになった。この経験から、エログロというか、自分の中にあった下品というか汚いもの(猟奇的だったり不衛生だったりする)を記号的にとらえ、乗り越えることで得られる性的興奮を「粘膜」に対するエロスと名づけることにした。(この「断面図」表現のルーツについて調べたところ、エロを大っぴらに描けなかったため、医学的な書物として売るために断面図をイヤイヤ描いていたという説もあることがわかった。これをエロいと思うようになったのは慣れなのだろうか?)さて、劉生、楠音の絵画、あるいは寒山にはこの「粘膜的」な面白さがあると思う。ヌラヌラしたとでも言おうか。(勿論この表現は鉄棒ぬらぬらからとっている)これを引き起こすのは、執着から引き起こされる歪みではないだろうか。劉生の場合は寒山という奇怪なキャラクターのイメージを追求した結果、描かれた麗子の歪みだといえる。脳内で「奇怪さ」を追い続けた結果の歪みだろう。一方、楠音の場合は、描き込みの執念による歪みがあると感じる。楠音自身、どうやら何かしら女性に対してコンプレックスを抱いていたところがあるらしい。彼は生涯独身だったそうだし、女形をしていたという記録が残っている。若い頃女性に裏切りを受けただとか、同性愛者だったなどという話もある。そんな彼が描いた女性は異常性を感じる程に描き込まれ、女性の美しくないところ(皺や頬の表情)まで残酷に描き取っている。ジャコメッティの素描にも通じるところがあるのではないだろうか。彼の素描も線を重ねて書き込まれ形が細長く歪んでいる。ジャコメッティの場合はその執念の作り込みが哀愁を感じさせるあの細長い歪みに繋がっていると言えるだろう。また、楠音のことを調べるうちに、以前福岡のデパートのアートフェアに出品していた大山貴弘というアーティストのことが頭に浮かんできた。彼の彫刻を一目見た時、誇張された胸や尻、なぜか膨らんでいる喉元や股間、そして不自然に派手な衣装はミソジニーを感じさせ、自分の中で強く印象に残った。しかし、後から話を聞くと、むしろ表現されていたのははその逆だということがわかった。自身も性的マイノリティであることから、ドラァグクイーンをモデルに彫刻を製作しているということを知り、あのグロテスクの出所がわかった気がした。藤田嗣治の描く少女にも歪みを感じる。広すぎる額、釣り上がった目は、人間から若干離れたクリチャー感すら感じさせる歪み方だ。しかし、彼は特にペドフィリアであったりロリコンであったりしたわけではないらしい。会田誠も「グッとこない」と言っていた。個人的にこの歪みは猫から来ているのではないのだろうかと推測している。広い額、丸い顔、釣り上がった目はどれも猫の顔の特徴と一致する。藤田嗣治の晩年は少女に自身を投影して作品を制作していたと言われる。サインの代わりに猫を描いていると自身で述べるほど嗣治は猫と自分を重ねていたところがあり、人間である自分の肉体と猫に重ねた人格とを無理やりくっつけてビジュアル化した結果この歪んだ少女の画像が生まれたのではないかと思う。

○日本のキャラクターに潜む不気味さ
ところで、藤田嗣治の少女の絵を初めて見た時、私はキューピーちゃんを連想した。キューピーちゃんがテレビに映るたびなんだか不気味だなと幼少期から関心を寄せていたことを覚えている。これも嗣治の少女と同様の歪みである。極端に誇張された赤子のイメージ。この成り立ちもコマーシャルで商品を宣伝するためにより強い印象を植え付けるために歪められたのではないかとか想像してしまう。ペコちゃんにも同じことが言えるかもしれない。ペコちゃんもガリガリくんも「食べる」というイメージを添加された結果口が記号的に拡張されている。これも歪みだろう。浦安鉄筋家族にはペコちゃんをパロディしたキャラクターが登場するが、何でもかんでも食べてしまう、あまり言葉を発しない、いつも笑みを浮かべているという特徴を持った気味の悪い怪物のように描かれていた。日本特有のキャラクター文化(海外でも刑務所にすらキャラクターのいる国として有名である)の中には、アイコン、偶像化するための不自然な歪みとそれを中和するための可愛らしい、無邪気で無垢な子供や動物といった下地をくっつけた不気味なクリーチャー達が存在する。それらのあげる呻き声(現代日本に暮らす人々の生活音かもしれない)に耳を澄ませると、実に「粘膜的」な感覚に包まれる。
○芸術に立ちかえると
ここまでで日本的な「良い」感覚の中に「執念による描き込みや記号化」「グロテスクを表面から覆い隠す子供っぽいイメージ」の二点が含まれていると考えた。これを体現している画家として、加藤泉が挙げられると私は考える。

