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龍の男

 春だ。
 桃、白木蓮、木瓜、花海棠、躑躅、牡丹。
 木々が芽吹き、花が咲く。宮中が一年で最も色に溢れかえる季節だ。
 朱色の太鼓橋を渡っていた龍准(りゅじゅん)は橋の真ん中で足を止めた。欄干に手を置き、眼下に広がる雲海を眺める。太陽の光が雲に反射し、その眩しさに思わず濃紺の瞳を細めた。宮廷は太陽にも近いため、ずっと見つめていると照り返しに目を痛めるので注意が必要だ。
 視線を反らそうとした時、視界の端でたゆたっていた雲が大きく蠢いた。何事かと注視していると、巨大な白い塊が雲を割って姿を現した。
 鯨だ。雲海に住む白鯨。勢いよく潮を吹き、降り注ぐ飛沫に虹がかかる。この天界でしか見られない美しい光景である。
 龍准の口許に自然と笑みが浮かんでいた。

 ──朝から白鯨をお目にかかれるとは僥倖だ。

 白鯨が身を捩らせて再び雲海に潜るのを見届けると、今後こそ視線を外して歩き始める。
 天界に座すここ暁廷は、鳳凰が羽を広げたように左右に大きく広がった造りになっている。北に帝が住まう内廷があり、その左右に宮が点在する。いま龍准が向かっているのは、西宮である。
 宮に入り、渡り廊下を歩く。彼の姿を見て揖礼する官吏たちに目もくれず、目的地を目指す。やがて彼は建物の最奥部にある赤い扉の前で止まった。扉の上部は格子になっており黒檀に白虎が彫られている。
「龍准、参りました」
 部屋に入り、跪礼をして参上を告げると、すぐに快活な声がかかった。
「おう、よく来たな。顔をあげていいぞ」
 その言葉に顔を上げると、窓際の几に直属の上司である左羽林軍将軍・雷槌(らいてい)が足を組んで腰掛けていた。
 見た目の年齢は四十後半。艶のある黒髪を後ろに撫で付けた、いかつい容姿の男だ。
 特に目を引くのは右唇からまっすぐとこめかみにかけて刻まれた傷跡だ。獣の爪によるものなのか、癒えきらぬ傷が彼の雰囲気に一層の凄みを加えている。
 その眼は鋭く、数々の戦を乗り越えて来た歴戦の武将そのものである。それもそのはず、彼は仙籍に入って四百年を超える大仙人なのだ。
 迎え撃った敵は数知れず、対する自分は仙になって五十年弱という若輩者だ。
「朝稽古はどうだった?」
「いつも通りやりましたよ。新人は相変わらずぶっ倒れてますけど。配属されて一ヶ月じゃ、うちの稽古量にはまだついてけませんね」
「そうか。来月までには鍛え上げろよ。右羽林との武道大会、今年は俺たちが勝つ。去年の屈辱を晴らしてやる!」
 雷槌がどんっと拳で几を叩き、置いてあった湯のみが跳ね上がった。続いてギロリと龍准を睨みつける。新人だったらその眼光に縮こまってしまうだろう。
「お前も。今度逃げたら承知しねえからな、龍准!」
 龍准はまた始まったと内心ため息をついた。犬猿の仲な左右羽林軍の将軍二人はお互い何かと張り合っている。
 龍准は面倒ごとに巻き込まれぬよう基本的に我関せずの姿勢を貫いているが右羽林軍の副官は副官同士も張り合わなければならないと勘違いしてるのか妙に突っかかってくるので面倒なことこの上ない。
「それで? 俺は何で呼ばれたんですかね」
「ああ。下界の隠密から上申があってな。剛赤峰の街で謀反の恐れあり、とのことだ。調査に人を派遣してほしいという要請なのでお前、ちょっくら行って見て来てくれ」
 龍准はその指示に眉根を寄せた。龍准の所属する左羽林軍は禁軍──帝直属の軍である。剛赤峰は地方のひとつだがそれを自治する州府もあれば、州府軍も存在する。わざわざ宮廷から将が出張っていく話ではない。
「謀反ですか? この泰平のご時世に?」
 雷槌は湯呑みを持つとずずっと茶を飲んだ。
「あの辺りはまだ妖魔も多く、生活に苦労している者も多い。数ヶ月前にもまた〈馬〉が暴れたせいで、妖魔があふれたからな。そのせいで不満が溜まっているのかもしれん」
「……州府軍もいるのでは? 彼らの領分を荒らすことになります」
「だから、部隊じゃなくてお前一人に行かせるんだろうが。いいか? 謀反なんぞ起こしたら処罰の対象となるだけで、自分たちに利がないことは民もわかっているはずだ。だが、それをわかっていながら蜂起せざるを得ない『何か』があるんだ。地上の官吏とも協力してうまくことを収めてきてくれ」
 何だかうまいこと煙に巻かれてしまった気がするが、この上司が一度決めたことを曲げないことはよくわかっている。
「それにしても、新人鍛えとけって言った数秒後によくもまあ下界に行けなんて言えますね。俺の腕は二本しかないんですよ」
「そうこぼすな。それだけお前の腕を買ってるってことだ。誇っていいぞ」
 そう言って雷槌が笑う。絶妙な間合いで褒められて、龍准はそれ以上返す言葉を失った。
 やはりこの人にはとてもかなわない。実力も部下の手なづけ方も天下一品だ。
「御意」
 龍准は力強く揖礼した。
「おう。頼んだぞ。武道大会までには戻れよ」


 ここ暁廷から下界に降りるのは東西南北に設置された四つの大門により可能になる。それらは、それぞれ春華門、夏草門、秋旭門、冬鷺門と呼ばれている。
 各門からは地上の外朝や各関所・機関等を結ぶ天道と呼ばれる特殊な空の道が整備されており、専用の天馬だけが通行することができる。
 龍准が通行手形を門番に見せると、厩から連れて来た白い天馬を与えられた。龍准は鞍の位置を確認し天馬に跨ると、門の梁に掲げられた扁額を見上げた。流麗な金文字で春華門と書かれている。
「準備はよろしいですか?」
「いつでもいいよ」
 そう返答すると若い門番は生真面目そうに頷いた。
「天道、開門!」
 門扉がゆっくりと開いていく。扉の先に現れたのは景色ではなく、不透明な銀色の膜である。誰も触れていないのに、水銀のように不規則な動きで波紋が生まれては消えている。
「さあ、行こうか」
 天馬を鼓舞するように声をかけると、龍准は銀の門をくぐっていった。

               *

 北の白燕山には双頭の獅子あり、南の剛赤峰には鷲羽の馬あり、西の黒海には鯨蛇あり。そして、東の平原には、かつて青兎あり。
 国は大別して四つの地方、十二の州に分かれる。
 帝は汚れた四方の中心に都を造り、都を以て災厄の楔とする。帝の庇護のもと都は活気に満ち、人々は敬愛と畏怖の念を込め、こう呼ぶ──王都・翠陽。天界が帝のおわす暁廷と官吏の居住区で構成されているのに対して、翠陽は外朝──政治の要所であり天界から派遣された多くの官吏が働いている。そして各地方にも州ごとに州府が置かれ、朝廷より官吏が送られる。


 銀色の鱗粉が後方に流れていく。
 天道は、時間も距離も飛び超える異空間だ。天馬で駆ければ、数刻で下界に着く。初めて天道を使った時、遥か高みにあると思っていた天上界にあまりにもあっさりと辿り着けるので拍子抜けしたものだ。
 鱗粉の幕越しに様々な光景が流れては消えていく。天道の外に映るのは己の過去と未来だという。誰かが前世や来世すらも映し出すのだと言っていたが真偽の程はわからない。確かなのは、今この瞬間在るのはここを走る自分だけだということだ。うっかり流れる景色に魅かれて幕の向こうに踏み外せば、二度と戻ってこられなくなる。
 龍准は道の終着点に波打つ銀の泉を見つけた。各州府には大人が両手を広げたほどの直径の銀盆が置かれており、これが天道との通行扉となっていた。泉からは白い光の筋が伸び上がっている。
「もう直ぐだ。いくぞ!」
 天馬の腹を蹴り、速度を上げる。
 天馬は高く嘶きながら泉に飛び込んだ。銀盆を突き抜けた途端、ひやりとした外気を感じる。天馬は天道を抜けた勢いのまま蹄を鳴らして、空を駆け上がった。
 春にしては冷たい風が龍准の頬をなでていく。空は厚い灰色の雲で覆われており、春なのに肌寒いと感じたのはこの曇り空のせいだろう。空高く昇って行こうとする天馬の手綱を引き、龍准は上空に停止させた。
「ここが……」
 眼下に広がる光景につぶやく。
 ──剛赤峰、壬午州府。
 龍准がいるのは石造りの堅牢な城砦の上空である。上から見渡すと、城砦の屋根がこの地区の名を体現するような赤い瓦で覆われているのが一望できた。下を見ると石畳の広場の中央部に銀盆が設置されている。あそこから出てきたのだ。
 まずは州府で情報を集めよう。今の龍准には「民が謀反を企てている」という曖昧な情報しかない。
 龍准は天馬を広場に降り立たせた。
 雷槌が話を通しておくと言っていたものの、何と言って中に入ろうか。朝廷からの介入を嫌がる州府も多い。良好な関係で事を進められるようにうまく話を運ばねば──、そんなことを考えながら城内に続く門をくぐった龍准はハッと足を止めた。
 文官たちが扉の前で整然と跪礼をし、龍准を待っていたのだ。
「銀盆の震えを感知し、参上致しました。禁軍の方にお越しいただけるとはありがたき幸せ。州府一同、滞在を歓迎致します」
 先頭にいた壮年の男が頭を垂れたまま述べた。
 龍准は面映ゆくなり、一つ咳をすると、「顔をあげてくれ」と声をかけた。
 口上を述べた男の顔を見ると立派な髭をたくわえた男である。
「歓迎感謝する。左羽林軍所属の龍准だ。お前が太守か?」
「はい。袁曹(えんそう)と申します」
 それが袁曹との出会いだった。


