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ひやり

 ひやり。恭子が触れたそれは、ひんやりとしていた。冷蔵庫に入っていたから、という理由だけではない。赤枠のマス目が鉛筆の字で埋まった原稿用紙の束は2枚重なって縦に3つに折られており、冷蔵庫のチルドルームのドアポケットにそのまま無造作に放られていた。その違和感さが、さらに何か冷たいものを恭子に感じさせたのだ。
 ダイニングテーブルの椅子を後ろにひいて、恭子はそのままその紙をかさかさ広げる。傾いた夕陽がさし込んで、明るいとはいえないダイニングキッチンの白い壁の、アナログ時計が照らされる。6時。夫の帰宅時間まではまだ間がある。恭子は鍋の火を止めて、取り出した昨日の使いかけの玉ねぎを冷蔵庫に戻して、見覚えのあるぎこちない文字を一番右端の上から目で追った。
〝だいどころ〟 〝三年三組 城堂陽子〟
「陽子の」でも陽子の作文が何故こんな場所に?
〝うちのキッチンのごみばこには目玉が九つ入っています。そのうちの二つは昨日煮たメバル、二つはおとといのカレイ、そしてあとの五つは〟そこまで読んだときかちゃりと玄関扉の開く音がした。「お母さん、ただいま」
 陽子だ。恭子は慌てて、がたんと椅子を揺らして立ち上がる。そのひょうしにテーブルの隅のソルトボックスが倒れて、ピンクのチェックのテーブルクロスの上に白い山をつくった。恭子は食器棚の引き出しに急いで作文をしまうと、近づいて来る陽子の足音を待つ。外から帰ると娘の行く先はまっすぐここキッチンだ。習慣だ。恭子は知っている。育ち盛りの彼女は、でき立ての夕飯をつまみ食いするのが大好きなのだから。
「お母さん? 今日の晩御飯なあに、もうおなかぺこぺこ。」
 いつも通りのこんな言葉を待っていた恭子の耳には、それは不思議と届かなかった。陽子はものも言わずにキッチンルームに入ってきて、まず冷蔵庫を開けたのだ。陽子がチルドルームの扉に手をかけたそのとき、恭子は何故か身震いがした。
「お母さん?」
 その扉をいったん閉じて、恭子の方を振り向いた陽子は、冷たい声でそう言った。声に温度は無いが少なくとも恭子にはそんなふうに聞こえたのだ。
「この中の…この中にあった作文知らない?」そう聞かれると恭子は思っていた。でもそう尋ねられるのが恭子は怖かった。何故だろう。ああ、あったわよ、と食器棚から出せばいいではないか。普通娘の作文を母親は読んでもいい筈だ。だけど、恭子の心は“陽子に私が作文を読んだことを知られてはいけない”と言っている。
「こぼれてるよ塩」
 次の言葉を待つ一瞬の静寂を破ったのは、陽子の、テーブル上の塩の山を指さしながら言うそういう言葉だった。陽子はそう言っただけだった。
 冷たい。恭子はずっとそう感じていた。陽子がここに入ってきた時から、その時から、何か、辺りの空気が冷えている。
 何か違う。この子は。本当に私の娘だろうか。そんな考えが恭子の頭をよぎる。昨日までは、いや今朝までは陽子は普通だった筈。考えすぎだわ。恭子は自分に言い聞かせる。でもあの作文。そうあの続きには何が。
 陽子は娘は黙ったまま、テーブルの定位置について夕飯を待っている様だ。恭子にとっては見慣れた光景の筈だ。ただいつもの陽子はその日学校であったこととか友達のこととか、うるさいくらいに、台所に立つ恭子の背中に向かってしゃべり続ける。が、今日は珍しく静かで言葉が無い。ただそれだけの違いなのに。
 残りの五つの目玉は。さっきの作文の続きは恭子には予想できなかった。どう続くのだろう。しかし、目玉なんてあれが小学三年生の作文の出だしだろうか。私は見間違えたのではないだろうか。もしかしてこれは夢なのではないか。恭子は心の中で一人問答する。塩のこぼれていることを指摘されても、それを片付けもせずに、恭子はただテーブルの上におかれた陽子の手を見つめる。陽子は相変わらず何も言わない。夕飯の支度をまったくしていない恭子の様子を気にもしないようだ。
 本当は。恭子はうすうす感づいていたのだ。この子は最近少しおかしいのではないだろうか。もしかすると本当の陽子ではないのではないか。今日の昼のサスペンスドラマのワンシーンが頭の中でリピートする。私はもしかして娘に殺されるのかもしれない。このままほら、そこの包丁で。扉の中の出刃包丁を手にとって。
「お母さん?どうしたの、包丁もって」
 やっと陽子が口を開いた。その場の静寂が動く。恭子は知らぬ間に台所に立って包丁を握りしめていた。
「まな板の上に何ものってないのに、何を切るの?」
「…」
「ねえ、今日のばんごはんはなあに?私、カレーがいいな」
そこにいたのはいつもの陽子だった。恭子ははっとする。さっきあんなに冷たいと感じた空気はもうそこにはなかった。
 この空間は恭子のよく知っている空間だ。恭子が一日のほとんどを過ごす、この広いキッチンの日常の母娘の空間だった。いつもの様な空気が辺りに拡がっているのが判って、恭子はやっとほっとした。
「ごめんごめん。えっと、カレーね?きのうカレーの肉を買っておいた筈よ。陽子がそろそろそう言うんじゃないかと、お母さん思って」
 恭子は長い長い沈黙のあとで、せきをきったようにしゃべりだし、いつもよりおしゃべりになったようだった。
 何て重苦しい、長い嫌な沈黙だったんだろう。何をこんなに気にしていたんだろう。恭子は気をとりなおして冷蔵庫の野菜室をあける。玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、そして……
「え?」
 恭子の手が止まった。野菜室の奥に、じゃがいもの袋のその下に。ひやりとしたこの物体は。
「あっ」
 手が。ナイロン袋にくるまれて、手首から先の手だけが六つ。一番奥に隠すようにされているのを恭子はみつけた。みつけてしまった。そのうちのひとつは、薬指に恭子と同じ種類の指輪をしていた。
「なにおどろいてるの?お母さん。だから私の作文も隠したんでしょう?九つの目玉の正体がばれてしまうから。私はお母さんが作文を冷蔵庫にしまうのもちゃんと見てたのよ。今度の新作のクリームスープには良いだしが出るからどうしても人間の手が三人分必要だって、お母さん台所で一人つぶやいていたじゃないの。聞いていたのよ。ちゃあんと私」
 陽子が、台所の床にぺたと座りこんだ恭子の前に立つ。
「夢か何かだと思ってるんでしょ?自分がいけないことをしたから。私はちゃんといえるよ。おばあちゃんとおじいちゃんと、それとお父さんのだよ。おじいちゃんの片目は戦争でなくなっちゃったから、六個じゃ無くてあわせて五つって、知ってるもん、私。お母さん、すぐ忘れちゃうんだから」
「…」
「だから今晩はカレーじゃなくて、どっちかって言うとシチューなんだよ。とびっきりおいしいお母さん自慢のスープ。わたし具がいっぱい入ってるのがいいな。ね、お母さん?」

小1の時に小説家になりたいと夢みて早35年。創作から暫く遠ざかって居ましたが、或るきっかけで少しずつ夢に近づく為に頑張って居ます。等身大の判り易い文章を心がけて居ます。