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UNISON SQUARE GARDEN「Simple Simple Anecdote」考察

UNISON SQUARE GARDEN 8th Album
“Patrick Vegee” の11曲目である「Simple Simple Anecdote」

今回はこの曲についてかなり独自の考察を書いてみた。





考察


僕の言葉が死んだ時 

アスファルトは気がつきやしないだろう

車のエンジン音おみやげに

一つ物語が終わる


僕の言葉が死んだ時
何故僕の言葉は死んでしまったんだろうか。何も話せなくなってしまったんだろうか。それほど何か辛いことがあったんだろうか。

アスファルトは家の外に出ればそこら中に広がっている。つまりアスファルトは気が付きやしないだろうというのは、周りのみんなは誰も自分の悩みや辛さなんて気が付いてくれないだろうということなんだろう。

車のエンジン音おみやげに
一つ物語がおわる。
車はアスファルトの上を走るもの。つまりこの歌では、周りの人を押しのけて“僕”の中に飛び込んでくる存在を指す。“僕”にとって特別な誰かなんだろう。そんな誰かがエンジン音をお土産に、つまり何かを言い残したことによって、何かしらの物語が終わってしまった。

きっと“僕”は、大切な誰かに何かを言われ、何かを終わらされ、傷つき、何も言葉を紡げないほど辛い状態になってしまっているのだ。一体何の物語が終わってしまったんだろう。可哀想。



瞬間の循環に逡巡してる間に

大嫌いな勲章がまた街になる


瞬間の循環に逡巡してる間に
瞬間→極めて短い時間
循環→ 一回りして元にかえり、それを繰り返すこと。
逡巡→ためらって尻込みすること。

“僕”はなんらかの短い記憶の中に囚われ続け、そこから抜け出せず、前にも進めず、尻込みしている状態なのだろう。“僕”の心の中の葛藤がよく投影されている歌詞である。
私の想像では、大切な誰かから言われた言葉と、それによって終わらされた物語への記憶に囚われて、悲しくて何も出来なくなってしまっているのだと思う。

大嫌いな勲章がまた街になる
勲章は、何か偉大な功績をおさめたとき授けられるもの。
しかしそんな誇らしいものであるはずの勲章に、この歌の歌詞においては「大嫌い」という個人的な感情が付与されている。勲章に対する皮肉な気持ちがここから読み取れる。つまりここにおいての勲章は、“僕”にとって大嫌いなものを、皮肉って立てている様子がうかがえる。

そんな嫌いなものが街になる?一体どういうことなのだろう。

私の考えでは、それ以前の
「瞬間の循環に逡巡してる間に」かけて、
“僕”が嫌な記憶に囚われて何もできない間に、皮肉にも色々な物事は進んでいくので、“僕”が理不尽さを感じている様子を描写しているのだと思う。

街を作るのには当然ながらとてつもなく時間がかかる。僕が理不尽さを感じて何もできない間に、街ができる程時間が経ってしまったのだろう。

“僕”は辛い記憶に囚われて何もできないでいるのに、時は着々と進んでいくので、その無常さに理不尽な怒りを覚えているのだ。辛いのは分かるけれど、立ち止まっているのは“僕”自身なので、少し傲慢である。



「そんなことで運命を呼び出すな」

「今だって誰かが泣いてんだ」

でも泣きたい時に順番待ちもないだろう


上二段の歌詞にはわざわざ「」が付けられている。
つまりこの言葉は“僕”の言葉ではない。
他人にかけられた言葉であることが読み取れる。“僕”はここまでの歌詞を踏まえると、悲しい思いをして何もすることが出来ないでいる。そんな“僕”にこれらの言葉は投げかけられた。

そんなことで運命を呼び出すな
運命を呼び出すな?運命という言葉を呼び出すな?運命という言葉を気軽に使うなと、“僕”に対して他人が呼びかけているのだろうか。

あくまで私の考察だが、“僕”は大切な誰かに終わらされた「物語」に運命を感じていた。しかしそれは終わらされてしまったから、それを嘆き悲しんでいる“僕”を他人が見て、励ますつもりで呼びかけているのだろう。