 すぐに太守室へと案内された龍准は円卓で袁曹と向かい合っていた。
 質のいい調度品が揃えられた部屋である。部屋の四隅には銀香炉が置かれており、嗅いだことのない華やかな香が室内に焚き込められていた。
「長旅でお疲れでございましょう」
「いや、お気遣いなさらず」
 実際、旅というほど大した距離を走っていない。
 そんな他愛のない挨拶を交わしていると下女が盆に茶卓と菓子を乗せてやってきた。
 茶卓を差し出す手が緊張からか震えている。危なげな手つきだと思いながら見守っていると、案の定茶器が傾いて中の茶が少し溢れた。
「も、申し訳ありません!」
 若い下女は真っ青になりながら、懐から出した手巾で円卓を拭いていく。
「もうよい、下がれ。──お主、明日から来なくてよいぞ」
 袁曹から静かな、だが、断罪するような叱責が飛んだ。女はいよいよ蒼白になりその場に平伏した。
「も、申し訳ありませんっ。どうか、お許しを」
 謝り続ける女に目も向けず、
「客人の前だ。連れて行け」
 扉の横に立つ武官に告げると、武官はすすり泣く下女を無理やり立たせ部屋の外に連れていく。龍准はその光景を唖然としながら見送った。
「大変見苦しいものをお見せしました」
 袁曹は一転して笑顔になり、口を開く。
「少し、やりすぎじゃないのか。茶をこぼすことくらい誰だってあるだろう」
「私は常に完璧を求めます。陛下から授かったこの職を完璧に全うするためには部下も完璧であらねばなりません」
「……そうか」
 お前には関係のないことだと暗に釘を刺され、龍准は口をつぐんだ。
 州の自治は各州府に一任されている。明らかな不正が行われているわけでもないのであれば、監察官でもない自分が口を挟むべきではない事柄だ。
「禁軍の方がわざわざいらした理由をお聞きしても?」
 どうやら雷槌は訪問の理由までは知らせていなかったらしい。
「民が謀反を企てているという噂を聞いた。実際に何かそのような動きがあるのだろうか?」
「ああ、そのことでございますか。まさか朝廷のお耳にも入っているとはお恥ずかしい限りです。……龍准殿は、空を覆うあの雲をご覧になりましたか?」
「雲? ああ、今にも雨が降りそうな様子だったな」
 袁曹は悩ましげな表情で卓の上に置いた手を組み直した。
「ええ。ですが、あの雲からは雨が降らないのです。もともとこの地域は降雨量が少ないのですが、ここ四ヶ月の間、あの雲が垂れ込めたまま一滴も雨が降っておりません。もちろん雨がなければ作物は育たない。従来より納める貢租の量を減らす通知を出してはいるものの、民は雨が降らないことを我々の責任だと激しく抵抗し、貢租を一時撤廃するよう求めているのです」
「なるほどな。やはり撤廃は難しいのか?」
 龍准が尋ねると袁曹は頷いた。
「ええ。経済が立ちゆかなくなりますゆえ」
 そう言われれば龍准は何も言えない。
「ところで、龍准殿は仙籍に入られて、どれくらいになりますかな?」
 いきなり話題を変えられた。龍准は訝しく思いながらも言葉を返す。
「五十年と少しといったところだ」
「そうですか。ではまだ人の輪廻を実感してはおられぬのですね」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です。人の一生は長い者でも六十年ほど。私は何代も彼らの営みを見ておりますが人というのはちっとも成長しない。貢租を撤廃などしたら厚顔無恥な民たちはつけあがるだけですよ。だからこそ、彼らは我々仙がきちんと導いてやらねばならぬのです」
 龍准はスッと目を細めた。
 仙人至上主義。
 こういう考えを持つ仙も少なからずいる。だが、仙も元は人の子である。己が人であったことをようよう忘れて、慢心する者も多い。
「この悪天候が、天意であるならば私たちは耐え忍ぶしかないのです」
 袁曹はそう言って話を終えた。
 その日の夜は、龍准の歓迎の宴が催された。宴といっても世情を慮ってか、酒は供されるものの料理は質素なものである。袁曹は禁軍の方のお口合わないかもしれませんがと恐縮しきりだったが、行軍すればもっとひどい食事も当たり前なので別に気にならない。
 その後、一通り城内を見て回ったが、腐敗した官吏にありがちな奢侈にふけっているわけでもなく、どの官吏も至って分相応な印象を受けた。だが誰も彼もが暗く浮かない顔をしているのが気になった。まるで陰鬱とした澱のようなものが城内に沈殿しているかのようだ。
 用意された部屋に戻った龍准は、卓の上の香炉から太守室で嗅いだものと同じ香が燻っているのに気づいた。少し頭を重たく感じ、空気を入れ替えるために窓に近づくと大きく開け放った。
 空が雲に覆われているためかいつも以上に外が暗く感じる。
 太陽も星も月もない生活を半年近く。民たちはいったいどれほどの苦しみだろうか。
「さて、どうするか……」
 これからの動きについて思案する。滞在の許可はもらっているが、果たして州府を拠点に動くことに意味はあるのだろうか。何人かの官吏にも話を聞いたが、彼らは現状を打破する手立てを何も持ち合わせていないようだった。
 龍准は、この状況が袁曹の言う天意であるとは到底思えなかった。天意とは、もっと絶対的なものである。太陽が東から昇り西に沈むような自然の摂理であり、今回のような不可逆な作用はしない。
 龍准の勘では、これは人為的に起こしたものに近い。問題は、誰が何のためにやっているかだ。
「……」
 龍准は息を吐いた。
 これ以上は考えても無駄だ。動かねば、何も見えてこない。
 そう結論づけた時──、突然下から突き上げるような揺れが起こった。思わず体勢を崩すほどの揺れである。これは、かなり大きい。飾ってあった壺や絵が音を立てて床に落ちる。入口の扉に駆け寄り、開け放って退路を確保した。
 しばらくして揺れが収まると、龍准は知らずのうちに詰めていた息を吐いた。
 きっと外は大騒ぎだろう。そう思い廊下に顔を出した龍准だったが、誰も部屋から出ている様子はない。城内は気味の悪いくらいに静まり返っていた。
(いくらなんでも静かすぎやしないか?)
「何をしている!」
 被害がないか城の中を確かめにいこうと廊下に出た龍准は大声で呼び止められた。振り向くと反対側から武官が一人歩いてくる。近づいてきた武官は龍准の顔を見ると、警戒を解いた。
「ああ、これは失礼を。龍准様でしたか」
「先ほどの揺れに少し驚いてな。地鳴りか?」
 少し、間が空いた。
「……ええ。また、馬が暴れたのですよ。さあ、後のことはわたくしどもに任せ、早く部屋にお戻りください」
 いかにも取り繕ったような物言いだった。
 ぱたん、と背後で扉が閉じる音を聞きながら龍准の眉根はじわじわと寄っていった。
 男の脇を通り過ぎるときに、官服から香る匂いがあった。この城砦でずっと漂ってる匂いだ。
 いよいよきな臭くなってきた。
 そう判断した龍准はすぐさま行動に移した。
 寝台の掛布を一枚丸めるとその上から掛布を被せる。こんなので騙せるとは思えないが発見を遅らせる微微たる時間稼ぎにはなるだろう。愛剣を腰に佩き、龍准はそっと部屋を抜け出した。気配を殺しながら、まっすぐと厩に向かう。厩から乾草を食んでいた天馬を連れ出した。彼は食事を邪魔され不満げな様子だ。
「そう怒るなよ。また後でたらふく食わせてやる」
 そう小さく声をかけていると、どこからか風の吹き抜ける音が聞こえてきた。さながら春の虎落笛か。獣がすすり泣いてるかのようだ。
 すると、急に天馬が怯えたようにぶるりと身体を震わせて足を踏み始めた。
「どうした」
 首筋を撫でて、宥める。何とか落ち着かせて、龍准はその背に跨った。天馬はその場からすぐにでも逃げたかったのか、素早く助走をつけると空に飛び上がった。
 龍准は闇に紛れて州府の上空を一巡してみた。城壁には幾つもの篝火が焚かれ、武官たちが松明を持って哨戒しているのがみて取れる。明らかに何かを警戒しているような、物々しい警備体制である。
 ふい、と顔を南に向けた。
 ぽつぽつと街の明かりが見える。やはり民に直接話を聞いてみるべきであろう。
 天馬の首を向け、方向転換して空を駆けさせる。


