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身近な人間の「死」を受け入れる方法

大切な人が突然亡くなる。
そんな経験をしたことがある人は意外と多いだろう。

2年前の2月、私の大好きな先輩が亡くなった。
24歳だった。

彼は、私の人生を支えてくれた大切な人だった。
一応説明しておくが、全く恋愛的な関係ではない。
友愛的な、というかそれを超えた家族愛のような形で。

私は未だに彼が死んだことを受け入れられていない。

しかしもう、流石に受け入れたい。
いなくなってしまったという現実を。

ここでは、悲しい現実をどう乗り越えたらいいか
自分なりに掘り下げて書いていこうと思う。


「死」とは

喪失

「死」とは「喪失」だ。
残された私達にとってという話だが。

「死」という現象は
私達の現実世界から
その人の存在を永遠に無くし
その人との未来をも奪ってしまう。

その人との新しい記憶・思い出は
もう創り出されることが絶対に無い。
もう絶対に元に戻らない。

何を思おうと、
何をしようと、
絶対に亡くなった人は生き返らない。

古来から人々は「死」を恐れ、
「死」からどう免れるか、
「死」をどのように克服するか、
試行錯誤を重ねてきた。

しかし未だに人間の「死」を克服する方法は見つかっていない。
宗教的な救済思想などは、「死」を現象的に克服したわけではない。
極めて観念的で、形而上学的だ。
全人類に普遍的に適応できるような「死」の克服など、有史以来結局一度も発見されていないのだ。

