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【小説】あかねいろー第2部ー 2)僕はキャプテンから、逃げ出したい

 どうしようか。
 ラグビー部の仲間に相談するようなことではないし、親に相談するべきことではないし、こんな時に親身になって相談に乗ってくれる友達は、ラグビー部以外には見当たらない。つまりは、どうしたところで1人で、自分自身で考えてなんとかしないといけない。
 沙織ならどういうだろう。
 沙織は星野と付き合っているはずだ。(その後どうなったのかは特に聞いていない)だから、こんなことを相談する対象ではないのはその通りなのだけど、その一方で、彼女からは、この間の試合の前にLINEが来て、それ以来少しずつ、たわいもないやりとりをしていた。星野のことは避けながら。
 自分の人生にとってそれなりに大事そうな案件を、相談できる相手が、1年前に振られた相手しかいないというのは、随分と残念なことだけど、沙織ならば、僕の言わんとすることを汲んでくれるのではないかという期待があった。彼女は、もしかしたら、僕の中にいる、この黒い物体を見ていたかもしれない。だから、僕から離れたのかもしれない。たまにそんなことを思うことがあった。
 水曜日の23時過ぎ、僕は勇気を振り絞ってLINEを立ち上げ、彼女のアイコンをタップする。
”ラグビー部の次のキャプテンをやらないかと監督から言われたんだ。でも、迷っている。とても迷っている。何に迷っているのかわからないのだけど、とにかく迷っている。僕が、みんなのリーダーで、キャプテンでいいのだろうか?”
送信するまでに、僕の口はカラカラになってしまったので、部屋を出て洗面所で水を飲む。水道の水がすっかり冷たい。そう思う向こうで、LINEの着信音がする。
”まようんならやめとけば”
僕は、スマホの画面に書かれた文字を、まさに1つ1つ凝視する。ま、を見て、よ、を見て、う、を見ていく。
 どうして、どうして彼女はそう思うのだろう。しかも、返信はものの1、2分でかえって来た。つまり、彼女は、僕のメッセージをみて、即応的に、反射的に、そして完全なる明確な意思で、「やめとけ」と言ってきたわけだ。その理由を聞きたい、当然に。
 だけれども、最後の、ば、の字を見ているうちに、違う気持ちが湧いてくる。
 なんだよこれは、と思う。
 僕がキャプテンをやるかやらないかなんて、たいしたことではないのではないか。誰にとっても。少なくとも、沙織にとっては、全くもってどうでもいいことのようだった。この世界の中で、今、僕がキャプテンになるかどうかで悩んでいるのは、明確に、確実に僕だけだ。
 僕は、キャプテンをやりたくない。理由なんてない。やりたくないと、僕が感じているからだ。
 じゃあ何がやりたいのか?
 それは明確だ。絶対的に明確だ。
 僕は、花園に行きたい。それだけだ。そのために、僕がキャプテンをやる必要があるのか、それはわからない。でも、当の僕自身がキャプテンなどやりたくないのだ。どうしたところで。その気持ちを、理由を説明できないことを申し訳なく思う。その一方で、理由なんていいじゃないか。いらないじゃないか。やりたくないと思っている人が、無理にやっていいことなどないだろう。でも、絶対、花園に行く。そのために僕は、もっともっとラグビープレイヤーとしてのレベルを上げたい。僕の気持ちとして、偽りのないのは、まずはそこだ。花園に行くチーム、我がチームのエースは僕しかない。自意識過剰かもしれないけれども、でも、それぐらいの思いもなしに、トッププレイヤーになどなれないだろうとも思う。
 でも、自分のプレーヤーとしてのレベルを上げたいから、キャプテンをやらないというのは、全く通用しない理屈だというのもわかっている。世の中のラグビーチームの多くは、トッププレーヤーがキャプテンを務め、チームを引っ張りながら、さらに自分自身もレベルアップをしている。そんな人たちがいくらでもいる。
 だから、詰まるところは、僕は、その程度の人間ということだ。しょうがない。しょうがないじゃないか。
”ありがとう。わかった”
沙織には一言だけ返しておく。
しかし、そのLINEを待っていたのか、あるいは、打っている途中にぼくがLINEを送ったのかわからないけれど、ほぼ入れ違えで彼女から追伸がやってきた。
”キャプテンって、頭が悪い人の方がいいと思う。吉田くんは、考えすぎるから向かないと思う”
スマホの画面を消してベッドに入る。そして、谷杉への言い訳のストーリーを考える。

