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【短編小説】野球をやめる

  中学3年生の最後の大会は、期待された割には実にあっさりと負けてしまい、長い夏休みと、何の感興もない受験シーズンがやってきた。


  受験については、高校でも野球をやるつもりでいたので、野球の強豪校でそれなりの偏差値のある学校をピックアップし受験をすることにしていた。野球推薦もある学校だけど、甲子園の常連校でもあるその学校に推薦でお呼びがかかるようなレベルではないので、一般受験で受験をした。
  

高校受験ほど憂鬱な受験はないと思う。好き好んで受験するわけではないし、それでいて人生で初の選択ということで、先の見えない緊張感が続く。学力的にそんなことはないとわかっていても、どこかで「全部落ちたらどうしよう」という気持ちが拭えない。受験期には僕はだいぶ抜け毛に悩まされた。塾にもいっていなかったので、受験についてあれこれと相談したり話したりすることもあまりなかった。
  

 何とか受験が終わった後に、僕は合格したその学校の練習に2度参加した。受験の前の相談会の時にも、合格したら練習に来るように言われていたし、受験の時の面接でもそんな話が出て、受験が終わった後には学校から電話もかかってきた。
  

 本当は僕は、その私立の強豪校と、公立の学校との進学には少し迷っていた。心の中のどこかで、本当に野球で甲子園に行くような力があるか、自分を疑っていた。疑っていたというか、自信がなかった。そして、私立の学校の学費の高さも引っかかっていた。親からはいつも「お金がない」と言われていた。でも僕が、野球で頑張りたいという限り行かせてくれるのはわかっていた。だからこそ気にかかっていた。
  
  2月の後半。まだ十分に寒い冬の終わりに、東京の都心の中の西のはじの方にあるグランドに行き練習に参加した。狭苦しいグランドで、周りはそこそこ高い建物に囲まれている。僕らの街の、田舎の森に囲まれた広々としたグランドとは大違いだった。その中に新2、3年生が60名程度、さらに新しい1年生候補が20名程度初回の練習に来ていた。


  僕はまずもって、その集合時点で圧倒されていた。僕は身長171cmで、大きくはないけれども、そんなに小さい方でもないと思っていたけれど、明らかにその20名の中では小柄だった。僕より小さいのは一人しかいなかった。みんななんだか木偶みたいに大きかった。そして、自己紹介が始まると、僕はいたたまれない気持ちになってきた。初めの子は愛知出身で、中学生の日本代表にも選ばれたことのある投手で、兄も同じ学校の野球部にいるらしい。次の子は僕と同じ県出身で、シニアの世界大会に出たことのあるチームのキャッチャーだった。


  つまり、野球で全国クラスの子がどっさりと来ていた。唯一僕より明らかに背の小さい子も、なんと100mのとある県のチャンピオンということだった。軟式の県代表補欠と言うような雑多なレベルの子は僕のほか数名しかいなかった。


  さらに、キャッチボールが始まると僕の劣等感は格段と進んだ。そもそも、硬球をちゃんと投げるのは僕は数回めで、言えばグローブもまだ軟式用のものだった。ペアを組んだ同じ県のシニア世界大会の子のボールを受けると、正直言って手が痛くてたまらなかった。見た所、硬球で練習をほとんどしたことのない子は、これまた僕を含めて数名、という感じだった。投げるボールの速さ、何よりもスピンについては、受ければその人が全く別物であることをすぐに感じた。


  ただ、練習そのものは、軽い内容で、キャッチボールをして、トスバッティングをして、走塁練習が少しだけで、そのあとはコーチや部長からの話が続いた。その話自体は、なぜかとても僕のことを慮ってくれているかのような内容で、ここには野球推薦、推薦入試、一般入試の子がいるが、入ってからは横一線で過去の実績なども何も考慮しない、今の2、3年生も一般入試からレギュラーになった子が半分以上いる、というような内容だった。入ればまずはみんな下積みだ、みたいなことも言われた。それ自体は僕には少しほっとする話だった。
  
  それでもその日の帰り道、一人で電車に乗って帰るときは放心状態だった。


  来ている人たちのレベルの高さ、体の凄さ、経歴の凄さ、そして硬球の痛さ。何と言ってもキャッチボールの時に感じたレベルの違い。その一つ一つが僕の15年間を否定しにかかっているように思えた。