その為、「死」は全ての人間に
平等に「喪失」を突きつけてくる。

逃れようはない。

永遠

「死」は喪失と同時に「永遠」も突きつけてくる。

生きている時間は有限だ。
永遠の命などない。
これも古来より、死を克服する方法として
模索されてきた道である。

しかし未だに科学的な実例は上がっていない。
所謂オカルト的な噂はあれど、所詮その範疇に留まる。

「死」は一度発生してしまったら
その現象・状態は永遠に続く。
これはおそらく今後も不変の真理である。

私達、生きている人間が、
唯一「永遠」を突きつけられてしまう現象は
「死」のみなのかもしれない。

必然

生きとし生けるもの
必ず「死」は訪れる。
例外はない。

「死」という現象は、
何をもっても逃れようがないのだ。

私達人間は、この世に生まれた瞬間から
「死」に向かって進んでいる。
「死」に進まぬ「生」などない。

「生」が背負っている宿命が「死」であると言っても過言ではないだろう。
「生」の本質は「死」、「死」の本質は「生」なのかもしれない。

平等

「死」は全ての人間に「平等」に訪れる。
人間が人間である以上必ず。
更に言えば生きとし生きるもの全て、必ず。

「死」を目の前にすると全ての生命体は「平等」なのだ。

誰かが、何かが、特別扱いされることなど決してない。

何をしても、必ず「平等」に「死」は全ての生命体に訪れる。

これも例外はない。
特別扱いなど、どう起ころうか。


ここまで「死」とは一体どのような現象・存在なのか
ざっくり取り上げてみた。

次からは「死」の性質を
一体どのように受け止めていったら良いのか
考えてみよう。


「死」という現象の許容

現実的な解釈

先に述べたように、
「死」は全ての人間に平等かつ必然的に訪れる。

そこに例外などなく、
訪れてしまった以上、
永遠にその現象は継続する。

「生」を保持する私達は、
「生」を保持し続ける以上、
この法則に従うしかない。

これは理不尽な現実ではない。
平等な現実なのだ。

輪廻転生

一度は聞いたことがあるだろう。
インド哲学、それから派生する様々な宗教において、この思想は説かれている。

簡単に説明すると、
命あるものは何度も転生し、
様々な生類(人間・その他動物など)に
生まれ変わっているという考えだ。

インドの哲学や、それから派生する宗教的には
その生死の繰り返し(輪廻)から
逃れることが至高とされている。
「生」は苦しみであると。

この考えを信ずる者は、
これによって「死」の絶対性を
許容しているのかもしれない。

日本においてはこの考えは緩やかに育まれ、
「生」は苦しみではなく、
ただ「生まれ変わり(輪廻)」という
システムが肯定的に組み入れられている。

簡単に言うと
「死んでも生まれ変わって戻ってくるよ」
的な捉え方がなされている。

この緩やかな受け入れ、思想の混ぜ方が
実に日本人らしい。

「死」を悲観的に見ず、
人生を肯定的に生きるという意味では
輪廻転生思想の日本風解釈は
なかなか成功しているのではないだろうか。

何だかこの
話題は掘り下げると恐ろしいことになるので
この辺でふわっと辞めておこう。

来世思想

今世:生きている私達にとっては今の人生
を終えた後に、
来世という次の人生・世界が
待ち受けているという思想。

古代エジプト
インド
日本では神道
仏教において見られる思想である。

生と死は緩やかに繋がっている
死は生の分断ではない
という解釈なのだろうか。

これで「死」の絶対性を
許容できるのであれば
ありなのではなかろうか。

たおやかにこの考えを取り入れることは
「死」を受け止めるためには良いかもしれない。

これも個人的に精査している内容なので
ここら辺で辞めておこう。

霊魂の存在

「死んでも魂はこの世に残っている」
「死んでしまった人は幽霊になる」

怪談話や、「死」の話題に際して
このようなフレーズはよく耳にするだろう。

霊魂とは、
肉体とは別に精神的な実態として
存在していると考えられているもの。

古代エジプト、古代ギリシア、古代インド
キリスト教やヒンドゥー教、道教、
日本においては
古神道・神道・仏教
とにかく広い範囲で見受けられる
ある意味一般的な考え方である。

この霊魂、魂という存在は、
死後もこの世に残り続けるという考えが
日本では広く流通している。

来世思想とのミックス要素が
何とも日本人らしい。

これも死の許容という観点において
中々にありなのではないだろうか。

死の持つ「喪失」を
克服、あるいは逃避する上で
役に立つ考え方である。

死を許容する考え方を幾つか書いてみたが
これを身近な人間の「死」において
即座に適応することは難しい。

ここからは
より現実的に特定の故人の「死」を
どのように乗り越えていくかを
かなり主観的に綴っていこうと思う。

身近な人間の「死」を受け入れるには

「忘れよう」としないこと

忘れたくても忘れない。
忘れることなんて不可能だ。

いくら故人を思い出しそうな
トリガーになるものを捨てたって消したって、その人との記憶や思い出が消えるわけではない。

私自身、先輩がくれたものや
殆どの写真を消したり捨てて、
LINEのトーク履歴も見返して
思い出さないように消したり、
TwitterなどのSNSアカウントも
見れないように・見ないように気をつけて、
先輩と一緒に取り組んできた
音楽関連のものは一切触れないようにしてきた。
私は楽器を、特に弦楽器を幾つか弾けるのだが、
今はほぼ完璧に辞めてしまっている。
どうしても亡くなった時の喪失感を思い出したくないから。