あるいは僕が辛い記憶に囚われている様を運命・宿命のように感じている様を見て、他人が呆れて呼びかけたのか。いずれにせよ、“僕”はこの呼びかけに対してあまり良い気分はしていないだろう。

今だって誰かが泣いてんだ
これも他人にかけられた言葉。これに関しては割とストレートに考察ができる。悲しんで何も出来なくなっている僕に対して、励まし・呆れの意をこめてかけられた言葉だろう。そりゃこの広い世界、今この瞬間も悲しくて泣いている人は沢山いるだろう。

そんな言葉たちに対して僕は
でも泣きたい時に順番待ちもないだろう
と意見を述べている。

その通りだ。泣くのに順番待ちがあるなんて聞いたこともない。どこかの誰かが泣いているからといって、自分が我慢する必要性なんてない。

ここにきて“僕”は、ある意味少し開き直っている様子がうかがえる。“僕”は少し前向きな気分になってきたようだ。




全部嫌になったなんて簡単に言うなよ

全部が何かってことに気付いてないだけ


この言葉は、少し前向きになった“僕”が、自分自身を奮い起こすために自分に対してかけているものなのだと思う。

全部嫌になったなんて簡単に言うなよ
何も言葉を紡げなくなるほど、前に進めず尻込みしていた“僕”だけれど、「全部が嫌になった」なんて口にしてはいけないと思えるようになったようだ。何か希望を見出し始めている様子も少しうかがえる。

全部が何かってことに気付いてないだけ
「全部」だと思って見ていたものは、実は「全部」なんかじゃない。
「何か」、名前がつけられる色々なもので構成されていることに“僕”が気付いた様子がうかがえる。物事を、つまりここでは“僕”が辛く悲しい思いを抱えていた出来事に対して、「全部」という大きな塊で捉えていたけれど、それは違っていたのだ。“僕”の視野が広がった様子がよく分かる。



信号は変わる  星は生まれるから

今日はなんとかなるぜモードでいいや


信号は変わる
僕の気持ちが変わった様子がこの歌詞からはハッキリ読み取れる。

星は生まれるから
星は夜空を見て分かるように、とってもキラキラしている。そんなキラキラしているものがどうやら生まれたようだ。ここまでの歌詞で、僕の気持ちが星のようにキラキラしたものに生まれ変わった様子がよくうかがえる。

今日はなんとかなるぜモードでいいや
これは結構言葉の通りだ。
星のようにキラキラした気持ちをたたえた“僕”は、今日は「なんとかなるぜー」と思えるようになったようだ。
ものすごく前向きである。その一方で投げやりさもまだ若干感じるような、感じないような。




君の優しさが死んだ時

お月様は雲に隠れるだろう

薄明かりを頼りにして

また会える隙間を探す


君の優しさが死んだ時
ついに“僕”と対をなしそうな“君”という存在が登場してきた。
私の想像では、“僕”を悲しみのどん底に突き落とした誰かとは、“君”である。

そんな酷い“君”の優しさが死んだ時。多分これと同時に“僕”の言葉も死んでしまったんだろう。“君”が優しくなくなってしまったから、“君”が非情になってしまったから、“僕”は何も言えなくなるほど辛い思いをすることになってしまったんだろうな。

お月様は雲に隠れるだろう
あくまで私の予想だが、お月様とは“君”のこと。
つまりお月様が雲に隠れるとは、きっと“君”がどこかへ行ってしまった様子を表しているのだろう。ここまで考察してみて分かるのは、“僕”はおそらく“君”のことが好きであるということ。そりゃそんな相手に非常に当たられてどこか行かれたら、“僕”は悲しくなっちゃって何も言えなくもなるよ。

薄明かりを頼りにして
また会える隙間を探す

お月様は雲に隠れたとしても、うっすら光を残してくれる。
この歌詞はきっと、“僕”が“君”のかすかに残る痕跡を頼りにしながら、何処かへ行ってしまった“君”に会えるタイミングを探しているのだろう。健気なのかもしれないが、“君”からしたら迷惑かもしれない。




