演劇が好きだった話

幼い時から10年続けた野球をやめて、演劇をはじめてから、もうすぐ10年が経とうとしている。
それなりに自分としてはやってきたつもりだけども、この一年くらい自分の中でものすごく急速に、価値が死につつある。
別に演劇の価値が下がったとは思わない。自分のやっていることの意味が見いだせなくなった、ただそれだけのことである。

コロナで自分が出る芝居が中止になった。

3月、コロナが少し騒がれ始めたころに自分の出演予定の舞台が前日の深夜に中止が決定した。
その時は、正直あまり実感がなかった。というかむしろ自分よりももっと若い出演者(かなりの大所帯だったので20代前半とか10代の子がごろごろいた)の心情の方が気掛かりだった。
次の日に劇場側からの説明などがあった。
その後、観客を入れず、記録映像の為の撮影が入って、バラシをして打ち上げをした。この頃はまだ世間の雰囲気も居酒屋で大人数集まることがNGという雰囲気はなかったと記憶している。
当時を思い起こすと、私はこの観客を入れない本番撮影に関して、かなり集中力を欠いた、上の空の芝居をしていたような気がする。
その時に目の前に観客がいることの大切さを実感したというようなことを、Twitterでも書いたような気がする。

その後の舞台出演がほぼなくなった。

夏に予定していたワークショップ公演はなんとかできたものの、その他は動画や音声作品を作るに留まって、出演予定だった舞台はすべて中止、その後の予定もすべて白紙で、まあ仕事でも何でもないわけだから金銭的には困らないわけで、寧ろ演劇をやっていたころと比べて格段にその他のことをする時間は増えていった。
料理は確実に上達したし、久し振りにゲームをがっつりやれる時間が増えた。漫画も読む時間が増えたし、10年ぶりに野球のボールを投げたりもした。
困ったことに何の不自由もなかった。一生懸命にやっていた演劇への欲求は自分の中に沸くことはなかった。周りからは感じたけれど。私はもう一度芝居をすることに怖さすらあった。
その恐怖はもう演技ができないかもしれないといったことでは全くなくて、自分の、自分たちのやっていることに対する意味や答えを自分の中に用意してやることができなくなったという恐怖だった。

演劇の意味

演劇の意味は、と問われると私はずっと前から自分がやりたいからやっているのだと答えていたような気がする。
やりたいことをやるというのに意味など必要ないし、誰かに価値を値踏みされる筋合いはなかった。
そこにコロナがやってきた。
人と会うということの意味を根本から揺るがしたものと私は認識している。
症状それ自体も決して軽視できるものではないと承知の上で、私は症状それよりも色々な物の社会の中での意味を変えてしまったことの方が恐ろしいと感じている。

コロナで数多くの公演が中止に追い込まれた演劇界は、多くの重鎮がその事態に関して声明を発表し、そのほとんどがことごとく非難の嵐を浴びた。
演劇は道楽という意見もよく目にした。
散々楽な、瘋癲なことをやっておいて追い込まれたら助けを求めるのか、みたいな取るに足らない意見まで色んな批判を目にした。

私は道楽という安易な気持ちで今までやってきたわけではない。
それに対して、友人や家族の多くは暖かい応援をくれた。

それでも、いままでやってきた自信や意味を砕くには、私にとっては十分だった。
演劇で収入を得ている人たちにとっては演劇の意味は仕事という確固たる社会の中での意味を持っている。その土壌で勝負できる。
私にとって演劇は仕事にもならない。社会の中では、私のやっていることなど道楽に過ぎないのだろう。私もそれに別の答えを出すことができない。
私のやってきたこととはいったい何なのだろう。
楽しかったんだ、じゃあそれは道楽か、ああ道楽だったか。やっちゃいけないか。めまいがしてくる。やめよう。家で引き籠ってゲームしている方がずっと健全じゃないか。

昨日、私の大切な人が出演している舞台を観に行った。
先週は、中止になった公演を一緒にやる予定だった方の舞台を観に行った。
どちらも素晴らしかった。舞台上で全力で演技をするその姿、熱量に心を動かされた。この人たちも演劇で食べている人じゃない。
私はこの客席に座って、得たものを大切に取っておこうと思う。
意味が見い出せた時にちゃんと取り出せるように。

サポートしてもらえるのは嬉しいものですね。