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【短編小説】猫人2

 大学2年の夏の少し前に羽衣子と出会った。出会いはごくありふれたところで、僕らの大学のサークルの新入生として彼女が達やってきて、飲み会を何回か重ねるうちに少しずつ距離が近くなり、6月の終わりに僕の車で千葉の九十九里浜までドライブに行ったあたりから、しっかりと付き合っているという感じになっていた。
 愛知県の知多半島から東京に出てきて、服飾関係の専門学校に通っていて、錦糸町で単身赴任をしていた父親と共に暮らしていた。身長は160cmを少し超えた華奢な体で、無造作に散らされている感じのふわりとした黒い髪の毛が印象的だった。サークルには同じ学校の友達と3人できていて、その中でも決して目立つタイプではなかったのだけれど、僕は初めてみた時からどうしてか彼女のことがとても気になっていた。
「本当に何もないの。水すらないの。だから用水を引いて水を恵んでもらっているの」
地元のことを話す時の彼女は必要以上に自虐的で、かつそれほど多くを語ろうとはしなかった。言葉数は多くないのだけれど、小さく笑う時の目尻の下がり方というか、静かな林が風にそっとそよぐというような雰囲気がとても素敵だった。
「でも、吉田くんといると、いろいろ話せるの」
彼女はそういうけれど、実際のところ、彼女はそれまでに僕が付き合ったり、少し深い関係になった子たちの中では、圧倒的に言葉の少ない方だった。僕もかなり口の回らない方なので、僕らが二人で車に乗っていたり、梅雨空の海を見たりすると、どうしても無言の時間が多くなるのだけど、言葉のない時間の方が、その時間の空気がとても温かく感じられた。
 雨の九十九里浜を走り、サーファーが少ししかいない海岸に立ち、どんよりとした雨雲とうねりのある深い藍色の海と、そこに躍る白い波飛沫を見ながら、特に何を話すともなく、傘を差しながら1時間近く海を、雲を、見ていた。
「僕らって、付き合っているんだよね、きっと」
彼女は海を見たまま小さく頷く。あるいは頷いたように僕には見えた。

 付き合い始めての最初の夏は、プールに行ったり、隅田川の花火大会に行ったり、他の友達と一緒に温泉に行ったりした。学校は早々に終わり、バイトをして、サークルに行き、空いた時間の多くを彼女と過ごした。お父さんのいない時は、彼女の家にも行った。
 
