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東京オリンピックの遺産(レガシー)

1964年の遺産(レガシー)

 昭和39(1964)年に開催された東京オリンピックでは、競技の一部が横浜市内でも開催された。
 横浜市西区にある野毛山公園の中には、オリンピックから2年後の昭和41(1966)年にその記念碑が設置されている。
 横浜で育った私にとって、「オリンピックの遺産(レガシー)」という言葉を聞いたときにまず思い浮かぶのは、この記念碑のことである。

 記念碑には、彫刻家の堀野秀雄による3種類のレリーフがはめ込まれている。
 その1つ目はバレーボールである。JR関内駅の近くにある横浜文化体育館では、男子15試合、女子7試合の合計22試合が行われた。その中には、金メダルを獲得し、「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子チームが出場した2試合も含まれている。

 2つ目のレリーフはサッカーである。当時は男子のみの種目だったサッカーで、横浜の三ツ沢蹴球場(現在のニッパツ三ツ沢球技場)も会場の一つになっていた。
 ここでは日本代表の試合は行われなかったものの、優勝したハンガリー代表の試合を含めて全6試合が開催されている。
 ちなみに、写真の右後方に見える建物は横浜ランドマークタワーである。

 3つ目はバスケットボール。ただし、横浜文化体育館で行われたのはオリンピックの本戦ではなく、大会直前の世界最終予選である。バスケットボールも、当時は男子のみの種目だった。
 9月25日から10月4日まで、参加10か国の総当たりによる全45試合が行われ、その上位4か国に本戦への出場権が与えられた。
 そして、10月4日の夜8時半に最終試合が終了したのと同時に、オリンピック本番のバレーボール会場へと衣替えをするため、ラインの塗装作業などの突貫工事が始まったという。

 当時の横浜市長、飛鳥田一雄による銘文である。飛鳥田市長はその後に衆議院議員へ転身し、1970年代後半から80年代にかけて、当時の野党第一党だった日本社会党の委員長を務めた。

※1964年の大会に関しては、下記のサイトを参考にした。

2021年の遺産(レガシー)

 令和3(2021)年に開かれた2度目の東京オリンピックでも、市内の横浜国際総合競技場(日産スタジアム)でサッカー、横浜スタジアムで野球とソフトボールが行われている。
 私は運よくサッカーの試合のチケットに当選をしていたが、結局のところコロナ禍のために試合は無観客で行われることになり、その熱狂を肌で感じることはできなかった。
 また、少なからぬ反対を押し切って大会の開催が強行されたり、関係者の不祥事が次々に露見したりしたことにより、私自身のオリンピックに対する気持ちが冷めてしまったことは否めない。

「オリンピックの遺産(レガシー)」という言葉を聞いたとき、今でもこの50年以上も前に作られた石碑のことが頭に浮かんでしまうのは、残念でもあるが事実でもあるのだ。

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