 次の日の昼休みに、職員室に行き谷杉にあい、ともに理科室に行く。
「先生、キャプテンの件は申し訳ないのですが、できればぼくではない人にお願いしてもらいたいです。」
「すごく生意気なんですが、ぼくは、プレイヤーとして本当の一流になりたいです。そして、絶対に花園に行きたいです。花園だけは絶対に行きたいんです。でも、僕は、キャプテンになったら、プレイヤーとして中途半端になってしまうのではないかと思うんです。もちろん、キャプテンをやることで、プレイヤーとしても大きくなれるのかもしれません。そういう人がたくさんいるのもわかっています。でも、僕にはそういう自信がないです。正直、全く自信が持てないんです。自分に。」
そこまで捲し立てる。谷杉は何も言わない。秒針がゆっくりと刻まれていく。
「これは逃げじゃないか、目の前の厳しいことから逃げて、自分に楽をしようとしているのではないか、そういうふうに自分に何度も何度も考えました。それで、やっぱり、これは、キャプテンという責任から逃げるということなんだろうとしか思えません。そして、僕は、本当に申し訳ないのですが、逃げたいです。ごめんなさい。」
少しだけ下を向く。谷杉のポロシャツのボタンあたりを見る。谷杉は首を少しだけ上に傾けて、軽く笑ったように見えた。
「おい」
谷杉は机の中からタバコを取り出して、左手にもつ。もちろん教室の中でタバコは吸えない。
「バカだなお前は。」
いつもの調子に、少しだけ僕は緊張が緩む。
「お前みたいな馬鹿野郎にキャプテンなんかやらせられないな。お断りだ。」
左手のタバコを机の上で軽くフィルターを叩く。
「でもな、言っておくけどな、お前のそんな甘っちょろい考えで、花園なんかいけると思うなよ。トッププレイヤー、県代表なんかになれると思うなよ。絶対に無理だ。腐った女みたいなこと言ってるなら、ラグビーなんかやめちまえ」
「キャプテンは一太にするよ。お前は、副キャプテンにもしない。バイスは小道にする」
「はい。わかりました」
「嘘をつけ。お前は何もわかってないよ。わかってないし、納得していないけれど、そう言ってるだけだよ。お前がな、その、お前のどうでもいい、腐った殻をかぶって、それを大事に大事にしている限り、お前はラグビーに向かないよ。前にもあったように、またじきに辞めると言い出すと思っているよ、俺は。」
「もちろん、俺はお前に期待しているよ。それだけは言っておく。お前を見ていると、俺を見ているようだからな。だから、絶対許さないよ、今回のことは。」
「責任はとれよ、責任。この件の。責任の取り方を考えて、その答えをグラウンドで見せてくれ。」

 金曜日の16時過ぎに、体育館の2階の卓球場に、2年生24人と、1年生32人が集まる。3年生の引退後の初のミーティングで、今日は新しいチームの幹部が決まるだろうということはみんながわかっている。
 1年生の中では、誰が次のキャプテンかの賭けが行われていて、僕がダントツの1位で、2位が星野だった。見る目のない下級生たちだった。
 キャプテンについては、2年生の中では、なんとなく僕が「引き受けないんだろうな」という雰囲気を感じていて、そのためか、ここ数日、あまり僕に話しかけてこなかった。谷杉から呼ばれたこともみんなが知っていた。それに、明らかに、僕の顔はここのところ生気がなく、言葉数も少なく、なんなら妙に真面目に授業に出ていた。普段の僕は、つまらない授業はせっせとエスケープし、部室でポーカーやら、麻雀やらをしていた。それが、授業に出て何やらぼんやりしているのだから、「変だな」と思われるのは当然だった。
 上級生が内側に、それを取り囲むように下級生が座り、谷杉が例によって輪の外側から話をする。
「3年生たちは、本当はベスト4まで行けていた。審判のミスで俺らはベスト8にされたが、力は完全に廣川工業に勝っていた。彼らは花園に行く。本当は、俺らに負けた彼らがだ。そこは、本当は俺たちが行くはずだったところだ」
体育館の2Fが無言になる。冷たい凛とした空気の中に、僕らは3週間前の試合を思い、熱くなる。56人が熱くなる。
「来年は、絶対に俺たちが花園に行く。目標はそれしかない。そのためには、全員が、ここにいる全員が、鬼になれ。俺らが最後、廣川工業に対して、鬼になれなかったから負けたんだ。それは、練習から、練習試合の1つ1つから、鬼になれていないからだ。俺は今年、完全なる鬼になる。お前らを、徹底的に扱き倒す。そして、お前たちを鬼にする。鬼になれない奴は、捨てていく。花園に行くというのは、そういう覚悟が必要だ。」
「だからな、死を覚悟しろよ。死ぬか、花園行くかだ。それが嫌なやつは、明日から来るな。今年のチームにはいらない」
誰かが唾を飲み込む音がする。液体が滑る音が体育館に広がる。
「そうだよ。その気持ちだよ。息をのめ。自分に聞け。俺にできるか、やり切れるか、覚悟があるか。5分だけ時間を取る。花園に行くことに、命をかけられないなら、花園より自分が大事なら、何も言わないから、ここをされ。」