 あまりにも順調に行っていたからこそ、8月の後半の暑い日に、彼女が僕の前から消えてしまった(文字通り彼女は消えた)ことに対して、僕はどう理解していいかわからなかった。
 その日は、17時に錦糸町のパルコの1階の入り口で待ち合わせをしていた。封切られたばかりの映画を見て、その後は彼女の家に行くはずだった。
 よく晴れた夏の終わりの暑い日で、17時に錦糸町を行き交う人は皆、少し暑さにうんざりという顔をしながら、それでいて、終わりに向かう夏を少し惜しんでいるようにも見え、バスの音、電車の音、車の音と合わさって、夏の夜に向けて少し何かを楽しみにしているように見えた。あるいは、僕自身がそういう思いだったからこそ、そのように見えたのかもしれない。羽衣子といた日々は、随分と満たされていて、世界も僕と同様に満たされているように見えていたのかもしれない。
 しかし彼女は現れなかった。17時10分を過ぎても現れないのでラインを入れる。しかしそのメッセージは既読にすらならない。17時30分を過ぎて、僕は彼女に電話をする。しかしその電話はなることもなく留守番電話につながる。ちょっとためらないながら留守電にメッセージを入れておく。
 大体にして、彼女は時間にはとてもしっかりしたタイプで、少しでも遅れようものならば、あるいはその可能性があるならば必ず前もって連絡を入れてきた。だから、このような事態はひどく僕を混乱させた。もしかしたら彼女に不測の事態があったのではないか、と考えてみる。交通事故とか、急に入院をするとか。あるいは、僕が予定を間違っているのかもしれない。ただその場合は、彼女は僕からのメッセージを見て何かの反応をするはずだ。
 17時50分になって、僕はあらゆる可能性を考えるのをやめ、とりあえず錦糸町の彼女の家に向かってみる。
 京葉道路に出て東京方面に歩く。江東橋の交差点に出て大門通りを左に入る。数分歩いて首都高7号線の見えるあたりの小さな4階建てのマンションのエントランスに立ち、彼女の部屋番号を押してみる。
 3回呼び出しをかけてみて、反応がないことを確認して、僕はもう一度彼女に電話をする。電話にも反応がないことを確認し、僕はマンションを出る。
 これは一体どういうことなのだろうか。薄い煉瓦色のマンションを出て首都高の方を見て、綿菓子のようにぽっかりと浮かんでいる雲を見上げる。彼女はあの雲のようにどこかにちぎれて逸れてしまったのだろうか。一体彼女に何があったのだろうか。急に僕と付き合うのが嫌になり、全てを切り離して僕から逃げているのだろうか。それが一番ありそうな話だけれど、つい昨日まで、あんなに親密にしていたのに、突然180度話が変わるというようなことはあるのだろうか。風が抜けない、熱がこもる、車の音と共に、工場の音なのか何か、うねりのような音が合わさった交差点で僕は立ち止まったままちぎれ雲を見続ける。しかし、その雲はあっさりと形を変え東の方へ消えていき、見えなくなった。
 羽衣子とはそれから2度と会うことも、携帯に連絡がくることもなかった。文字通り彼女は僕の前から消えてしまった。
 
