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短編_パラソルの下で 1/2

【あらすじ】
 真司と春世の夫婦は海辺でバーベキューを始めた。準備は万端、ビールもよく冷えている。するといつものように、二人を慕う友人たちが集まってきた。海辺のパラソルの下で、賑やかな昼の食事が始まる。
(文字数:約2800字。文庫本で6ページ程度、10分ほどで読み終わります)

 海に繋がる最後の歩道を、真司は少し後ろからついてくる妻の春世とともに渡った。海沿いの国道は相変わらずの混雑で、二人は渋滞にはまって動かない車を尻目に、悠々と歩道を越えて砂浜に向かった。手にはアウトドア用のキャリーカートを曳き、その上にはグリルや炭やクーラーボックスが載っていた。
 砂浜に着くと、真司は脇に挟んでいた大きなパラソルを開いた。パラソルの場所が定まると、春世も折りたたみ式の小さな机を開いて、その上にクーラーボックスから取り出した食材を載せた。二人はテキパキと準備を行い、あっという間に心地良い小さな店ができあがった。

「何から始める?」
「そうね、まずはソーセージから焼きましょう。じっくり弱火でね」
「オッケー」
 時刻は十二時を少し過ぎた頃だった。
「結局、ビールは何本買ってきたんだっけ?」
「六本。みんなの分も残しておいてよ。きっと誰かしら遊びに来るんだから」
 シャツの袖をまくってソーセージを並べている真司に、春世はビールを手渡した。
「素晴らしく冷えてる。最高だね」
「椅子はこちらですよ、旦那様」
「少々お待ちを」
 火力の調節を終えて振り向くと、春世は椅子に座って乾杯を待っていた。手にはお気に入りの、ピンク色の柄の入ったタンブラーを持っていた。そこにはオレンジジュースがなみなみと注がれ、大きな氷が一つ浮いていた。
「では乾杯」
 二人は一息ついて椅子に深く腰を下ろし、海を眺めた。人々はサーフィンを楽しんだり浜辺を散歩したりと、みな思い思いの時間を過ごしていた。子どものはしゃぎ声や、遠くから獲物を探す鳶の鳴き声に聞き入っているうちに、早くも焼け始めたソーセージがじりじりと音を立てていた。

「真司―! 春世ちゃーん!」
 最初にやって来たのは莉子だった。だが莉子より先に、ゴールデンレトリーバーのニコラスが飛ぶように駆けてきた。ニコラスはパラソルの周りを駆け回ると、後ろ足で立ち上がって真司の胸に飛び込んだ。
「やあニッキー、元気だった? おお、わかったわかった。そんなに顔を舐めないでくれよ」
 隣ではようやく追いついた莉子が元気の良いニコラスを宥めながら、春世と親しげに話していた。

 莉子は真司の高校時代の友人で、ウェブ関係のデザイナーをしていた。二年ほど前、嵐のような恋と結婚生活のあと離婚し、ここから程近い海辺のマンションを購入して、ニコラスと暮らし始めた。莉子が結婚式に呼んだ高校時代の友人は真司一人だけだった。それほど二人の関係は特別で、莉子がこの海辺に引っ越してきたのも、真司の存在が一つの理由でもあった。
 春世に対しても、莉子は特別な親愛を覚えた。始めのうちこそ、それは友人の妻という関係性に起因したものだった。だが今となっては真司と同じくらい気の置けない友人の一人になっていた。春世の愛らしさと、ふとした時に見せる意志の強さが莉子には好ましかった。とりわけ彼女の意志の強さにはどこか自分と似たものを感じていた。
 春世の方でも、この年上の女性を一人の自立した人間として尊敬していた。真司から莉子の人柄とこれまでの人生を聞き知っていた春世にとって、生きる力に溢れた莉子の存在は眩しかった。海風を心地良さそうに受けている莉子の短い金髪はその象徴のように映った。