でもこんなことしても正直全く意味がなかった。

今だって思い出すもんは思い出す。

無理に忘れようとしても全くの無駄だった。

私は音楽を聴くのが好きだったんだけれども
音楽と先輩を結びつけてしまうから
一時期全く聞かなかった。

本当は好きなことが、
だんだん嫌なことになって、
どんどん苦しくなっていった。

私は気付いた。
忘れようとしても忘れることなんて無理だ。

余計虚しさが増して、
余計悲しさが増して、
余計思い出してしまうだけ。

日常に制約が増えて、
余計悲しく苦しくなるだけ。

忘れようとすることでかえって
ずっと「死」に囚われてしまっていた。

だから私は、
大切な人の「死」を忘れて乗り切ろうとしている人へ、
「忘れようとしないこと」を提案する。

これこそ身近な人の「死」を受け入れる一歩だ。


思い出を整理する

前述の「忘れようとしないこと」に則って
思い出の整理も続いて大切な実践となる。

故人が一体どのような影響を
自分に与えてくれたのか、
故人がくれた時間・思い出
その全てを全て考え直す作業は大切である。

私自身
彼が与えてくれた大切な思い出や
彼が人生に与えてくれた影響を
一つ一つ整理することによって
現在、彼をより自分の中で大切な存在にすることが出来た。

無理に忘れようとせず、全てを整理できているからこそ、彼の存在価値をより一層高めることができた。彼はそんなこと望んでいないかもしれないけれど。

思い出を整理することは、
前を向き、故人を大切にすることに繋がる。

故人を「偲ぶ」という行為の
正しい手順なのではないだろうか。

お墓参りに行く

弔おう。

お墓は死者のために存在するというよりは、
残された生者のために存在しているものだ。

お墓に行き、
お墓に水を流し、
お墓にお花やお菓子を供え、
故人に祈りを捧げよう。

この一連の儀式的行為は、
自身の気持ちの整理に繋がる。

お葬式は故人が故人になったことを
強く生者に刻みつけるため。

お墓は継続的に
故人が故人であることを
生者に思い出させるため。

死に関連する儀式・物は
故人のためというより
生者のために存在している。

存分に利用しよう。

残されたものに目を向ける

これが本当に大切なステップだ。

私たちを置いていってしまった
死者は何を残してくれただろう。

思い出、物、教え、
様々なものがあるだろう。

それを大切にしよう。

思い出を美化することもこの場合大切だ。

残されたものに目を向けることが
死者への最高の弔いと
「死」を受け入れた上での最高のご褒美になる。

死者はもう戻ってこないけど
残してくれたものは沢山ある。

そう思えたら単純に少し嬉しくないですか?

前を向いて、ジメジメ生きないために
本当に大切なステップだ。

周りの人に目を向ける

私たち生者は今この瞬間を生きている。
立ち止まることは出来ない。
今この瞬間もいつ起こるかわからない
「死」に向かって近づいているのだから。

残された「死」までの時間で
一体何ができるのか。

どうせなら前向きに生きていきたいじゃないか。

故人との思い出に縛られて、
周りの生きている人々を蔑ろにしてはいけない。

これは少し話が違うけれども
同じ人間なんてこの世にいない。
過去・故人と現在・生者が
完全に一致することなんてない。
故人との思い出に囚われて、
生者にしっかり向き合えなかったら、
その人が死んだ時、絶対後悔するだろう。

死んでしまった人に目を向けすぎるな。
今近くにいる人に目を向けよう。

自分の死生観について考える

私の場合、これが人生の転機となった。

これについてはいつか書こうと思う。

自分の死生観を理解することは
自分がこれからどう生きたいか
考えることに繋がってくる。

私はたまたまこの行為が出来た時が
彼の死体を見た時だったんだけれども
そのおかげで、何とか生きるために
前を向くことだけは出来た。

まぁ、彼の死を克服するのには
時間がかかってしまったのだけれども。

一回これについては
日本の宗教観とか、自身の信じる宗教観とか
もう全く抜きにして、
自分自身の心の赴くままに考えてみて欲しい。

身近な人が亡くなっていない人でも
自分の生き方や、今後のために、
絶対に役に立つ思案となるだろう。

終わりに

私はもう、はっきり言って
2年間もクヨクヨ故人を偲び続けたことを後悔している。

今を精一杯生きるには
もっと早く前を向くべきだった。

けれどもそれほど故人を大切に思い、
真面目に偲んでいたことを思うと、
決して無駄だったとは言い切れない。

実際それほどまでに人を大切に思えたこと
それ自体はとても誇らしい。

しかしもう前を向いて、
過去を過去にする時が来た。

まだ生きている・残っているものに
これからは純粋に目を向けて行動していこう。

同じ思いをしている人には是非頑張って欲しい。

生きている限りは何とかなるんだから。


余談

今回、この文章を書いてみて、
私自身「死」への許容のプロセスを踏めて
とてもいい機会となった。

また私は死生観について研究を行なっているのだが
軽く「死」について語ることにより
自身の研究を見直す良い機会となった。

「死」について考えることは
「生」を大切にすることに繋がる。

これからも継続的に行なっていきたい。





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