 34歳の夏の終わり、僕は神楽坂の赤城神社のあった場所(今も神社はあるのだけど、不恰好なマンションが敷地に建ってからは神社は死んだ)の横の急な坂を下る。19時に近い少し秋を感じる夕暮れは十分に暗く、珍しく人影も少ない。焼き鳥屋さんの赤い看板を左手に見て急なカーブを曲がる。右手の後側は神社への階段がある。その時、僕はその階段の上の神社の森に近いところに何かの物影を見る。
 僕は立ち止まる。とても嫌な思いと共に立ち止まる。
 僕は長らく猫を飼っていた。今の彼女との間には2匹のロシアンブルーが存在する。だから、猫の気配には少し敏感なところがある。その時僕は、確かに猫の気配を感じた。あるいは、猫の何かを見たような気がした。
 猫?
 僕は神社へ向かう急な階段へ振り向く。
 そこに僕が目にしたのは、世にも悍ましい生き物だった。約70m先に立つその生き物は、真っ黒な猫と思われる顔を持ち、真っ黒な服らしきものを着て、真っ黒なズボンを履いて、二本足で立っている。
 その生き物は、僕の存在を認めると、一歩づつゆっくりと階段を降りてくる。
 近づいてくると、その顔がはっきりと見えてくる。耳は両側にねじ曲がった二等辺三角形のような形でつき、その頂角は45度くらいであり、信じられないくらいに黒い。この世のあらゆる染料という染料を注ぎ込んで作ったような黒さだ。白眼の部分はしっかりと黄色になっており、黒目は人魂のような形になり、左は左斜め下に向き、右は右上に傾いていて、それぞれが全く別な方向を見ている。目と目の間には鼻筋が大きく盛り上がって通っていて、その先は鋭く尖る。左の頬には灰色の髭が3本あり、胸の辺りまで大きく湾曲しながら伸びている。口は煤けた赤色で、半開きの口からは下から小さな八重歯が2本だけ見える。
 固まりながらも、僕は冷静に考える。これは、猫の被り物をした人間だろう、と。しかし、その被り物を被った総体としての猫人とも言えるその姿は、神社の下ということを併せて考えると、十分におぞましいものに見えた。
 彼、あるいは彼女と僕は、赤城下町の路地で2mの間で正対する。
「吉田・・」
マスクの下から出るくぐもったその声は掠れ、男とも女とも判別がつきにくい。僕は何も言わずに少し強く猫人を睨む。
「私は、あなたが人間として許せないレベルの下郎であることを知っている。」
猫人はいう。続きを待つ。しかし、今度は確実な敵意と共に。
「私は、あなたが、今の彼女に対して、本当は優しさなどないのに、下心で看病をしていることを知っている。彼女が精神的に困っていることに託けて、それを慰める、助ける善意を示すことで、本当は彼女との復縁を目的にしている。」
「あなたは、仕事においても、部下のことを思って、お客様のことを思って、といつもいうが、本当は、自分がよくなりたい、自分が儲かりたい、自分が評価されたい、その気持ちでしか行動していない。」
「そして、それが、その心を他人に知られることを心から恐れ、巧妙に隠し通そうとしている」
猫人は僕のことを知っている。ちょっと知っているというレベルではない。明らかに、僕の仕事を知り、僕の今のプライベートをよく知っている。誰だ、誰なんだ。僕は頭の中をあちこち探る。
「お前はすでに一人の人間を殺してさえいる。」
それは嘘だ。僕はこの人生において、人を殺してなどいない。決して、決して。
「誰ですか、あなたは。」
僕は小さな声で、だけどしっかりと怒気をこめて、それが伝わるようにいう。
「お前は、自分のことしか考えない。だから、私を殺したことすら気づかない。そして、自分が、自分のことしか考えていないことを絶対に悟られないように、嘘と偽善のかぎりを尽くしている。それにより、誰かが殺されてしまっていることなど考えもせずに。」
「つまり、お前は、殺意を持って誰かを殺そうとしている人より、ずっとずっと罪深い人間だ。」
僕はもう一度猫人を見る。その目を正視する。これは被り物だ。この下には人間がいる。間違いない。そして、これは趣味の悪い悪戯ではない。この人間は何かの敵意を持って僕に近づき、僕を貶めようとしている。
 僕は猫人に襲い掛かる。この人間は誰なのか、誰が僕を、僕の体の中にある根っこを引っ張り出して、白日の元に晒そうとしているのか。それは、絶対に許されない、断じて許されないことをしようとしているのか。場合によっては僕はこの生き物を殺さねばならないとも思う。
 猫人は素早く身を後ろにしようとするも、あえなく階段に足をつまずき転んでしまう。僕はその上に馬乗りになり、左手で猫人の右の肩をぐっと押さえつけ、その被り物を取ろうとする。
「待って。」
僕の体の細胞が、その一声で全ての活動を停止する。12年経ってもわかる。その声は羽衣子の声だった。今は亡き赤城神社から波の音が聞こえたような気がした。

