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【小説】あかねいろー第2部ー 64)生きて帰ってこれるのは勝った時だけだ

  10月19日はあいにくの曇り空。灰色の厚手の雲が低く垂れ込み、午後からは雨の予報も出ている。風はない。僕らの試合は11時すぎからだ。9時には会場に入り、ゆっくりとアップをする。前の試合では、廣川工業が例によって大差をつけている。勝てば彼らと当たるのは間違いない。でも、まずは今日だ。

 ロッカールームに80人が集まる。アップの最後に、コンタクトダミーに体を当てているところから、僕は少し感極まってしまっていた。
 ここからだ。そして、ここまで来た。体に響く後輩たちの体の感触。違和感のない肩。最高の準備ができた。
 だけど。
 今日が最後かもしれない。今日が僕らの高校ラグビーの最後かもしれない。その想いは、お腹の奥の方から断続的に込み上げてきて、その度に目頭が厚くなる。
「桜渓大との試合は3回目だ。1勝1敗だ。今日、彼らと決着をつけて、そうして、俺らの秋はここから始まるんだ」
一太が低い声で言う。誰も何も言わない。遠くで、すごく遠くでホイッスルの音がする。
「去年の俺らは、ここで、分厚い壁に跳ね返された。最後の最後で」
目を瞑る。試合の後、駐車場で見上げた空と、青い鳥のことを思い出す。
「俺らは去年を超える。もう確実に力は、去年を超えている」
「必ず勝つ」
僕ではない誰かも、鼻を啜る。気持ちが昂って、抑えられない。僕は涙が止まらなくなる。
「吉田。頼む」
試合前の声出しは、今日は僕がやることになっていた。良くも悪くも、今日は僕の試合だ。僕がタウファを、桜渓大付属を挫くのだ。
 強く鼻をしゃくりあげ、右手で左目の目尻を拭き、80人の輪の中心に立つ。
「今日、俺は、新しいパンツをはいている。BVDの白の新品だ」
誰かが少し笑う。誰かはそれをこらえる。
「俺が死んだら、清隆、お前が俺のパンツを脱がせ」
清隆は少し不貞腐れたように小さく頷く。
「よし」
大きく息を吸う。
「じゃあ、行こう。生きて帰ってこれるのは勝った時だけだ」
僕は両手を膝につき中腰になる。80人の輪が小さくなる。全員の体がぴたりと吸い付き、小さな塊になる。
「絶対勝つぞ!」
その声に、80人が、腹の底から、これ以上は出せないような呻き声をあげて体を震わす。10秒間、すべての息が切れるまで叫び続ける。

