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深夜の運転席にて

 僕は冷蔵庫から缶ビールを1本取り出し、宿舎の駐車場に停めてある白いクレスタの運転席に座る。

 菅平の深夜2時過ぎは、9月の初旬でもしっかりと冷え込んでいて、さっきまで遠乗りをして帰ってきたばかりの車内も、ひんやりとした空気と人の体温の生暖かい空気とが混ざり合っている。

 エンジンをかけて、カーステレオのCDのプレイボタンを押して、運転席のサイドレバーを引き、リクライニングを30度くらいまで倒す。体は緩やかなくの字に曲がる。足を投げ出し、左手に持っていた缶ビールのプルタブをあけ、少しひやりとするくらいに冷えたビールを口にする。CDプレイヤーからは相川七瀬の「 SWEET EMOTION」が流れてくる。流し込んだビールと、聴き慣れた音楽がようやく僕の心の震えを少し緩やかにしていく。

 

 ラグビー部の合宿に来ていた僕たちは、その日の夜は、女子マネージャー2人と男子部員4人で2台の車に乗り草津の温泉まで走り、公衆温泉に入ってから、2台で競争をしながら戻ってきた。随分とみんなお酒が入っていて、加えて僕はそのうちの1人の女の子に2年くらい恋をしていた。飲酒運転をしているという事実、スピードを出してカーチェイスをする興奮、さらに隣の助手席には彼女が座っている高揚感、そして合宿の3日目の夜の疲労感などが混じって、宿舎に戻ってきてからも僕の心はこれまでに経験したことのないような震えが続いた。心臓の鼓動が強く感じるだけではなく、胃からは何かの液がとろとろと滲み出てきて、腸の下の方には小動物が存在するかのようにくすぐったい。それらが合わさり、僕の心はこれまで経験したことのないような揺れに見舞われ、おかしな挙動をしていた。

 1時過ぎにみんなは寝付いたのだけど、僕にはどうしても眠りが訪れなかった。

 

 先ほどまで降っていた雨はやみ、湿度の高い空気は徐々に冷やされ、少しずつ黒い夜の闇に薄い膜が降りてくる。すぐ向こうには山があるはずだけれども、その姿は見ることができなくなっている。風はない。空気の動きが感じられず、何かに包まれているような感覚がある。車の運転席周りのパネルはオレンジ色で、タコメーターと速度メーター、そしてガソリンの残量のメーターは動くことなく、左下のラジエーターのメーターだけがゆっくりとその針を右上に動かし始めている。オーディオパネルはブルーで、深い山の深まる夜の重たい空気の中に、その2色だけが僕の顔と、ビールの缶を浮かび上がらせている。僕はその闇の中で自分の心の震えと共にビールを3分の1位まで飲む。

 一体僕は、いつまでこんなことをしているんだろう。

 僕はいつまで、彼女に対してどっちつかずの態度でい続けるのだろう。

 彼女のことが好きなのは間違いないのに、いつまでも品のいい執事のようなことをしているのだろう。今の関係を続けることに何かの意味があるのだろうか。

 そして僕は、いつものように、彼女になってみる。彼女になって、僕のことを考えてみる。そうすると、何度考えてみても、僕の存在は重要な恋愛対象であるとは思えない、という結論に至る。何度も何度も彼女になって僕のことをみてみた。そうすればするほど、僕は滑稽な存在に見えた。彼女は当然、僕が好意を寄せていることを知っている。僕はそこに疑問を持っているけれど、彼女になってみれば、そんなことは月が満ちるのと同じように、自明の真理に思えた。それを分かった上で、彼女は僕を上手に扱っている。その好意を利用して、自分に都合のいいように僕を手のひらで回している。少し気のあるようなそぶりを見せればお金は出してくれる、車で送迎はしてくれる。それでいて、本当に大事な時に時間を一緒に過ごす必要はない。誕生日は別な男と過ごした。飲み会でも二次会以降は僕とは一緒のところにはいない。それでも、僕は離れていかない。離れていかないことを彼女は分かっている。

 それでも、僕は何かを期待していた。理屈でわかることが全てではないし、現実になるわけではないと自分に言い聞かせていた。そうすることで、僕の中の何かのバランスをとっていた。しかし、この日は僕はそのバランスをとり続けることができなかった。天秤の右側に大きな重りが乗せられて、慌てて左側にもなにかを乗せるのだけれど、今度は左側が重くなりすぎて、右にも少し重りを加える。すると、また大きく天秤は揺れ動き、僕は左側の重りの位置を変えてみる。しかし、どうしても天秤はその均衡を取り戻すことができない。

 片方の天秤には、彼女への強い思いがある。もう片方には、彼女に対しての憤りがある。そのバランスが、夜のドライブやらその疲れやれで均衡を失い、僕の心の揺れは収まることができなくなっている。バランスが取れないから、両方に重りを加えていくことで、彼女への好きという気持ちはどんどん高まり、一方で彼女への不安と憤り、そして怒りに似た気持ちもどんどんとましていき、僕は自分の心のこの震えを、どこかに大きくぶつけなければいられない衝動に包まれる。ハンドルに両方の拳をぶつけ、右手の拳ではドアガラスを叩きつける。


 でも、僕の左手にはビールがまだ3分の2残されていて、僕はその半分を一気に飲んでみる。

 冷たい。そして、少し痛い。けれど優しい味がする。

 21歳になったばかりの僕は、少しだけお酒の味を知る。

 

 フロントガラスの向こうにある霧と、闇と、山を見続けているうちに、CDプレイヤーはサザンオールスターズの「LOVE AFFAIR」を流し始める。ボーリング場で彼女と2人で行ったことを思い出す。何人かで大黒埠頭に行ったこともあった。僕は目を閉じる。

 

 僕は彼女に、きちんと告白をしようと決めた。


 曲は終わり、山の音だけが聞こえてくる。夜の山の音は少し小気味がいい。木や森も、夜には夜の音があるのだと気づく。そして、僕は残っていたビールをしっかりと飲み終える。だいぶ二酸化炭素のいなくなったビールだけど、それは僕の心の潤滑油となり染み渡っていった。

#ほろ酔い文学

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