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数字は成熟を見せてくれない

数字信仰から降りること、それはある意味、社会での敗北を意味すると考える場合がある。成績を上げることを諦めた、というようなニュアンスで。

私自身は、もう数字ばかり追いかけなくていいやと、ある時心底思った気がした。ちょっとした、自分なりの満足感を得たから「これ以上はいいかな」って思った感じ。って、言い聞かせているのかも。今でも数字を追う感覚は完全には消えていない。長年そういう生き方をしてきたのだし。

以前高校生が、ある雑誌の記事(経済学者が「資本主義の限界」を訴えたり、社会的に成功した人が「資本主義は人の時間を奪い続ける仕組み」と語ったりする内容)を読んで「この人たちだって、社会的に、あるいは経済的に成功した人たちなわけであって、だからこそ本質に気づいて記事にできる能力やチャンスもあるのだろうと思う一方で、資本主義のネガティブな面を指摘しつつも、その人たちは資本主義の仕組みの中で成功して、そして生活にも困ってないわけで、なんとも皮肉なものだ」と言っていた。所詮 庶民は、その仕組みに踊らされるんでしょう、ということでしょうって。

数字を追うのを完全にやめる、なんて結局綺麗事だよなと思ったり、肝心なのは自分でゴールを決められるかどうか、だなと考えたり。

 ふと、経済成長という言葉はよく聞くけど、経済成熟とは言わないような気がするなと、ある時思った。人間として成長する。人間として成熟する。でも、最近、これからの経済は高原景気、とか経済成長が終わった今、高原社会に入ったというのは聞くけど。

これからは成熟を目指すと面白いんだろうな。とはいえ、成熟を数値化するのは難しい。そもそも数値化できる成熟って、なんだよって思う。

経済成長は数値化できるけど、ゴールがない。今年伸びたら、来年はもっと、って求められる。受験で偏差値を上げて大学に合格したら、いったんゴールに到達した気分になるけど、仕事で成績上げても、さらにいろいろ求められて、息つく暇をもてなくなってしまう。で、数字にこだわる人が、成熟を忘れているように見受けられるケースにはよく遭遇する。

数字を追っている時、人の視野は狭くなっている。自分の成績、会社の成績。他人よりどれだけ秀でているか。他人を無視している時点で、成熟というところから遠いところにいる。人と人のつながりやそこから生まれるものが可視化されて、人の心やコミュニティが安定したりすれば、それは、ひょっとしたら「成熟」だったり、「豊かさ」だったりするのかもしれない。

成長を、数字での成果を追い求めている時、それを阻む要素は、最も簡単に切り捨てられる。あるいは、その要素に何らかの負担がかかる。この人がいると、試験の合格率が下がる、みたいな。

成熟、とは そういう「ちょっと足手纏い」?なものといかに向き合えるか、ということでもあるんだよな。

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