 コイントスで勝った桜渓大付属のキックオフで試合はスタートする。22m付近で大野がキャッチするとすぐにラックになる。僕らの今日のテーマは「ゆっくり正確に」だ。強みであるFWをしっかり前に出して、彼らの望むような、アンストラクチャーな展開をできる限り減らしていく。ラックからも、すぐに出さずに、SHの岡野がゆっくりと左右を見渡し、足でボールを整えて、レフリーからの「ユーズイット」の声がかかってから少ししてから、よいしょとボールを持ち上げてタッチへ蹴り出す。
 早速自陣10m付近で桜渓大付属のラインアウトになる。しっかりとキャッチをすると、すぐにSHがボールをSOに放つ。僕らはそれに合わせてディフェンスラインを上げていく。SOは特に何の工夫もなく、すぐに12番のタウファにボールを渡す。
 僕はタウファの癖、ランコースは十分にインプットしてきた。彼のブレイクは、圧倒的にラインに対して、インをつくことが多い。流れてくる全体に対して、スピードを緩めることなく斜めのランコースで相手を弾き飛ばしながらインに入っていく。そこにFWがフォローをしてくる。この形がとても多かった。ゆえに、僕らは、とにかくインサイドへの切り込みを僕が切り、そこだけは絶対に抜かれないようにして、その代わり、8番、9番で僕の外をしっかりカバーしようと言うプランだった。相手のブレイクポイントと違うところならば、たとえブレイクを許しても、一気にトライまで行かれることは少ないように見えた。
 僕は、彼よりも少し右に立ち、インサイドから彼を追う。ラインアウトからなので、距離は大きくあるが、5、6mまでは全力で詰め、そこからは一旦スピードを落としていく。
 それでもタウファは、僕を弾きにくるだろう、そう思っていた。アウトサイドが抜けそうだと思っても、まずは一番の強みであるインサイドをついてくるだろうと。そこで、僕を吹っ飛ばしにくるだろうと。そうして、決定的な力の差を見せつけようと。
 僕は、この最初のプレーを、スクラムからとラインアウトからの2パターンを、何度も何度もイメージしてきた。毎晩、寝る時にはずっと瞼の裏に投影してきた。
 距離があるときは、彼は相手のタックルに対して、正面から当たろうとはしない。少しずらして、ボールを片手でもち、もう一方の手でハンドオフをして、相手のディフェンスを弾いてくることが多い。そのハンドオフの手を取るのだ。体に行こうと、強く体を当てに行こうとすると、逆に彼の思うツボで、ハンドオフ、体のバランス、体感の強さを生かして上手に僕を弾いてくるだろう。けれど、気持ちよくタックルしなくていいんだ。僕の役目は、彼の動きを止める、少しでも緩めることだ。そして、僕自身の体が死んでしまわないことも大事だ。
 派手さはない。けれど、このファーストタッチで、タウファは僕らの網にかかる。
 案の定インサイドにステップを切り、僕の横をすり抜けようとする。この時に、ボールをもらった時よりも、ギアは2つくらい加速するところが彼の尋常でないところだ。
 僕は、その彼の、右手を取る。右手に絡みつく。姿勢は高いままだ。そして、その姿勢のまま手をたぐり、胴体に体を巻き付けようとする。しかし、彼は、お尻から上の上半身を馬のようにぶるぶると震わせて、僕の手を払う。一旦僕の手は解ける。しかし、僕の体は倒れていない。手を払われながらも、もう一度僕は彼に追い縋る。そうしているうちに、フランカーの横山がタウファに追いつき、足元にタックルに入る。
 それでもタウファは、2歩3歩、足を進め、僕と横山に、一太が入ってきて、ようやく倒れる。そこに桜渓大付属のFWがしっかりと集まりラックを形成する。タウファのゲインは10m程度だった。
 ラックからは素早くボールがバックスに供給される。しかし、そのバックラインにはタウファはいない。
 SOは、僕らがかなり速く詰めていることを見て、自分で僕らのSOの小道の内側をつく。しかし、そこは、FWの近場は僕らの方が多少分があるゾーンで、大きなゲインはできない。大野がジャッカルを試みるも、もう一息。ただ、球出しにはプレッシャーがかかり、確実にスローダウンする。タウファがようやくラインに戻っていくが、まだ彼の準備は整わない。
 SOもいないこともあり、一度FWでサイドをついてくる。3番がボールを持ってオープンサイドに走り込んでくるが、ここはなかなか彼らには難しいゾーンで、僕らは3番をがっつりと抑えると、二人がかりで押し返し、ゲインラインの向こう側まで持っていく。
 タウファがラインに戻っていく。僕もラインに並ぶ。タウファの位置をしっかり確認する。彼の顔を見る。前は、少し思うように行かないと、明らかに顔色に出るところがあったが、至って落ち着いた表情で、FWに向かって何かを叫んでいる。ひとまわり成長した、と雑誌に書いてあったが、まさにその通りに見えた。
 僕は、タウファとの2度目の対峙に構えるが、その前に長い笛が鳴る。桜渓大付属の7番がラックで寝たままプレーをしたと言うことで、ペナルティが告知される。
 僕らは、ポイントに集まりハイタッチをする。タウファに、ある程度のゲインはされたけれども、それは想定の範囲内に収めることができ、しっかりその後のアプローチでマイボールにできたことは、準備してきたことの正しさを感じさせた。

 小道のタッチキックは相手陣の10mと22mの真ん中あたりまで。そこでマイボールのラインアウトになる。
 ラインアウトは上手にキャッチができ、そこからまずは大野がサイド、密集から3mくらい離れたところ、SOと密集の間をついていく。これも、ここが割と間があるのと、桜渓大付属のSOがあまりタックルが好きではなさそうな感じがしたので、そこを積極的に攻めようと言うのが事前のスカウティングだった。案の定、割と簡単に5mほどブレイクをする。次のラックからも、同じようにオープンサイドを、今度は一太がぶりぶりとボールを持って突っ込んでいく。この密集で、相手はたまらずに倒れ込んでしまい、2つ目のペナルティがやってくる。
 敵陣22m少し出たところ。ほぼ真ん中、少し左。
 僕らは、今日は、狙えるところは狙うと決めていた。一太が迷わず、ゴールを指差す。
 風は相変わらずない。曇り空の下、空気は少し冷たい。山の奥の方が霞んでいる。
 小道は、迷わずにルーティンをこなして、難なくゴールポストを通していき、3点を先制する。


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