「ニッキーがね、ベランダに出ろって言うから覗いてみると、二人のパラソルが見えたのよ。だからまたお邪魔しちゃった」
「偉いじゃないかニッキー。僕らを見つけてくれるなんて」
「いつでも遊びに来てください。私は莉子さんとお話しするのをいつも楽しみにしているんです」
「ありがとう、春世ちゃん」
「今焼き始めたところだから、もう少しかかるよ。でもニッキーの分は……」
「大丈夫。ニッキーの分は持ってきてあるから。みんなと一緒に食べたいもんね、ニッキー」
 ニコラスは嬉しそうに莉子に顔を近づけた。

 ソーセージの様子を見にグリルの前に戻ると、今度は反対方向から一人の男が近づいてくるのに真司は気づいた。
「鳩山さんじゃないですか! おーい!」
 鳩山は恥ずかしそうに片手を上げて応えた。海辺ではあまり見かけない、綺麗なシャツとパンツ姿で、慣れない砂に足を取られながら、真司たちの方へ歩いてきた。
「よく来てくれましたね。覚えてくれていて嬉しいです」
「もちろんですよ、約束したじゃないですか。今日は良い天気だったので、もしかしたらと思ったんです。パラソルのお陰ですぐに気づきましたよ」
 ニコラスは歓迎の意を示すように一つ吠えた。鳩山はおずおずと手を近づけて、ニコラスの頭を撫でた。グリルを囲んだ三人に笑顔が広がった。
 
 鳩山はいくつかの大学で哲学を教えている大学講師だった。真司とは近くの銭湯の常連仲間で、真司が一汗流したあとに休憩室へ涼みに行くと、ほとんど毎回、鳩山はでこぼこした古い畳の上で分厚い本を読んでいた。風呂上がりの時だけは、シャツのボタンを一つ開けるのが彼の習慣だった。そして二人で話をし始めると、なぜだかお腹が空いてきてしまうのも毎度のことだった。議論の結果、休憩室で会った際には、必ず女将の作るカレーを食べるというルールを作った。以来真司は湯船で鳩山を見かけただけで、カレーのことを考えてしまうようになった。

「お仕事はどうですか?」
「ぼちぼちですね。吉野湯の女将さんに急かされるんで、早く次の論文を仕上げないといけないんですけど、今日は休憩です」
 女将は鳩山のことを先生と呼んで尊敬していて、鳩山から譲り受けた本を休憩室の本棚に並べていた。そして会う度に、先生の本はいつ出るんですかと聞いた。
「うちの父が鳩山さんのことを褒めてましたよ。期待の若手だって」
「え? 西野先生がですか?」
 春世の父は隣町の美術館の館長を務めている高名な批評家だった。
「そうだ、電話してみましょうか。どうせ暇してるんだから」
「いやいや、西野先生のお仕事を邪魔しちゃいけませんよ」
「いいのいいの。こんなに良い天気なんだから、外の空気を吸わなくちゃ」
「さあ、焼けましたよ! 春世、パンを出してくれる? こいつに挟んで食べるのが絶品なんですよ」
「ちょっと待って。今パパに電話してる……あ、もしもし? パパ?」

 真司は仕方なく自分でパンを取り出し、手際よくバターを塗ってレタスを敷き詰め、最後にソーセージを載せた。
「お好みでケチャップや塩こしょうをかけてください。カレー粉なんてのもありますよ」
 受け取った鳩山はまずは何もつけずに食べてみることにした。焼きたてのソーセージは両脇から飛び出し、パンの底は既に熱が伝わって熱くなっていた。思い切って頬張ると、飛び出した肉汁が鼻に当たって、鳩山は反射的に声を上げた。真司と莉子は堪えきれずに笑い出した。だが鳩山には彼らに一言返してやる余裕さえなかった。なんとか熱さを我慢してソーセージを噛み切り、一口目を終えると、口の中にはソーセージの旨味とバターの風味が広がり、噛むたびにそれぞれ異なるレタスとパンの食感が加わった。たしかに真司が言った通りの絶品に違いなかった。真司は鳩山の顔つきを満足そうに見て、今度は冷えたビールを手渡した。鳩山はすかさずプルトップを開き、ビールを飲んだ。

(続く)

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