加藤泉について考えてみる。加藤泉は個人的にわかりやすい天才だと思う。彼が言うには、別に何かを表現しようとして作品を作っているのではなく、「自分が面白いと思うもの」をとにかく追って作っているらしい。しかし、彼の絵や彫刻からは、言葉にし難いが、なにか退廃的で、ノスタルジーを感じさせるような感覚というか、まさに幼子のもつ無垢とそれをいじくりまわした不気味さを感じさせるものがある。実際に彼は制作のルーツに幼少期田舎の自然に囲まれて育った体験があることを認めているので、それを無意識に練り込んでいるのだと思う。これを考えることなしにできるのが凄い。妬ましい。そこまで自分のことにたいしてdig出来ているということなのだろうか。とにかく、自分の書きたい線を追い見たい図形を並べるという作業で作品が作れているという点で天才だと思う。話を戻すと、加藤泉の作品には藤田嗣治やキューピーちゃん、あるいはドラえもんなんかと似た子供を想起させる図形が描かれている。それが宇宙人のような様相を呈していたり、先に挙げた歌舞伎的な色使いが用いられることで、日本的な不気味さを発していると考えられる。つまり、加藤泉は岸田劉生のやろうとしていた「デロリ」「寒山」をやっているのではないかということだ。寒山の怪奇は子供の無邪気に重なる部分がある。
奈良美智が子供を描くのも同じ理由だろうか。
○まとめ
人を惹きつけるキャラクターにはどことなくグロテスクな歪みがあったりする

○寒山について(おまけ)

横尾忠則も最近寒山拾得の絵を描いている。インタビューで「不思議な人たちだなあ、と思ったんです。なぜたくさんの絵師がその不思議な人物を描いているのか、その謎を解くには自分も描いてみればわかるのかな、と思った」「寒山拾得を描くには自分もそのようなアホ"にならないと描けないということがわかった」 「究極の悟りを得た人はいかにも悟ったようなかっこうはしていない。バカかアホのように見えるんです。 だからその超俗の僧を描いた絵も投げやりな表現になる」「未完こそが創造だ」 「今までの経験絵は完成させようとい う目的があって描いていた。だけ ど最近では完成させることを考え ていない。 僕は飽きっぽくて描い ている途中で飽きるから、電車で いえば途中下車なんです」と言っていた。要するに悟りと幼児性について語っている。横山大観の「無我」もそうかもしれない。あの絵も禅的な悟りについて描いている。(寒山は禅僧だといわれている)禅繋がりで「円相」もある。あのまんまるのイメージは幼児、猫、ドラえもんなんかと呼応するかもしれない(これは妄想)。
寒山拾得について芥川龍之介、森鴎外が書いた小説を読んだ。いずれも俗世、権力と悟りの対比について描かれていたが、どちらも寒山拾得について主に書いているわけではなかった。溜めて溜めて出すというか、寒山拾得の登場を導くために俗世の様子をつらつらと書いておいた上で、寒山拾得はその姿だけをスパッと書いて終わるという様子だった。具体的にいうと、どちらの小説も寒山拾得が登場するのは後半も後半だし、森鴎外のほうは登場したとたんすぐに笑いながら走って逃げるし、夏目漱石にいたっては電車の窓からその姿を目にするだけである。その一瞬のスパッという登場だけで主役まで務めるのだからこのキャラクターの強さは相当なものだ。そのポロっと見えるだけで悟るところもまた禅的かもしれない。

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