さよならを口癖にしちゃったら

純粋の天秤は迷子になってしまう


さよならを口癖にしちゃったら
一体「さよなら」を口癖にしちゃったら何が起こるというのだろう。

純粋の天秤は迷子になってしまう
純粋の天秤……。一聴しただけでは意味が分からない。
とりあえず天秤とは、重さが同じことを測る道具である。
そんな天秤は、「公平さ」「平等さ」を象徴する道具として弁護士バッチの中央に描かれている。

そして今回は純粋を測るものとして天秤は利用されているようである。
そしてそれが「さよなら」を口癖にしてしまうと迷子になってしまうようだ。意味がわかるような、分からないような。

これもあくまで自己解釈だが、
「さよなら」を口癖にしちゃうとは、諦めを口癖にすることと同義。
そしてそんなことをしていると、“僕”の中にある純な判断基準がなくなっちゃうよと言いたいんだと思う。

“君”が何処かに行ってしまって、現状から逃げたくなるのもわかるし、諦めたくなるのもわかるよ。けれどもそんなことをしていたら、“僕”の中にせっかくある正しくて無垢な部分がなくなっちゃうよ。そう言いたいのだろうか。あとは悲しさにかまけて冷静さを失うなという忠告のようにも感じられる。



「それさえも必要なことなんだ」

「でもだって決まりはあるもんだ」

笑えるな  そんな不文律はインチキだよ


またここで他人から何かを“僕”は忠告されている。

「それさえも必要なことなんだ」
おそらく、辛い現実から逃げてしまいたいけど葛藤をしている僕にかけられた甘い言葉だろう。一見優しいようにも聞こえるが、本当に逃げることは必要なことなのだろうか。

「でもだって決まりはあるもんだ」
現実を受け入れろというストレートな意見のように思える。
“君”はいなくなってしまったの、それでおしまい。とでもいうような。
“君”に会いたくて足掻いている“僕”にとっては酷な話だ。

そんな他人からの発言に対して
笑えるな そんな不文律はインチキだよ
と“僕”は言う。

僕は他人からかけられた言葉に対して「笑えるな」程度しか感想を持っていないようだ。随分“僕”は強くなった。

不文律とは、明確化されていない暗黙のルールのこと。
おそらくこの曲の歌詞においては、不文律≒今まで他人からかけられた言葉である。

“僕”はここまでかけられた普遍的な言葉に対して、そんな言葉はまるっきりインチキだと笑い飛ばしているのだ。本当に強い、最初に比べ成長を感じる。

きっと“僕”は、世間に蔓延っているような意見に揺るがされないような、自分だけの意思・考えを確立したのだろう。




誰にもわかんないことを解き明かしても

誰にもわかんないまんまでいいのかも


誰にもわかんないことを解き明かしても
きっと強くなった“僕”は何かを解き明かしたのだろう。
私の考えでは、“僕”は“君”の居場所が分かったか、もしくは“君”の考えていることが理解できたんだと思う。

でも“僕”は分かったことに対して
誰にもわかんないまんまでいいのかも
と思ったようだ。

ここからは“僕”が分かったことに対して、「誰かに言う必要性がないな」と判断している様子がうかがえる。それは“僕”が「他人に何かをひけらかしたところであまり意味がない」と気付くほど成長できたことの表れなのか。それとも“僕”が“君”のことでいろいろ分かったことを独占したいからなのか。
私的には前者7割後者3割だ。

いずれにせよ、ここまで他人からなんらかの言葉をかけられてきた“僕”が、自分自身で物事を考えられるようになったということで、“僕”の成長を非常に感じる。




一人ぼっちかも  けど不思議と誰かが

同じ光を見るなんてこともある  分かってよね


一人ぼっちかも
先程“僕”は他人に頼ることから卒業した。
そりゃ一人ぼっちかもって少し不安にもなるよね。

けど不思議と誰かが
同じ光を見るなんてこともある 

これも全て私の考察だが、
一人だと思っていてもきっと誰かが同じことを考えてくれてるよ、という希望を胸に“僕”は抱いているのだと思う。そしてその“誰か”が“君”だったらいいなと“僕”は思っているのだろう。