「マスクは取らないで。」
「羽衣子・・」
僕は馬乗りになった体から飛び降り、2歩後退りをする。
「吉田くん。随分と探したのよ。」
僕は言葉を探す。しかし言葉は見つからなかった。
「あの日、吉田くんは、私にどうして気づいてくれなかったの? 錦糸町のパルコの前で私はあなたを待っていたのに、あなたは私に気づいてくれなかった。あなたは、駅寄りの入り口の前で携帯を手にしていた。私は京葉道路の方からきて、あなたの前に立ち、あなたに手を振った。でもあなたは気づいてくれなかった。それで私は、あなたがもう私とは会いたくないのだと思って、その場から去ったわ。」
そんなわけはない。彼女のことを僕が見失うわけがない。僕の近くにまできて、彼女を見間違うわけがない。彼女は嘘を言っている。
「それから私は、随分と落ち込んだわ。同時に、その頃からみんなが私を避けるようになった。学校の友達も、アルバイトの同僚も、そして父親でさえも。」
「私にはどうしてみんなそんなに私に嫌がらせをするのか、意味がわからなかった。だって、昨日までの私とその日の私には、何の違いもないはずなのに、みんなの私を見る目はまるで違っていった。」
「何度も死のうと思ったわ。でも、その度に、何かが引っかかっていた。何かが私の心の奥の井戸の底にあるの。私は、なんとかしてそれを見たいと思って、たくさんのことを考えてみた。」
「あなたと付き合った頃にあった出来事を1つ1つ思い出し、書き出し、それを文章にしてみた。悲しい作業だったわ。こんなに素敵な思い出に溢れるあなたが一瞬でいなくなってしまったことが明確になると、余計に悲しさが膨らんだわ。」
「でも、あの日の前日のことを思った時、私は大事なことを思い出したの。それは、あなたが私の家に、猫の被り物を忘れていったことを。いつもあなたが持っていた猫の被り物。あなたはそれを被ってはいなかったけれど、いつも持っていた。車の中でも、食事の時も。あなたはそれをその日私の家に忘れていた。私は、何の気なしに被ってみたの。特に何の変化もなかった、特に何も気にならななかった。被っていることすら気にならなかった。」
「そう、それがこの猫の被り物だと気づくのに、随分な時間がかかったわ。私は、この被り物をしていることを、それ自体を忘れてしまっていた。だから、みんなからは悍ましい生き物として、あるいは頭のおかしい人間として、目を逸らされるようになっていった。その理由が、この被り物のせいだということに、本当に随分と気づかなかったわ。」
「でも、あなたとの楽しい日々、私の人生で最高の日々の思い出を綴っていくことで、その最後の日を書くときになり、このことにようやく気づいたわ。そして、それから何日間かずっと私は泣き続けた。私にはどうしていいのかわからなかった。だったらこれを取って仕舞えばいいのかもしれない。だけど、それは、とてもとても怖かった。本当の私の姿を、私の顔を、私の心を社会に晒すことが、本当に怖かった。そして、それが社会に対して良いことなのかどうかも確信が持てなかった。社会はすでに、本当の私など必要としていなくて、この猫人としての私しか必要としていないのではないか。本当の私が本当の私であることがわかったとき、私は社会から不要な人間として抹殺されてしまうのではないか。何度も何度も何度もこの被り物を取ろうとしたわ。でも、でも、それはできなかった。」
僕は思う。何かがおかしい。だって、僕は、猫のかぶりものなど、持っていないし、持ったこともないし、被ったこともない。
「ううん、違うの。私はあなたのことに怒っているのでもなければ、あなたを恨んでいるわけでもないの。」
彼女は僕の心の揺れを感じ取る。
「この被り物は、あなたの顔。あなたの本来の顔。あなたは私といるときは、この被り物をしないで、本当の顔を、本当の自分を出してくれていた。私は、そのことに気づいたの。いつだったかしら、そんなに遠くない昔に。」
「そのことに気づいたとき、それならば、どうしてあなたは私にこの被り物を託したのかを考えたわ。随分と考えたわ。私はそれをあなたに聞きたいと思い、あなたのことを探した。そして、こうして今日あなたに会うことができた。」
「でも、あなたを探してみると、あなたのことを調べてみると、あなたという人間が、どうにもひどい人間であることがわかってきたわ。あなたは私の知っている吉田くんではないようだった。調べれば調べるほど、あなたという人間に吐き気がしてきた。だから、今日、私はあなたに会ってそのことを伝えようとしたの。」
「あなたは、私にこの被り物を被せることで、私を殺したの。私があなたから消えたのではないわ。あなたが、私を消したの。それも、確実な方法で。私はそう確信している。」
 そこまで話すと、彼女は猫人の被り物を音もなくとる。その下には、確かに羽衣子の顔がある。さらに痩せ、蒼白な色にやつれた彼女の顔があった。
 僕はその被り物を受け取る。人間の思い込みというのは恐ろしいものだ。そうだ、僕こそ猫人だったのだ。今こそ僕は、この悍ましい生き物として自分の人生を悔い改めなければならない。羽衣子のために。今の彼女のために。

#思い込みが変わったこと

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