  僕は野球一筋、野球にかけてきた。そのために犠牲にしたこともたくさんあったように思っていた。けれど、そんなものは、ここでは決してアドバンテージになるようなものではないのだと思い知らされた。キャッチボールをして、球を受けるたびに、ふにゃふにゃなボールを僕が投げるたびに、その事実が白日の下に晒されていくように感じた。


  なんと無駄な15年だったことか。なんと意味のない15年だったことか。電車に揺れ、背中に入れたボロボロのキャッチャーミットのことを思うと、心が震えてきた。そう、僕のグローブは、明らかに集まったみんなの中で一番ボロボロだった。みすぼらしかった。でも、僕のレベルの野球では用具について贅沢は言えなかった。今のミットは中1の夏にキャッチャーをやるとなって買ってもらったものだった。それ以来、それだけでやってきている。無印のキャッチャーミット。ミズノでも、ゴールドステージでも、アンダーアーマーでもない。「それどこのミット」と言われて答えられなかったときは、本当に恥ずかしかった。


  その背中にあるミットのことを思うと、無性に親に申し訳なくなった。余裕がない中で、お金のかかるスポーツをやらせてもらていること、決してうちの親は入れ込んで期待をかけてくるという感じではないけれど、それでも、私立の強豪校にも行かせてくれようとしていること、それと自分の今の姿を比べると、いたたまれない気持ちになった。


  気が付いた時には、知らない駅に到着するアナウンスが流れる。外を見ると、降りるべき駅から明らかに先まで来てしまっていた。慌てて僕は電車から降りてホームに立つ。

  2月の末の夕方は足が速く、16時を少し回ったくらいで十分に陽は赤い。細長いホームのすみにある5個つなぎのベンチに座り、反対側の電車をまちながら、僕はキャッチャーミットを取り出す。キャッチャーミットに夕陽が当たり、もともと赤茶けたミットがもっとずっと真っ赤に染まる。僕はその真っ赤なキャッチャーミットをじっと見つめた。ただじっと見つめた。ボールを受ける部分が真っ黒で、外の紐がいくつかちぎれている。これでどれだけのボールを受けてきたことだろう。何回このミットを雑に扱ってしまっただろう。何回、無造作に投げてしまっただろう。大事な大事なミット。僕の分身のようなミット。


  僕はそのミットが何かを語りかけてくれる、あるいは、僕を励ましてくれるかのような期待を持っていた。僕の15年間の時間と汗と努力が染み込んでいるこのミットが。


  しかし、夕陽がもう少し傾き、冷たい風に宵闇が紛れ込んできた頃に、ミットからの言葉よりも先にやってきたのは上りの電車だった。


  僕は、その電車を一本やり過ごした。そうせざるを得なかった。次の電車は20分はこない。


  しかし、僕にはその20分はあまりにも短すぎた。僕の15年間は、何も僕に語りかけてこなかった。涙すら出なかった。悔しさや、怒りのような気持ちすら出なかった。ただただ、親に対して申し訳ない、という気持ちしか出てこなかった。


  ミットをしまい、次の電車にゆっくりと乗り、ガラガラの夕方の上りの電車だけど、席には座らず、ドアの横に立ち、リュックを置いて窓の外の西日を見る。西日は明らかに沈もうとしていた。いうまでもなく、確定的に沈もうとしていた。それと同じくらいの確かさで、僕はが野球から逃げ出すことも確定的なことのように思えた。


  
  次の週にももう一度高校の練習には行ったけれども、特に変わった想いは湧いてこなかった。その日、家に帰ってから父親に野球をやめようと思うこと、高校は地元の公立高校に行こうと思うことを伝えた。父は特にあれこれ言わなかった。母親はお金がかからなくて済むのでよかった、とボソリと言った。特にそれ以上もそれ以下もなく、僕の野球人生は終了した。そして、その時に僕の中ではすでに、ならばラグビーをやろう、というのは新しい確定事項として生まれていた。沈む陽があれば、登る陽がある。僕の中では知らぬ間にラグビーに対する思いがしっかりと萌芽していた。

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