 期末テストが近いため、体育館の部活は皆休みだ。谷杉の言葉を受け、56人が体育座りで無言になる。誰かが天井を見る。誰かが少し左の人を見る。空気が煮詰まっていく。明らかに空気の密度が濃くなっていき、重くなっていく。乾いているはずの体育館の湿度が上がってくる。隣の仲間の息が聞こえてくる。その息を僕が吸い込み、ゆっくりゆっくり体に染み渡らせて、細胞中の細胞でガス交換をして、そして、もう一度その空気を吐き出していく。そして、その空気を、誰かが吸い込んでいく。
 誰も何も話さない。そして、少しだけ周りを見る。目は伏せがちだ。だけど、その目は強く、花園を見ている。みんなの目が、今この目の前に花園を見ている。

「いないな。」
谷杉はみんなの輪の中に入ってくる。
「俺は、その観点でキャプテンを考えた。つまり、俺のように、俺の化身として、鬼になれるやつをキャプテンにする」
「一太、お前が次のキャプテンだ」
一太はのけぞる。
「お、俺っすか。俺でいいんですか?」
「不満か、嫌か」
「いや、やります。俺がやります。俺が花園に先生を連れていきます」
「よし」
「バイスは小道がやれ」
小道は一太以上に飛び退く。
「え、マジですか。」
「めんどくせえな、お前ら。やるんだろ。いちいちぐちぐちいうな」
「は、はい。やります」
ある意味意外な展開に、指名された2人以外がざわつく。そして、誰彼となく、こそこそと僕の方を見る。吉田さんじゃないんだ、という小声も聞こえたような気がする。僕は耳を塞ぐ。耳につながる脳神経を塞ぐ。
「いいな。よかったらお前ら、拍手だよ、拍手。何黙ってるんだ」
谷杉の声が、みんなの上にかかっていた薄い霞を払い飛ばす。
「一太、小道、立て」
2人はターンオーバーされた後みたいに慌てて立ち上がる。大きな拍手が響く。1年生の仁田が指笛を吹く。
 新しいキャプテンとバイスキャプテンが誕生し、チームは新しいシーズンに入っていく。どんな1年になるのかはわからないけれど、きつい練習が待っているのは間違いない。だけどしょうがない、花園を本気で目指すのだ、僕たちは。ベスト8じゃない。本気で花園だ。そして、その可能性を、僕たちは十分に感じている。手は、少しかかっていた。今度は、もぎ取るんだ、その手にかかったものを。今までとは違うステージに行くのだ、少なくともその気持ちだけは、今この瞬間はみんなが共有した。
 僕だってそうだ、その気持ちに偽りはない。
 でも、一太が指名された時に、誰もが「え、吉田さんじゃないの」という感じの息をしたことを僕は感じる。そして、それに対して、僕は、十分予想していたし、そういう状況になると思っていたけれど、やっぱり「逃げ出しだんだ」という思いを拭えなかった。どうしたところで拭いきれなかった。みんなの吐き出す空気によってできあがった澱みを、申し訳ないと思った。
 もちろん、僕は何もできないし、何も言えない。そして、その空気は谷杉の一声で薙ぎ払われ、僕は救われた。

「お前が部長だと思っていたよ、俺は」
駅に向かう帰り道に一太僕にいう。
「悪い。俺も、俺がやるんだと思っていた。だけど、谷杉に断った」
「どうして?」
僕は空を見てみる。もちろんそこには何も答えはない。
「俺、自信ないぜ、正直。なんでお前やんなかったんだよ」
そうだよな、と思う。鼻から中くらいの息を吸い込んで、肩から吐き出してみる。
「ごめん。怖かった。部長やって、みんなのトップに立つのが怖かった。それだけだよ。本当に。それで逃げ出した」
「なんだよそれ」
一太は拍子抜けしたようにいう。そしてカラカラと笑いだす。
「お前らしいよ。やられたよ。全く」
「俺も、谷杉に呼ばれたんだよ。部長やるかって。それで、俺じゃ無理です、って言ったんだぜ、吉田がやるべきだ、って。そしたらさ、谷杉は、”吉田がやらないなら、お前がやれ”っていうから、俺、お前がやらないなんてないと思ったんだ、だから”はい”って言っちゃったんだよな。」
「お前が断ったのか。そう来るとは思わなかったわ」
僕は唇をへの字にして一太を見る。
「吉田、助けてくれよ、特にバックス。小道じゃ頼りないからな。部長じゃなくたって、お前がチームのリーダーであることは変わりないと思うぜ。そうでないとダメだろ、うちは。」
一太が僕のバッグをポンポンと叩く。
 わかってる。ありがとう。
 僕がチームを引っ張るんだ。そのために、そのために、キャプテンを降りたんだ。本気だよ、それは。もう一度自分に言い聞かせる。
「一太、いくぜ、花園。それだけだよ。」
 
 11月の終わり、18時前の帰り道は、沈んでしまった太陽の残り火すら見ることはできない。しかし、ここから、次の日が昇るまで、僕らは必ず強くなる。強くなって戻ってくる。

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