 しばらく走らせているとやたら目が霞むことに気づいた。脳が痺れ、身体が重い。次第に呼吸が浅くなり、目眩までしてくる。
 思い当たるのは一つだけだ。
 あの部屋に焚き込められていた香。こちらを幻惑させる調香がしてあったのだ。
 視界が遠のき、身体が傾ぐ。
 慌てふためく天馬の鳴き声を聞きながら、龍准は闇の中に落下して行った。

     *

 龍准はパチリと目を覚ました。
 長年の習性で瞬時に覚醒した脳が状況確認を行なっていく。どうやら寝台に寝かされているようだ。四肢は正常に動く。頭痛がするのは落ちた時にどこか打ったからか残り香が身体に溜まっているせいだろう。
 顔を傾けて部屋を見ると広いが質素な造りの部屋で、州府の一室ではないの確かだ。役人に見つかって囚われたというわけではないらしい。その証拠に脇几に龍准の剣がきちんと置かれていた。
「目が覚めたようじゃの」
 声が聞こえ、身体を起こす。声の方に視線を向けた龍准は目を剥いた。思わず身動ぎしてしまい、がたんと身体が寝台にぶつかる。
 宮廷でもお目にかかったことのないような麗しい佳人が椅子に腰掛けていた。
 髪は烏羽玉のような綺麗に結われ、赤、緑の玉のついた金の簪をつけている。肌は抜けるように白く透き通っていて長い睫毛が瞳にけぶるようだった。大きな牡丹の美しい刺繍が施された淡い白繻子の衣は彼女のほっそりとした体躯をより華奢に見せている。龍准は会ったことないが純血の仙女であれば彼女のような美しさを持っているのかもしれない。
 女はぽかんと口を開ける龍准の顔を見てころころと笑った。笑い声も鈴の音のように軽やかだ。
「まさか空から人が降ってくるとは思わなんだ。お前を懸命に助けようとした天馬に感謝するのじゃな」
「貴方が俺を助けてくれたのか?」
「そうじゃ。妾がすぐに落ちた場所を特定できたからよかったものの、そうじゃなければ三日はあのままじゃったな。感謝しろよ」
 なんでもないことのように女は言った。
 いったいどうやって、と尋ねようとしたところで部屋に桶を抱えて一人の老人が入ってきた。こちらは柳のようにほっそりとした体躯でいかにも好々爺といった顔をしている。
「丁悠(ていゆう)。こやつ、目が覚めたぞ」
 女が声をかけると老人は、「それはようございました」と目尻に皺を寄せて笑顔を見せた。
 丁悠は椅子を引っ張って来て佳人の隣に落ち着くと、桶に張った水に手巾を浸し、絞ると龍准に差し出した。
「こぶができておりますので、冷やすのにお使いください」
 龍准は礼を言い受け取ると、早速側頭部に当てる。布が触れると疼痛が響いた。
「ここはどこだ?」
「私の家です。州府の者は来ませんからご安心ください。龍准様」
 丁悠の言葉に龍准はハッと息を飲んだ。自分の名前を知っている。
「太守があなたをお呼びしたそうですね。私は、この街の老を務めている慈丁悠と申します」
「俺のことを、知っていたのか」
「州府に野菜を納めに行った男衆が噂を耳にしたようで、私のところに」
「そうか。ちょうどよかった。俺もお前たちの話を聞こうと思っていたところだ」
 居住まいを正し、丁悠に向き直る。
「それで、そなたは? 丁悠の子女というわけでもなさそうだが……」
「妾は莫(ばく)と申す」
「莫?」
 珍しい名である。莫は「いかにも」と鷹揚に頷くばかりで、それ以上の説明はない。
「本名か?」
「真名は秘密じゃ」
「莫様は理由あって我が家に逗留されているのです」
 龍准の追及を遮るように丁悠が告げる。龍准も深く尋ねることはせず、本題を切り出すことにした。
「もう四ヶ月ほど雨が降っていないと聞いた。お前たちが貢租の取り立てに不満を持ち謀反を企てているとも。真か?」
 丁悠が苦い笑みを浮かべる。
「率直にお聞きなさいますな」
「回りくどいことは御免だ。先ほど太守の袁曹殿からも話を聞いたが、俺はこの街に来たばかり。双方から話を聞かなければ真実も見えてこないだろう」
「ふむ。なるほど、道理じゃな。丁悠、こやつは信用してよいかもしれんぞ」
「莫様がそう仰りますれば」
 丁悠が慇懃に頭をさげる。
 どうやら力関係は莫の方が上らしい。
 どこから話をすればいいでしょうか、と前置きして丁悠は口を開いた。

     *

 この街は龍神信仰に厚く、街のあちこちに龍廟もあるほどである。
 空を駆ける龍を想い、日々の慈雨に感謝し、畑を耕しながら生活する。
 古来より、そうやって生きて来た。

 昨年の冬は長い間雨が降らなかった。街の者からは心配する声が上がったが、無論雨が降らなくなることは稀にあることだ。過去には干魃だって経験している。
 それも自然の摂理、と廟に祈りを捧げながら日々を生きてきた。

 だが、此度はいつもと違った様相を見せる。
 灰色の、今にも雨が滴りそうな雲が街の上空一帯を覆っていたある冬の日、それは起きた。
「龍が、落ちてきたのです」
「……はあ?」
 龍准は思わず声を上げてしまった。丁悠は神妙な面持ちで言葉を続ける。
「今日こそ雨が降るに違いないと、その日の私は何度も軒先に出ては空を見上げておりました。夕暮れ時のことです。空を見ていると、今日の龍准様と同じように空から落ちてくる影を見ました。仙人様かと思いましたが、どうも人影にしては大きすぎる」
 そのあと、轟音が響いた。まるで山崩れが起きたかのような大音声であった。
 落ちたのは市中である。街のまとめ役である老を担っていた丁悠はすぐさま何があったかを確かめるため家人を連れて街に急いだ。
 運悪くか、狙ってなのかはわからないが影は街の中央にある龍廟に墜落したようだった。質素ながらも大事にしてきた廟は跡形もなく吹き飛び、ちょうど祈りを捧げていた住民たちが怪我人として運び出されていた。粉塵が朦朦と辺りを満たしており、視界が悪い。丁悠は手巾で口元を覆い、足元の石片に気をつけながら原因を探りに行った。
 廟のあった場所までたどり着くと煙越しに黒い影があり、砂煙の隙間から肌色が見えた。呻くような声が漏れている。
 やはり、人が落ちてきたのか? 
 恐る恐る近づくと、誰かが倒れている。黒い蓬髪が見えた。
 男、である。
 だが──、落ち着いてきた粉塵の下に現れた姿に「ひ、」と息を飲んだ。
 右の肩から下が人間の腕ではなかったのだ。
 鱗に覆われた爬虫類のような関節、巨大な五本の爪。
 妖魔かと思ったが禍々しい気配はしない。ただ純粋な畏れだけが丁悠の身を包む。
 それはまるで丁悠たちが信仰の対象としていた、龍と同じ──。
 男が目だけをぎょろりと動かし丁悠を見た。その瞳と目が合った丁悠は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
 金の瞳。瞳孔が縦に長い。
 ああ、間違いない。このお方は龍の化身……。丁悠は本能的に膝をつくとその場に平伏した。
「私は、この街のまとめ役をしている慈丁悠と申します」
「……我は、干将(かんしょう)」
 それだけを男は口にした。それ以上の言葉がないのでしばらくして顔をあげると、男の目は閉じられぐったりとしている。どうやら気を失っているようだった。
「だんな様、このお方どうするんですか?」
 後ろからおっかなびっくり覗き込み、家人が尋ねてくる。
 丁悠は顎に手を当てて考えていたが、しばらくして口を開いた。
「男衆を呼びなさい。なるべく、内密に。私の家に連れていきます」


 干将と名乗った男は三日間、昏々と眠り続けた。一般男性より一回りほど大きい体躯は寝台からはみ出てしまうほどであった。
 特にあの鱗に覆われた腕は寝台に入らないので、板を積み上げて寝台と同じ高さにして、男三人がかりで腕をおいた。
 いつお目覚めになるのだろう、と丁悠は日に何度も部屋を覗いた。
 家人は恐れて部屋に近づかないので丁悠が看病をした。丁悠は神に仕える気持ちで日々を過ごしていた。
 龍は帝すらも思い通りにできない存在なのだ。彼らは自然の意思そのものである。
 龍は雨雲を呼び、水の恵みをもたらす。
 その龍が、地上に落ちてきた。
 嫌な胸騒ぎがした。