分かってよね
“僕”が“僕”自身に言っているのか、はたまた“君”に対して心の中で切に願っているのか。どちらか分からないけれど、“僕”は漠然と未来に対して明るい展望を抱いている。素晴らしい。




全部嫌になったなんて簡単に言うなよ

全部が何かってことに気付いてないだけ


この歌詞はこの曲のこれ以前にも登場した。

全部嫌になったなんて簡単に言うなよ
全部が何かってことに気付いてないだけ

しかしあの時とは違って、もっと気持ちは前向きである。
以前は自分に強く言い聞かせるように、この言葉を、この考えを、呼びかけ、刻んでいたはず。けれども今回は口ずさむように軽く、もうこの考えが自然に自分の中に溶け込んでいるようだ。ここまでの歌詞でそう文脈理解できる。




年月は重なって 恋をして交わるから

今日はなんとかなるぜモードでいいや

今日はなんとかなるぜモードでいいや


年月は重なって 恋をして交わるから
はーん、ここにきて“僕”と“君”が恋をしていたことがなんとなく分かった。
薄々気付いてはいたけれど。

時間が経てば“君”とまた恋をしあうだろうなと“僕”は確信しているのだろう。凄すぎる、傲慢なんだか、自信家なんだか、それとも確信が本当にあるのか。何にせよ凄い。

そんな自信、確信があるから
今日はなんとかなるぜモードでいいや
今日はなんとかなるぜモードでいいや
と“僕”は2回も繰り返すことができるのだろう。




僕の言葉がまた生まれる


良かったね。
僕の言葉が死んだ時から始まったこの曲。
最後は僕の言葉がまた生まれる場面で終わった。

“君”と“僕”がどうなったのかは分からない。
けれど“僕”は新しく前向きな“僕”になった。
まるで生まれ変わったかのように。
「また」生まれ変わったので、以前の“僕”のいい所はそのままに、マイナスに見えがちだった部分がプラスに変わったんじゃないかなと思ったり。

そんな“僕”なら、きっと“君”とどうにかなるんじゃないかな。
知らんけど。

明るい予感を漂わせてこの曲は終わった。




感想


Anecdote

この曲の題名に入っている「Anecdote」とは、逸話・秘話という意味である。世間にあまり知られていない物語、この歌ではそんな物語が謳われていたのだろう。

“僕”と“君”との物語が。

“僕”は曲中で「誰にもわかんないまんまでいいのかも」と述べている。
自分たちの物語が誰かに触れられることを特段望んでいないようだ。

Simple Simple Anecdote という題名には
“僕”のそんな純粋かつ単純な気持ちが込められているのだろう。


誰にもわかんないまんまでいい

私がこの曲全体を通して学んだマインドは、この歌詞に表現されている。
本当はこうだったんだよ、絶対こうあるべきだよ、そんな自分の意見を周りに訴えたところで何になる?

色んな人に自分の意見を訴えたところで得られるのは、世間的な普遍的でつまらない評価だけ。ハリボテのような、実態は虚無である功績を得たところで何になるというのだろう。

だからもう誰にもわかんないまんまでいいのかも
自分で解き明かしたことは自分で大切にすることで完成させればいい。どこかの誰かに何か評価を求めなくったっていい。一時的に虚栄心を満たすために周りに話すことなんて時間の無駄だ。自分のことは自分で評価してあげることが大切なんだ。そんなマインドをこの歌詞から私は学んだ。

でもね、別にね、誰も本当にいらないって意固地になっているわけではないんだよ。ただ、他人軸にならないためにこんなマインドを持ち続けていた方がいいなってだけなの。上部や憶測だけで判断しない人にならいろいろ分かって、そばにいて欲しいよ。

