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縄文時代 その時々の神奈川の土偶たち  その1 神奈川県立歴史博物館

神奈川県立歴史博物館で開催中の
縄文人の環境適応 令和4年度かながわの遺跡展
へ行ってきました。

この企画展では、最も栄えたと言われる縄文中期から晩期にかけての環境の変化と、それに伴った生活の変化を遺物を通して知ることができます。

「縄文中期」は、集落の数が増え、その規模も大きくなり、縄文時代を通して遺跡数が最も多く見つかっています。その後の「縄文後期」から、集落の数は減り規模も小さくなり、遺跡数は激減します。
それには「環境の変化」が大きな要因と言われています。人々はその変化の中をどのように生き抜いてきたのでしょうか。

縄文土器や道具類など多数の展示品の中から、ここでは土偶と顔面把手がんめんとって(土器に付けられた人面)から環境の変化を見ていきたいと思います。

企画展が行われているのは「神奈川県立歴史博物館」。
1904年(明治37年)に横浜正金銀行として建てられた西洋建築です。
およそ120年前に建てられた明治の近代建築は、昭和の時代に改修・増築され博物館となって今なお活躍しています。

それでは企画展を見ていきましょう。

縄文中期とは、どんな時代であったのでしょうか。

縄文文化が最も花開いたと言われる縄文中期(今から約5,400~4,500年前)ですが、その繁栄の始まりはその前の時代からの環境変化にありました。

縄文前期(今約から7,000年前~約5,400年前)は気候が最も温暖化し、そのため現在に比べて「海面が2~3メートル高くなっていた」と言われています。いわゆる「縄文海進」と呼ばれる現象で、日本列島の各地で海水が陸地奥へ浸入し、関東地方では栃木県まで海が大きく入り込んでいました。この台地の上に集落ができ、人口が増加していきます。

その後、縄文中期以降になると、ピークに至った海面上昇が徐々に低くなる「縄文海退かいたい」現象へと移り変っていきます。

この「縄文海退かいたい」の現象によって、遠浅の海岸や干潟が増え、海からの食料の確保がしやすくなりました。この頃が最も人口が増えた時期で、人口は「全国でおよそ26万人」を超えていたとされています。

人口増加と共に集落の数も増え、各地に大規模な集落が登場します。
集落の中心に祭りなどをする広場を設け、その近くに墓や捨て場、それを取り囲むように竪穴住居が設けられた「環状集落」が多く作られるようになりました。

そこでは祭祀などが多く行われるようになり、それと共に土偶が多く作られるようになったのです。

縄文中期の顔面把手がんめんとって(土器に付けられた人面)

2022年10月に神奈川県座間市で発見されたばかりの「顔面把手がんめんとって」です。「顔面把手がんめんとって」とは、縄文土器の口縁部に土偶の顔のようなものが付けられたものを言います。土偶が変化した形であるとも考えられ、中は空洞で表面はきれい磨き上げられています。

顔のついていたのは「深鉢形の縄文土器」であったと想定され、祭祀などで使う祭りの道具であったと考えられています。

顔の大きさは、高さは約13㎝、幅約15㎝、厚さ約3㎝、
手のひらほどの大きな把手がついていた土器は、かなりの大きさであったと思われます。

座間市 蟹ヶ澤遺跡出土

この「顔面把手がんめんとって」の特徴は、全国的にみても数少ない「両面に顔が付いている」ことにあります。

これが裏の顔です。
なんと両面の顔は区別がつかないほど、そっくりなのです。
両面に顔のある「顔面把手がんめんとって」は他にも見たことがありますが、ほぼ同じような顔を見たのは初めてです。

どこからもその顔が見えること、目立つこと、に重点をおいて作られたようです。同じような役割を果たしていたと思われれる、もう一つの「顔」があります。

土製頭部どせいとうぶ」と呼ばれる、土偶か顔面把手がんめんとってであったのか、未だ議論を呼んでいる人面です。

高さ17,7㎝もの大きさ、中は空洞で分厚く作られ、土偶であったとしたら最大級、顔面把手がんめんとってであったとしたら巨大な土器であったことになります。

鼻と眉が一体で作られ、大きな切れ長の目、ぽかんと開けた口の特徴は、神奈川県や山梨県に多い土偶の顔です。
先ほどの顔面把手がんめんとっての顔にもよく似ていますね。

この「土製頭部どせいとうぶ」の後ろには顔はありませんが、何らかを表現しているように作られています。

後頭部の中央には、髪を束ねたような、あるいはヘビのような生き物が貼りついているようにも見える装飾があり、その両脇に細かい渦巻文様が施されています。前から見ても後ろから見ても、祭りの道具として、人々の目を集める存在であったことが分かります。

縄文中期は、人口増加によって集落の形が変わり、それによって食料の確保や円滑なコミュニケーションをとることが生活上の重要なポイントであったと思われます。

祭祀を行うことには、人々の心を一つにし、争いなどが少ない暮らしを保つためであったと思われます。

その時に使う必須アイテムが、「顔面把手がんめんとって」や「土製頭部どせいとうぶ」であったのではないでしょうか。それらの大きな顔が、社会を安定を保っていてくれたのかもしれません。

次回は、縄文中期の神奈川の小さな土偶を紹介します。

*参考資料
令和4年度かながわの遺跡 冊子
特別企画 土偶展 長野県立歴史館
縄文土偶ガイドブック 三上徹也著 新泉社

最後までお読みくださり有難うございました☆彡






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