 四日目の朝、慌しい物音に丁悠は目を覚ました。
「だんな様、大変です!」
「何事ですか」
 家人が寝所に駆け込んできた。そのことを咎めることなく丁悠は先を促す。
「しゅ、州府軍が屋敷に侵入してきました!」
「なんですって?」
 すぐに丁悠は彼らの狙いがわかった。干将だ。寝間着のまま丁悠は干将がいる部屋に向かった。
 思ったとおり鎧を着て武装した武官たちが部屋から干将を台車に乗せ連れ出そうとしているところに出くわした。
「何をしているのですか! そのお方は怪我をされているのですよ」
 丁悠の抗議に先頭にいた武官が振り向いた。こちらの背筋がぞっとするような冷たい目をしている。
「お前が慈丁悠か。龍を匿っていたのになぜ州府に届け出なかった?」
 丁悠は唇を舐めると、落ち着き払った声で答えた。
「もちろんするつもりでした。だが、お目覚めになられて事情を聞いてからでも遅くはないと思ったのです」
「笑止。変事があれば、速やかに州府に届け出るのが老の務めであろう」
「申し訳ありません」
「この者は州府預かりとする」
「──空に、お返しになるのですよね?」
 念を押すつもりで丁悠は確認した。武官はふん、と鼻を鳴らす。
「朝廷にも確認を取った上で判断する。お主には関係のないことだ」
 武官たちは干将を連れて部屋を出て行った。丁悠はそれを見送るしかできなかった。
 そして、その日から雨が降らなくなった。


「龍が落ちたなどという報告は受けていないぞ」
 龍准は腕を組んで唸った。丁悠の言った通り龍はこの国で神聖な生き物だ。存在は確認されているが彼らは天界にも滅多に姿を現さない。そんな龍が地上に落ちたとあれば太守は即刻朝廷に報告すべき事案である。
「袁曹がおそらく干将様を囲っているのでしょう。その証拠がこの干魃です」
「そういえば、州府から出るときに獣の唸り声のようなものを聞いたな。風の抜ける音かとも思ったが……」
 今思えば、あれは龍の鳴き声だったのかもしれない。
 龍准の言葉に、黙って話を聞いていた莫が悩ましげなため息をついた。
「やはり、我が背の君はあそこにいるのじゃな」
 一呼吸分の沈黙が落ちた。いま、彼女は何と言った?
「……ちょっと待て。我が背の君、だと?」
「いかにも。妾は、干将の妻じゃ」
 浮世離れした容姿、物言い。仙女ではないかと思っていたが。だが、まさか。
「どういうことだ! 龍はもう一匹いたのか?」
 丁悠は苦笑しながら、うなずく。
「話が途中でしたね。干将様を軍に連れて行かれ、私は胸騒ぎを覚えていました。袁曹は己の利しか考えておりません。干将様の身に何かよくないことが起こるのではと危惧していました。それを表すように一週間経っても二週間経っても、雲は厚く垂れ込めたまま。そんな折、この屋敷に一人の訪問者がありました。それが、莫様です」
「続きは妾から話そう」
 そう言って莫が丁悠の話を引き継ぐ。
「妾と我が背の君はいつも通り空を駆けておった。雲を呼び、霞を食べながら我らは生きる。──そして、人の祈りも糧になる。この街の上空で我らはいつも止まることにしていた。この街の民は熱心に我らを想ってくれている。純粋な祈りというのは空を駆ける我らにもわかるものじゃ。祈りの謝意として、我らは雨を降らす。その日もそのはずじゃった」
 だが、その日は異変が起こった。巨大な地鳴りが起こったのだ。地鳴りがすると、瘴気が上空まで撒き散らされる。
 普段、龍は地上近くまでは降りない。瘴気がひどいためだ。
「地鳴り……瘴気……」
 龍准がつぶやく。つい最近もどこかでそんな話を聞いたような気がする。
「迂闊じゃった。その日、我らは地上に近づきすぎていた。我が背の君は瘴気に当てられて均衡を崩した。妾は慌てて助けようとしたが、瘴気にまみれていて降下することができなんだ。途中で我が背の君が人型に変化するのが見えた。恐らく龍の姿のまま落ちたら地上に甚大な被害が出るのを危惧したのじゃろう。丁悠から聞いた話によるとその変化も完璧に行えないほど瘴気に当てられていたようじゃが……」
 夫のことを思い出すだけでもつらいのか、莫は膝に置いた手を握った。服に皺が寄る。
「妾はすぐにでも地上に降りて探しに行きたかったが、はやる気持ちを抑え瘴気が収まるのを待って地上に降りた。我が背の君の残り香を追ってこの屋敷にたどり着き丁悠に会い、我が背の君が捕らえられたことを知った」
「この雲の原因はお前たちが地上にいるからか」
「そうじゃ。我らが雲を食べねば陽は差さぬし、雨を呼ばねば雨は降らぬ。だが、妾は我が背の君を取り戻すまでは空に戻らぬと決めておる」
 それは断固とした決意のようだった。龍准はガリガリと頭をかいた。袁曹もずいぶんと面倒なことをしてくれる。
「すべての原因は袁曹が干将様を捕らえたからです。雨が降らず、陽も差さなければ、農作物が育たないのは当たり前です。それを知っていながら、袁曹は貢租を要求する。龍准様、あなたは謀反を企てているかとお尋ねになりました。その答えは、是です。私たちは、干将様を解放し、袁曹の横暴を暴くため蜂起するつもりです」

 しん、と部屋に静寂が降りた。丁悠は沙汰を待っている罪人のような顔つきで座っている。ややあって龍准は口を開いた。
「お前たちの気持ちはよくわかった。だが、やはりその蜂起は認められない」
「なっ、どうしてですか!」
 丁悠が声を荒げる。龍准は諭すように言葉を紡いだ。
「お前たちの気持ちは痛いほどわかる。莫殿の気持ちもな。しかし、武装蜂起は律で罪に問われることになる。此度のような理由でお前たちにそんなことをさせるわけにはいかない」
 丁悠は唇を噛んだ。
「ですが、」

「気持ちがわかる、じゃと?」

 地を這うような声がしたかと思うと、巨大な気配が部屋の中に膨れ上がった。莫だ。まるで地面から風が吹き上がっているのかように、彼女の服や髪が煽られ舞い上がる。黒曜石のごとき黒い瞳はいつのまにか輝く金の瞳に変わっていた。
 力の奔流が抑えられず変化が剥がれかけているのだ。
「龍准と言ったな。我が片割れを捥がれた苦しみが人間ごときにわかるというか」
 怒りに我を忘れかけている。丁悠が青ざめる中、龍准は冷静に片手を前に突き出した。
「落ち着け。俺は何も干将を見捨てろと言ってるわけじゃない。わざわざお前たちが手を汚すことはないと言っているだけだ」
「……なんじゃと?」
「いいか? 俺は朝廷から派遣されてやって来た。俺は双方の話を聞き、お前たちの話の方が信ずるに値すると判断した。……ここから先は俺の仕事だ」
「それは、つまり……」
 丁悠の表情が明るくなる。莫も冷静さを取り戻したのか、瞳の色が黒に戻っていく。龍准は頷いた。
「州府に捕らえられている干将を助け出そう。袁曹の罪もきちんと暴き追及することを約束する」
「いつじゃ? いつ助けに行くのじゃ?」
「まずは居場所を確認しなきゃダメだろう。──ちょうど向こうから来てくれたことだしな」
「え?」
 龍准は脇几の剣を素早く手に取ると、鞘を払って刃を抜いた。
 次の瞬間、窓を破って四つの黒い影が部屋に飛び込んで来た。
 口元まで覆う黒衣に全身を包んでいる。凶手だ。手には何も握っていなが重心を下げ、いつでも襲い掛かれる体勢だ。
「本性出して来たな。お前ら、袁曹の手の者か?」
 龍准は剣を下げたまま余裕たっぷりの表情で問うた。
 風を切る音がした。龍准がすっと手をあげて剣で弾く。鋭い音と共に床に転がったそれを視界の端に収める。刀子だ。
 それが、侵入者の答えだった。