ただ世界にそんな人は少ない。だからこそ理解してくれない人に固執するんじゃなくて、理解してくれる人を大切にするためにこのマインドは必要なんじゃないかな。自分で自分を評価できるようになったら、理解ない他人からの評価もプラスな方向性で受け取れるようになるはずだしね。そもそも「理解ない」なんて思うことが間違いなんだよ。理解がないことは当たり前のことなんだから。

本当に大事なことに対して突き進むために、その時に自分の目が曇らないように、「誰にもわかんないまんまでいいのかも」って心を強く持ちたいね。


そういるためにも、これから先ずっと今日はなんとかなるぜモードでいいや


考察自体に意味はない


ここまで書いておいて言うセリフでは無いのだが、歌詞の考察など全くする意味がない。UNISON SQUARE GARDENにおいては特にそうかもしれない。

この歌はまだストーリー性がある歌詞が連続しているが、大抵の場合UNISON SQUARE GARDENの生み出す歌の歌詞には一貫したストーリー性もなにもない。実際私も、この歌のことは8thアルバムの中で1番好きだが、ストーリー性を気に入って好きになった訳では無い。というか、全くこの曲の歌詞に対してそんなものは求めてなかった。

今回はあえてこの曲にストーリがあると考えてみるならばと思い考察をしてみたが、考察をしたからといってこの歌をますます好きになるとかは別になかった。元々好きだし。

私がこの曲を好きになった理由はもっと単純なことだ。

僕の言葉が死んだ時?言葉が死ぬって何よ!?という素朴な疑問。瞬間の循環に逡巡してる間に、のギターボーカルの斎藤さんの歌い方の癖が好きだとか。全部嫌になったなんて簡単に言うなよという言葉に対してのストーレトな感動。「」でくくられてる歌詞を歌う斎藤さんの早口な感じが好きだとか。そもそも曲の出だしのドラムの感じ良すぎーーとか。あとは個人的に短い曲は聴きやすいから好きだわ〜って思っただけとかね。

曲全体を、今回みたいにこんなに考察して好きになった経験なんて一度もない。随所随所拾い上げるように好きになっていくことが殆どだ。UNISON SQUARE GARDENを好きな皆さまは大抵そうなのではないだろうか。というか、音楽が好きな人なんてみんなそうじゃない?そんな全体しっかり考えてから好きだって自覚する?普通無理でしょ。もっと瞬間的で運命的な感じでしょ。ああ、もう長く書きすぎて疲れてうまく言えないけれど。

兎にも角にも、こんな短い曲でもこんなに考察をかけてしまうのだから、考察なんて疲れるしするものではない。しかも正味この考察が合っている確率なんて非常に低いわけなのだから。本人ではないから正解なんて永遠に分からないわけだし。今回の考察も無理矢理ストーリーを繋げるために、私独自の解釈をおり混ぜすぎているので、実際田淵智也が読んでみたら「全部憶測にも程があるよ」って笑い飛ばされそうな気がする。

うん、私には歌に対してこのような向き合い方は向いていないということがよく分かった。もう多分やらない。


終わりに

まあでも、「意味なかったわー」って虚無的な感じで終わりたくはないので、考察をしてみて良かったことを綴ってこの文を終えようと思う。

歌詞を考察することは、今自分が何を考えているかを分析するのに非常に役に立った。ストーリーのない(少ない)ものに、ストーリーを見出さなくてはならないのだから、当然自分自身の経験・感情・思考から足りない部分を補完しなければならない。

歌詞の考察という作業は、自分自身の中にある潜在的な願望を解き明かす作業と似ているのかもしれない。私自身後々考察を読み返してみたら、「私ってこう思いたいんだな」と、なんだか自分自身の願望が垣間見えた気がした。女々しくて、恥ずかしくて、嫌だけれど、歌詞の考察を通して自分自身を客観視することと、自分の考えていることを理解できたような気がする。

まあもうやらないけどね、ここまでの長さのやつは。

こんなに変で長くてまどろっこしい文読んでくれてる人絶対いないけれど、もしここまで読んでくれている人がいたら、誠にありがとうございました。

皆様も気が向いたら考察、やってみてください。



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