 先頭の凶手が駆け出した。
「下がってろ!」
 振り返らずに、背後の二人に向かって怒鳴る。
 まっすぐ首筋を狙ってきた短刀の切っ先を躱すと、体勢を崩したその男の顎を拳で突き上げる。男は後ろ向きに倒れて、昏倒した。
 今度は龍准が先に動いた。仙である龍准は身体能力が人間の時よりも遥かに強化されている。滑るような歩法で瞬時に相手との間合いを詰めると、剣の柄頭を男の喉に叩き込んだ。ゴッと骨を砕く音と共に、男の身体が吹っ飛んだ。右側から迫る蹴りを手刀で捌き、軸足を払い転倒させる。男がのたうち回った。あと一人。
 凶手としての訓練は積んでいるようだが、龍准からすればまだまだ浅い。
 歴然とした力の差にいよいよ不利と見てとったか、残った一人はじりじりと後退を始めた。だが、逃がすつもりは毛頭無い。彼らには色々と吐き出してもらわねばならないのだ。
 そのとき──
 窓の外から室内に矢が飛び込んできた。龍准はすぐさま反応し、剣で矢の軸を切り落とす。連射された矢は、顔を背けて難なく避けるが、ドスッと背後で肉に刺さる音がした。振り向くと最初に昏倒させた男の頭部に刺さっている。即死だろう。
 ──やられた。
 二射目は仲間の口封じか。
「危ない!」
 丁悠の声が聞こえた。その声を脳が理解するより早く、身体が反応した。
「ヒュッ」
 鋭い呼気と共に、龍准は振り返りざま剣を薙ぐ──時が収縮し、全ての動きがゆっくりと引き伸ばされ──背後から攻撃しようとしていた残りの男を視界に映した時には、龍准の剣が男の首を刎ねていた。てん、と首が鞠のように床に転がり、残った胴体から噴水のように血が噴き出す。
 収縮した感覚が戻り、聴覚も視覚も現実に引き戻された時には外の気配は消えていた。龍准は舌打ちした。
「射手は逃げたか」
 わずか数秒の出来事だったが、すぐさま撤退したらしい。
 龍准は唯一息があり、床で這いずり回っている男に近づくと、頭巾を剥いだ。
 足で仰向けに転がし、靴で胸を踏みつける。ひゅうひゅうと呼気の抜ける音が男の喉から漏れた。
「答えろ。袁曹が捕らえた龍はどこにいる?」
 龍准は冷ややかな声で尋ねた。
「答えないなら、肺を押し潰すぞ」
 体重をかけると苦悶の声が上がり、苦しげに手が床を這う。
「言え!」
 龍准が吠えると男はようやく言葉を絞り出す。
「……やつは、州府の地下ろ……うぐっ」
 最後までは言葉にならなかった。目を見開いたまま事切れている。
 龍准は踏みつけていた足をどけ、膝をつくと険しい顔つきで男の首筋に手を当てた。間違いなく死んでいる。次に、顎を掴み口を開かせた。顔を近づけると、異臭がする。口内に自死用の毒を仕込んでいたらしい。
 断片しか聞き取れなかったが男は「地下牢」と言ったように聞こえた。他の情報が取れなかったのは残念だが少なくともきっかけはつかめた。
 龍准は立ち上がると背後を振り返った。
「大丈夫か?」
 丁悠は真っ青になりながらもその背に莫を庇っていた。
「え、ええ。私も莫様も怪我はありません」
 丁悠がか細い声で答える。
「そうか」
 手巾で剣の血脂を拭うと鞘に収める。二人に近づこうと一歩踏み出した龍准だったが、
「寄るな!」
 鋭い声に足を止めた。莫だ。丁悠の後ろで口元を押さえ、身体を震わせている。
「お前は、血で穢れておる。それ以上、妾に近づくで、ない……」
 声が小さくなり、力が抜けたかのように丁悠に寄りかかる。
「莫様!?」
 どうやら気を失ったようだ。慌てふためく丁悠の声を聴きながら、龍准は己の格好を見下ろした。服にべっとりと血糊がついている。男の首を刎ねた時、血が飛んだのだ。   
 床にも血溜まりができており、死体が転がっている。
 地上の瘴気に当てられるくらいだ。清らかな空気の中で生きる龍にとって血は毒にしかならないのだろう。
「丁悠殿。彼女を風通しのいい部屋に連れて行ってやってくれ。その後で、この部屋の掃除を。俺には湯浴みの準備と新しい服を用意してくれると助かる」
「か、かしこまりました」
 ばたばたと駆けて行く丁悠の姿を見送ると、血で汚れた部屋を見回して龍准は嘆息した。死体が四つ。少し、やりすぎた。


 湯で血を濯いだ龍准は慈家の家人が用意してくれた服に袖を通した。
 大したものをご用意できず、と家人は何度も謝ってきたが、龍准にとっては立派な軍服よりもこちらの方がよっぽど着慣れている。
 莫が休んでいる部屋を教えてもらった龍准は扉をそっと開け、中を覗き込んだ。
 莫は寝台に寝かされていた。眠っていてもその美貌は陰ることを知らないようだ。
 彼女にとっては地上に在るだけで穢れに蝕まれ続けているはずだ。それなのに、夫である干将を取り戻すため自らを顧みず地上に降りてきた。
 誰かを想う気持ちは、神も、人も、獣も、変わらないのだ。
 龍准はそんな誰かの想いを守ってやりたくて仙になった。力がなければ守れないものもあると知ったから、力を欲した。
 莫に干将を返してやろう。
 そう決意を新たにして、そっと部屋を後にした。

「行かれるのですか」
 屋敷を出ようとしたところで声をかけられ、龍准は振り向いた。丁悠が立っていた。
 龍准は頷いた。
「凶手がここに来たということは、莫か俺がここにいることが袁曹にバレているんだ。一刻も早く干将と莫耶を空に返してやらねばならない。彼らの身体には下界は毒だ」
「州府の警備は日に日に厳しくなっております。いくら龍准様がお強くてもお一人では多勢に無勢ではありませんか? どうか街の男衆を使ってやってはくれませぬか」
「だめだ」
 龍准は丁悠の申し出を退けた。それでは、彼らが蜂起したのと同じになってしまう。
「ですが……、我等もお力になりたいのです!」
 なおも食い下がる丁悠に、龍准は天を仰いでしばらく唸っていたが、やがて大きくため息を吐いた。
「お前たちの気持ちはようくわかった。だが、正面から突破するだけでは、馬鹿の一つ覚えだ。計画を練り、わからぬようにやらなきゃな」
 龍准は丁悠に向き直った。
「人数が増えるなら、増えたなりのやり方がある。今日は泊めてもらえるか? 明日、男衆たちと話をしたい」
「もちろんでございます」


 翌夕、水牛に引かれた一台の荷車が州府を目指し街道を進んでいた。街の男衆が四人、荷物を支えながら水牛を引いている。州府の裏門に辿り着くと男の一人が門番に手形を見せる。
「品はなんだ?」
「野菜と肉です」
 筵をめくった門番は中身を一瞥して、言葉通りのものが入っているかを確認した。
「よし、行っていいぞ。場所はいつもの大蔵だ」
「へい」
 男たちは武官に頭を下げながら、荷車を押してゆっくりゆっくりと城内に入っていく。
 大蔵に入り、荷車を止める。貢租を納めに来た街の者は監督の武官たちの指示通りに荷を置いたらすぐに蔵を出なくてはならない。男の一人が野菜をおろしながら水牛に近づいた。男──男衆の一員に紛れ込んだ龍准である──は内心詫びを入れながら水牛の尻に袖の中に隠し持っていた点穴針を刺した。
 高い嘶きが蔵の中に響き渡った。突然の衝撃に水牛は驚き、前足を振り上げた。大きく首を左右に振り、繋がれていた縄を引きちぎる。
「何事だ!? ……うわっ」
 騒ぎに駆けつけた武官たちは角を低くして突進してくる水牛に飛び退いた。湾曲した水牛の角は人を殺すほどの威力をもつ。
「いったいどうしたんだ、落ち着け!」
 男衆の一人が水牛に声をかけつつ、龍准に目配せをした。龍准は小さく顎を引くと、逃げ惑う人々に紛れて城内に侵入した。
 計画通りである。
 協力を申し出た男衆たちに龍准は鍬や鋤を持って奮起することを求めなかった。
 もっと穏便に、幇助(ほうじょ)したとわからないような手口での協力を求めた。
 彼らに害が及ぶことは龍准の本意ではない。
 だが、彼らの手助けがあることで夜間に忍び込むくらいしか手段がなかった龍准も違う手が取れる。
 向こうもよもや昼間から堂々と賊が侵入してくるとは思っていないだろう。それに、昼間は人が激しく出入りしているぶん、龍准が紛れていてもわかりにくい。
 木を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中である。
 ふらふらと城内を歩いていると前方から武官の男が歩いてくるのが見えた。
「おい、お前何をしている?」
 強い口調で呼び止められる。農民の格好で城内を闊歩していれば、否が応でも武官の目にとまる。それも、龍准の計算のうちだ。
「すんません、牛に追っかけられて逃げていたら迷子になっちまって」
 龍准はぺこぺこと頭を下げた。
「勝手にうろうろするな。こっちだ」
「へえ。……あのう、厠はどこですか? あまりにも怖かったもんでちびりそうだ」
 武官は眉を寄せた。
「我慢しろ」
「我慢できねえから聞いてるんでさあ。ここで漏らすわけにはいかんでしょう」
 武官は大きくため息をつくと、「こっちだ」と背を向ける。
「はあ、すんません」
 大人しく後に従う。しばらくして、厠にたどり着いた。武官が親指を向けて示す。
「ほら、ここだ。早く済ませろよ」
「ありがとうごぜえやす」
 龍准は大きく一歩踏み出して、武官に肉薄すると鳩尾に重たい拳を叩き込んだ。男は声も立てずに気を失い、龍准は倒れないように男の身体を腕で支える。
「悪いな」
 もう聞こえてはいないだろうが、龍准は男の耳元で小さく謝罪した。
 失神した男をずるずると厠の中に引きずっていくと、狭い室内で悪戦苦闘しながら男の官服を剥ぎ、自分の服と交換する。
 佩いていた剣も失敬した。これで、城内を堂々と歩くことができる。
 干将は地下牢にいるという。どこかに地下に降りる階段があるはずだ。
 誰かに尋ねるしかあるまい、と思っていたところ前方の部屋から一人の下女が出て来た。見覚えのある顔だ。確か、茶をこぼして袁曹に叱責されていた下女である。袁曹からは明日から来るなと言われていたので心配していたが、働いているようで安心した。武官が歩いてくることに気づくと彼女は目を伏せて脇に控える。
 龍准はカマをかけてみることにした。
「龍の調子はどうだ?」
 下女はハッとしたように顔を上げた。龍准の顔を見て目を見開く。
「あなたは……」


 話を聞くため近くの空き部屋に入ると、女は碧林(へきりん)と名乗った。だが、龍准が話を切り出す前に、碧林は両手で顔を覆って泣き始めてしまった。それに慌てるのは龍准の方である。
「どうした。いったいここで何が起こってるんだ」
「わたくしの口からはとても申し上げられません。あんなおぞましいことを……」
 そう言ってさめざめと泣き続ける。彼女は何のために龍准がここに戻ってきたのかわかっているようだった。
「お役目が回ってくると日に五回も地下牢におりなくてはなりません。あのお方のお姿をみるとわたくしは己の業の深さに絶望します。太守が罪人だというのなら、わたくし達も同じだけの罪を背負っているのです」
 お役目。業。罪。彼女の口から幾つもの単語が出る。
「お役目というのは誰がしているんだ?」
「皆です。皆、一度は経験しているはずです。私もまた来てしまいます。あのお役目が……」
 彼女は両手で肩を抱き身体を震わせている。
 彼女の言う、おぞましいこと。
 それはいったい何なのか?

      *

 碧林が明かしてくれた地下牢への階段をおりる。彼女を慄かせるような「何か」がここで行われているのだ。
 階段をおりるにつれその片鱗があらわになっていくのがわかった。
 ひんやりとした空気、湿気、そこに混じる濃厚な、血の臭い──。
 冷ややかな空気とは反対に龍准の掌にじっとりと汗が滲む。
 牢の前に立った龍准はその光景に言葉を失くした。牢の中は、天井から両壁、床にいたるまで貼り付けられた呪符で埋め尽くされていた。鉄格子にも呪符が巻き付けられている。
 そして、一人の男が天井から伸びた鉄の拘束具に両手を拘束され吊るされていた。丁悠の話に聞いていたのと違い、両手とも人の手になっている。この貼り付けられた呪符が変化を抑えているのかもしれない。干将の足元には幅の狭い脚立が置かれている。だが、足にも枷がはめられ、彼に自由はない。脚立を蹴倒せば、たちまち宙吊りになるだろう。
 さらに、男の身体は無数の拷問の跡があった。傷ついていない部分を見つけるのが難しいほどだ。治りかけた傷の上からさらに新しい傷が走っている。
 気を失っている男の足元にはいくつもの銀鉢が置かれていた。鉢の中に傷口から滴った血が溜まっている。
「日に五回も──」
 碧林の言葉を思い出し、つぶやく。
 神をも恐れぬ所業。その言葉の意味を理解した。
 血を、集めているのだ。
「いったい何のために……」
 そこで龍准は失態を犯した。柄にもなく動揺していたせいだろう。
 背後から近寄る気配に気づかなかった。
 足払いをかけられ急襲を受けた。腕で支えようとしたが、それを察した相手にそのまま背後から押しつぶされる。
 髪を掴まれ顔あげさせられると喉元に腕を差し込まれた。手には短刀を持っており、いつでも首を掻き切れる体勢だ。視界の端に黒い装束が目に入った。
「昨日の凶手か……!」
 それに答えはなく、ただ腕に力が込められる。喉に迫る圧迫感に龍准は呻いた。無理やり階段の方に顔を向けさせられる。
 扉が開く音がし、地下に一陣の光が差した。こつこつと木靴の足音が聞こえる。誰かが降りてくる。
「龍の血は、不老不死の妙薬……」
 龍准の目がクッと見開かれる。この声は──。
「そう謳えば、よく売れるのですよ」
 声の主は予想どおり太守・袁曹のものであった。場違いなほど落ち着き払った声。
 背後に付き従っているのは、黒装束の凶手と──碧林であった。
「碧林、お前!」
「申し訳ありません、龍准様」
「謝ることはないぞ、碧林。お前は当然のことをしたのだ。よく賊の侵入を教えてくれた」
「は、はい」
 柔らかな主人の声に碧林は声を弾ませた。
 龍准はその光景に唇を噛んだ。袁曹に心を支配されている。
 長衣の裾をゆっくりと揺らしながら近づいてきた袁曹が龍准の顎を靴の爪先で持ち上げた。
「さて、ここを見つけられたからにはあなたをどうにかせねばなりませんね。忍んでいた隠密を傀儡にしたので、朝廷に勘づかれる前に使ってこちらから呼び寄せて手駒にしようと考えていたのですが……やはり朝廷の狗は一筋縄ではいかないようだ」
「やっぱりな。俺が来た時の部屋に焚き込められていた香に薬を混ぜていただろう」
「ご明察です」
 ちっとも悪びれない袁曹に怒りがこみ上げ、龍准は怒鳴った。
「なぜ、こんなことをする!」
 袁曹の顔に初めて憂いが浮かぶ。
「飽いたからです。人間だった頃、私は科挙に合格し、仙になってこの国を変えてやるのだと意気込んでいました。だが、仙になってもなにが変わるわけでもなかった。太守になっても、農民を管理し、貢租を徴収し、朝廷の顔色をうかがう日々。生きるのがひどくつまらなくなりました。だが死ぬのも惜しい。そんな時、龍が落ちたのです。……人はちっとも学びませんね。こちらが少し水を向けると蟻のように群がってくる。愚かな人間の所業を見ていると胸がすっとしました。金などどうでもいいのです。不老不死と言われて飛びつく人間も、それを売る私も愚かです。私は人も、自らもどこまで業を深められるか、試しているんです」
「莫迦な。お前に振り回される周りがいい迷惑だ」
「悪事は人の心を惑わせるらしい。自ら進んで協力してくれる者もいるのですよ」
 そう言って、袁曹はうっすらと嗤う。両手を広げ、天を仰ぐ。
「それに、こんな私に、天は罰を下さないではありませんか」
「そのために俺が来たんだろうが」
「ふふ、地に這っているあなたに何ができるというんですか? だが、私の手駒を瞬殺するあなたの力。殺すには実に惜しい。やはり傀儡人形にするしかないですかね」
「誰がお前の下につくか」
 龍准は吐き捨てた。
「俺は、莫と約束したんだ。必ずあいつを連れて帰るとな」

     *

 計画はうまくいっているだろうか。州府の方を眺めながら、丁悠は計画の成功を祈るばかりだった。この半年間、空を眺めてばかりだ。でもそれももうすぐ終わる。今や龍准は、丁悠たちにとって唯一の希望だった。

 莫は昨日からまだ目を覚まさない。
 龍准からは州府に莫のことを決して勘付かれぬようにと強く言付かっていた。そして、もし何かがあった時には何としても彼女を必ず守るように、と。朝から男衆たちができる限りの武装をして屋敷に常駐している。皆、命に代えても莫を守る覚悟だった。
 丁悠は屋敷に戻ると、莫の部屋に向かった。おかしなことに部屋の前で見張りをしていた男衆の二人が立ったまま眠りこけていた。丁悠は違和感を感じ、すぐさま部屋の扉を開いた。
「莫様?」
 部屋を覗いて中を見渡す。乱れた寝台。開かれた窓。
 丁悠はザッと蒼白になった。
 部屋はもぬけの殻だった。

    *

 何の物音がなかった牢屋の中からギィ、と鎖が軋む音が響いた。
「ばく……?」
 掠れた声が聞こえ、龍准は首を捻って干将のいる牢屋をみた。
「ば、くや。そこに、いるのか……?」
 呻くような声が聞こえる。
 干将の意識が戻った? 龍准は大声で呼びかけた。
「そうだ。莫はお前を探すために、地上に降りて来ているぞ!」
 みしり、と何かが軋んだ音がした。
「ばくや。ばくや、ばくや、ばくや。彼女を渡してなるものか……!」
 地底から這い上がるような響き。みしみしと音は大きくなる。どうも様子がおかしいと思った次の瞬間、決して壊れぬ鉄の檻が中から爆散した。
 もうもうと立ち込める煙の先にいたのはまさしく自然の化身。雄々しき一匹の巨大な龍であった。
 金の瞳は怒りで赤く染まっている。喉の奥から響くのは獣の呻き声だ。
「は。素晴らしい……」
 袁曹が唇を歪めている。その表情に浮かぶのはどういった感情なのか。まるで羨望しているかのような。
 干将の瞳がぎょろりと動き、袁曹をとらえた。

 止める間も、なかった。

 干将の首がすっと低くなったかと思うと、疾風のような速さで迫って来た。
 大きく口を開き、尖った牙が袁曹の上半身を一瞬で喰いちぎった。そのまま首をもたげると、地下牢の天井を穿ち地上に昇っていく。
 袁曹だったものから、血が噴水のように吹き出している。
「ひ、ひいいい」
 悲鳴をあげ、碧林が腰を抜かした。凶手たちも不測の事態に戸惑いを隠せずにいる。主人が一瞬にして消し飛んだのだから無理もあるまい。
 それはまさに自然の脅威そのものであった。嵐のような力の奔流。
 残されたのは愚かな人間たちだけ。


 天井から石のかけらが落ちてくる。
 穿たれた穴から地上を見上げると空を干将が旋回しているのが見えた。まだ天へは昇っていないようだ。
 先の衝撃で地盤が緩んだのか、不吉な軋み音がする。
 いつ陥没してもおかしくない。龍准は緩んでいた拘束から逃れると、地下にいる人間たちに向かって呼びかけた。
「お前たち、今すぐここから出るんだ! このままでは生き埋めになるぞ!」
 凶手たちも状況を悟ったのか階段から地上に飛び出していく。龍准は腰が抜けている碧林を抱き上げた。
「あ、あ、あああ、わたくしは、なんてことを……」
 譫言のようにつぶやく碧林を一瞥し、龍准は階段を駆け上がった。


 地上に上がったとほぼ同時に地盤が沈んだ。地面に大穴が開く。
 龍准は廊下に碧林を寝かせると、銀盆のある広場から上空を見上げた。
 風がびょうびょうと吹きすさぶ。
 厚く垂れ込めた雲。雲は未だ晴れない。
 干将が旋回している。見つめているうちにその飛び方が不自然なことに気づいた。まるで何かに衝突しているような、飛ぶのもままならないという感じがする。
 と、今度は急降下して来た。慌ててその場を飛び退る。ずしゃりと音を立て、干将は崩れ落ちるようにその身を地面に打ちつけた。
「我が背の君!」
 振り返ると、人間の姿の莫耶が駆け寄ってくるのが見えた。
「莫耶!? どうしてここに?」
「我が背の君の神気を感じて、居ても立ってもいられなくなってお前の天馬でここまで来たのじゃ。ああ、我が背の君。なんとお労しい……」
「誰かそこにいるのかあ?」
 ぎょろりと干将の目が動く。だが、その目は莫耶を捉えない。莫耶は駆け寄ると干将の首筋に取り縋った。
「我が背の君。莫耶でございます」
「ばくやあ? 知らぬ」
「お戯れをおっしゃいますな」
 莫耶の声が震える。
 干将にはその声も聞こえていないようで、口からはあぶくが漏れている。ぎょろぎょろと目玉が不規則に動き、その瞳がどんどんと濁りを帯びていくことに龍准は気づいた。
「我が背の君、目が……」
 莫耶もそれに気づき慄いたように彼から身体を離した。干将が口を開く。
「貴様も、仙か?」
「妾は」
 答えようとした莫耶の言葉は遮られ、雷鳴のごとき雄叫びが響いた。
「俺を閉じ込めた忌まわしき仙め! 憎い憎い憎い憎い! 根絶やしにしてくれようぞ!!」
 干将が再び飛び上がった。
 突風が巻き起こる。龍准は吹き飛ばされないように両手を顔の前に掲げ、足を踏ん張った。

 風が収まりそっと目を開くと、広場は静まりかえり、莫耶が空を見上げていた。龍准もつられるように顔をあげる。
 雲の中に黒い影が見えた。やはり不安定な飛び方だ。とても遥か上空にある宮廷にたどり着けるとは思えない。
 だが、龍は天道も雲海も突き破って進むことができる。龍が怒れば、仙を根絶やしにすることなど容易いだろう。
 銀盆を使って天道を辿れば、干将より先に天界につけるかもしれない。けど、それからどうするというのだ?
 莫耶は溢れる涙を手の甲で拭って、こちらを振り返った。
「聞きたいことがある。我が背の君は、人を喰ろうたのか?」
 龍准はゆっくりと頷いた。
「正確には、仙だ。袁曹を喰い殺した。奴の上半身が恐らく干将の胃の中にある」
 ──あんたを助けるために、とは言えなかった。
「龍准、お願いがある」
「なんだ?」
「お前の剣で、我が背の君を殺してたも」
「……なんだって?」
 龍准は思わず訊き返した。聞き間違いかと思った。だが、莫耶は瞳に強い光を宿して龍准をまっすぐと見つめてくる。
「我が背の君は、地上の毒を浴びすぎたのじゃ。その上で仙を喰ろうてしまった。瘴気が全身に巡っており、もはや、空に立ち戻ることは許されぬ。あの目の濁りが何よりの証拠。彼は優しいお方じゃった。人を慈しんでおった。怒りのまま暴れ回るのは、きっと彼の本意ではない。どうか、彼を気高き魂のまま葬ってくれ」
「あんたの、伴侶だろう。あんたはそれでいいのか?」
 駆け寄って来た莫耶は拳を振り上げて、龍准の胸を叩いた。
「……いいわけ、なかろう! だが、これしか道はないのじゃ。妾に我が背の君は殺せぬ。だから今ここで頼れるのはお主しかおらぬのじゃ。お主こそ宮廷を壊されたくはないだろう」
 龍准は唇を舐めた。彼女の言葉の意を確かめるように口を開く。
「俺に、龍殺しをしろというのか」
 莫耶の繊手が龍准の襟を掴み、自らの方へと引き寄せた。濡れた瞳が金色に輝いた。
「貴様らが妾から夫を奪ったのじゃ。その咎はお主が背負え」
 龍殺しは、大罪だ。龍は神と同義。龍殺しは神殺しに繋がる。
 龍准は武人として、数多くの妖魔と戦って来た。だが、さすがの龍准も神に剣を向けたことはない。
 神が、神を殺せという。
 先ほどからずっとしこりのように胸につかえているものがある。もしあの時地下牢で、龍准が莫耶の名前を出さなかったらこんな事態にはならなかったのだろうか、と。
 龍准は大きく息を吐いた。
 運命とは、時に理不尽に迫ってくることを龍准は知っている。たまたま居合わせた時分が悪かったということもある。
 これが運命だというのなら答えは一つしかなかった。


 龍准は天馬に乗って銀盆に飛び込むと、天道を駆け上がった。門を潜り、呼び止める門番を振り切って宮廷内を駆け抜けると雲海へ飛び込んだ。
 冷たい霧が身体を濡らす。雲海の下に大きな黒い影が見えた。
「いたぞ。あそこだ!」
 天馬が龍准の声に呼応して速度を上げる。剛赤山脈の上空を飛んでいる。
 ここで、止めなくては。龍准は天馬から飛び降りた。
「干将──!」
 龍准は声を張り上げた。水墨画で描いたような急峻な岩山の上に龍准は着地した。剣の柄に手をかけいつでも抜けるようにする。
 地上から風が吹き上げる。
 龍准の存在に気づいた干将が爪を開いて迫る。剣で爪を弾くが巨体から発せられる突風に吹き飛ばされる。
 ぐんぐんと岩が近づいてきた。このままでは叩きつけられる。龍准は岩肌から生える木の枝を掴み反動で身体を回転させ、別の岩に飛び移った。
 右頬が熱い。飛んできた石のかけらで切ったらしい。
 とぐろを巻きながら宙に浮く干将が、怒りで朱に染まった眼を龍准に向けた。
「この匂い、貴様も仙人かァ……?」
 龍准はその問いに何も応えなかったが感ずるものがあったのか、干将は空に向かって咆哮をあげた。ビリビリと音の衝撃波が龍准の肌を粟立たせる。
「そうだとしたら?」
「全身の骨を砕きながら喰ろうてやろうぞ」
「やってみろ」
 龍准は頬から流れる血を親指で拭った。
 傷の痛みはだいぶ回復している。仙人の身体は便利だ。武仙は身体能力が人間よりもはるかに強化され、人間の時と違っていくらでも酷使できる。痛みさえ我慢すれば何度でも戦場に復帰できるようになっている。そう、痛みさえ我慢すれば。
「さあ、来いよ」
 首を引いたかと思うと、干将はドンっと勢いよく飛び出してきた。
 縦横無尽に体躯をくねらせる。迫る牙を予想して、龍准は空に飛び上がった。中空で剣を持ち替え、降下しながら頭から龍の背に突っ込む。が、鱗に剣は弾かれた。咄嗟にたてがみをつかみ、振り落とされないようにしっかりと握りしめる。繰り返される急上昇と急下降。体勢を維持するので精一杯だ。
 このままだと散り散りに吹き飛ばされるのがオチだ。
 鱗が剣を通さないなら、剣が届く場所を攻撃するかしかない。
 龍准は剣を握ったまま這うようにして干将の背の上を進む。そして、額まで辿り着くと両足で首を挟みこみ、剣を振りかぶった。
(すまないな)
 絶叫が響き渡る。
 龍准の剣が干将の右の眼を貫いたのだ。
 痛みに身をよじった干将の背から龍准は宙に放り出された。
 まずい、と思った瞬間、視界が暗転した。
 生暖かい粘液が身体にまとわりつく。

 ──喰われた!

 牙に引っかからなかったのは幸いだがそのままするりと身体は滑っていく。丸呑みされているのだ。龍の体内の構造はわからぬが、管の中をおりていく感覚を味わう。
 びり、と身体に痛みが走った。酸が皮膚を溶かす。痛みと修復を交互に繰り返す。いかに回復力が高い仙の身体もいつまでもは持たない。
 龍准は剣を手元に引き寄せると神経を集中させ、裂帛の気合いとともに腹を斬り破った。
 肉を突き破り、腕が外気に触れる。そのまま腹を裂いていく。
 外を見るとちょうど真下を並走する天馬が見えた。龍准は身を捩って腹から出ると宙に身を投げた。天馬が自らの鞍に龍准の身体をすくい上げる。懸命に主人を助けに来てくれた天馬の上で、龍准は息を吐いた。
「悪い、助かった」
 目を貫かれ腹を裂かれた干将はどんどんと高度を下げていた。このまま街に落ちられてはまずい。
 龍准は振り返り、州府の位置を確認した。なんとか州府まで干将を誘導しなければ。
 それに、龍准は干将が正気を取り戻すことに一縷の望みをかけていた。
 だって、そうだろう。このまま死に別れるなどということがあっては、干将と莫耶──この夫婦龍にとってあまりにもやるせなさすぎる。
 龍准は鐙に足をかけ、よじ登るようにして天馬に跨ると手綱を操り、干将の前に躍り出た。龍准に気づいた干将は先ほどに比べ弱々しくなった咆哮を上げながら龍准を追う。
 それを繰り返しながら州府に誘導していく。広場に近づくにつれ莫耶が一心に空を見上げているのが見えた。あと少し。が。
「ぐっ!」
 何度目かの突進を避けきれず牙が龍准の肩に食い込んだ。肩がみしみしと音を立てる。龍准は左手で顎が閉じないように懸命に押さえ込むと、剣を持った右手で上顎を貫いた。びくんと干将の身体が大きく跳ねる。その一撃が決定打となった。干将は浮力を失い、そのまま龍准を巻き込みながら落下していった。
 衝撃と轟音が一帯に響き渡った。


 立ち込める煙の中、龍の下から這い出る影がある。龍准だ。周囲を見渡すと城壁は衝撃で崩れ落ち、龍の身体が尾根のように城外まで伸びている。
 仙でなかったら間違いなく十回は死んでいただろう。生きているのが奇跡に近い。龍准は肩を押さえながら立ち上がった。胸に痛みが走る。肋骨を何本かやったらしい。
 静まり返った広場にぽつんと一人立つ莫耶の姿が見えた。龍准は近くに落ちていた剣を拾うと身体を引きずるようにして彼女の元へ近づいていく。莫耶は干将の顔の前に立っていた。龍准に気づくと口を開いた。
「龍准。我が背の君は……」
「まだ、生きてるはずだ」
 二人が見守っていると、しばらくしてぶるりと髭が震えた。龍准は剣の柄を握る手に力を込めた。
 もしもの場合は、止めを刺さねばならない。
 まぶたの下から現れた瞳の色は──赤ではなく、金色だった。
「地上は、穢れが随分と進んでるな……。よもや己の気が狂うとは思わなんだ」
 落ち着き払った声。自我を取り戻したのだ。
「我が背の君!」
 喜びのあまり莫耶の瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちる。龍准はほっと息を吐いた。
 干将の残った片方の眼が龍准に向いた。
「仙よ。俺を止めてくれたこと礼を言う」
 龍准は首を振った。
「謝るのは我らの方だ。あのような蛮行を……あってはならないことだったのに」
「もはや過ぎたことよ。しかし、龍殺しは、お前の地位も危うくさせるだろうな」
 己のことよりも他人のことか。
 莫耶のいう通り、本来の彼は優しい龍なのだ。龍准は諦めたように笑った。
「覚悟している。別に地位を求めて仙になったわけじゃないしな。誰かを救うためにこの力を得た。その結果、仙籍を剥奪されるなら構わないさ」
 干将は笑おうとして咳き込んだ。
「は、肝が据わっておるな。よかろう。この身をお前にやろうではないか」
 告げられた言葉の意味がわからず龍准は眉根を寄せた。
「帝には〈馬〉のせいで気が触れた龍を成敗したと言えばいい。あながち間違いでもないしな。あと幾許かの命、尽きたらお前に俺の牙とこの眼をやる。牙で剣を鍛え、柄に玉眼をはめろ。そうすればそれなりの力を持った剣になる。お前も罪を問われることはなかろうて」
「どうして、お前が俺のために……いや、お前を虐げた人間のためにそこまでする?」
「人間のためではない。俺は生きた証を残したいだけだ。莫耶のためにも……。その証を預けるのは、お前ならゆるせる」
 次に、干将が莫耶を見やる。その目は慈しみに満ちている。
「莫耶。お前にも苦労をかけたな」
「よい。夫婦とはそういうものじゃ」
「──そうか。俺は、良い妻を持った……」
 干将がゆっくりと瞬きをする。莫耶が何度も名前を呼び、身体を揺する。それに応える声はない。莫耶は夫の身体に覆い被さった。
 ぽつり、と頬に水滴を受け、龍准は空を見上げた。
 雨だ。
 ぽつぽつと雨脚は強まっていく。人々が待ち望んでいた、雨。
 一匹の龍が、地上で沒した。
 その日、地上を濡らしたのは残された者の慟哭の雨だった。

     *

 左右羽林軍恒例の武道大会。
 厳しい修練を終えた新人達にとってこれが初めての晴れ舞台だ。
 普段から仲のよろしくない左右羽林軍将軍はどちらが強いかをはっきりさせようと、部下達に発破をかける。
 武道大会は血気盛んな武官だけでなく、文官達も楽しみにしている一種の娯楽的な催しとなりつつあった。
 だが、今年の大会にはとんでもない隠し玉があるらしいとまことしやかに噂になっていた。
「なんでも帝も見学されるとか」
「新兵の試合を? そんな莫迦な」
 観客席で試合を見ていた文官が噂話に興じている。
 最後の新人の試合が終わった。結果は二十対二十。つまり、引き分けだ。
 一人の武官が、試合場に上がってきた。龍准である。
 その手には一振りの長剣を持っている。黒塗りの美しい鞘に金色の龍が彫られている。柄には美しい赤色の宝玉が埋め込まれていた。
 干将の遺言通り龍准は牙と眼をとった。牙はどの鋼よりも硬く、眼はくりぬいた瞬間に固まり美しい玉となった。
 宮廷の刀匠に持ち帰り、打ってもらったのがこの剣である。
 龍准は試合場の中央まで歩いてくると、すらりと鞘から剣を抜いた。
 刃紋が太陽に反射する。観客達から「おお……」とさざめきのようにため息が漏れた。剣から発せられる神々しい輝きはまさに宝剣と呼ぶにふさわしい。

 上席でその様子を見ていた右羽林軍将軍・清順がつぶやく。
「あれが、龍准が持ち帰った龍の牙と眼で鍛えた剣か」
 隣で雷槌が頷いた。
「ああ。ありゃ武器というかもはや神具だな。工部の刀匠が未知の素材の登場に狂喜乱舞してたぞ」
 清順がくっくと喉の奥で笑った。
「目に浮かぶな」
「地方を平定しに行けって言っただけなのにとんでもないもんを持ち帰ってくれたぜ。昔から面白いやつだとは思っていたが、あいつは俺の想像の遥か上をいく」
「龍殺しの龍准と揶揄する者もいるらしいな」
「ああ。だが、陛下が面白がってな。龍から贈り物を下賜された仙などそういない、と。まあ、そりゃそうなんだが。演武も陛下の提案さ」
「人以外からも好かれるのはいい傾向だ。きっと、いい武人になる」
「そうだな」
 将軍達の間でそんな会話がされていることも露知らず龍准は剣を青眼に構える。
 干将は剣になった。柄を握っているだけでその力強さがわかる。うかうかしているとこちらが飲み込まれそうになる力の奔流が伝わってくる。
 まだ、龍准の手に馴染みきっていないのだ。この剣は遣い手を選ぶ。
 龍准は経緯もあり認めてもらっているが、不義理を働けばたちまち見放されるだろう。
 上段からの一振り。
「っ」
 観客席からどよめきが広がる。それもそのはずだ。
 一振りの剣圧で天が、割れた。雲が散り散りになり、抜けるような青い空が見える。
 龍准は剣を振り続ける。
 心に浮かんでは消えていく顔がある。それは今も在る人々や、今は亡きかつての友である。そして、人以外の者達。
 干将。莫耶。
 やがて、心の中は静まり返り、無心で剣を振る。

 莫耶は、夫が丁重に葬られたのを見届けると空に還った。
(莫耶、見ているか。お前の夫は、剣となった。永遠に生き続けるんだ)
 龍准は、心の中でつぶやく。
 天を見上げる。太陽の陰に、空を飛ぶ黒い龍を見た気がした。

 〈了〉

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